漆・執行
「……う、うーん」
と、男の呻き声が暗闇に響き渡った。
「――ここは?」
男は辺りを見渡してみたが、真っ暗で何も見えない。
耳を立て、周りに何か聞こえないか神経を集中させる。
頭の上から車が走る音が聞こえ、どこか橋の下で気を失っていたのだと考えた。
それともうひとつ。カサカサと何かが動いている音が聞こえ、そのすぐ後に「チュー」
という、ネズミの鳴き声も聞こえてきた。
「ネズミ? こんなところにもネズミっているのか」
男はそう呟くと、「ネズミかぁ…… 僕のこの状況にネズミなんて、まるで雪舟じゃないか」
苦笑いを浮かべながら、大宮巡査はネズミの足音が遠下がっていくのを感じた。
「それにしても、一体どれくらい寝ていたんだろう?」
大宮巡査は頭を震わせる。手足が縛られて身動きが取れない。
それどころか、今自分はどんな姿なのだろうかと考える。――裸にはなってない。
大宮巡査は体をうねらせ、前へ、前へと進んでいく。
が、自分がどちらに向かっているのかがわからない。
叢であることは肌で感じるが、一面がそうである。これでは進んでいる先が『川』であっても、気付けはしない。
――その期待を裏切らないように、大宮巡査は川に落ちた。
手足が縛られている以上、足掻くことすら出来ず、大宮巡査の体は川の中に沈んでいくと、意識も沈んでいった。
「――っ」
声が聞こえ、頬を叩く感触が伝わってくる。
叩いていく間、突然『パシン』と大きな音に変わった。
「げぇほぉっ! ごほぉっ!」
大宮巡査は咳き込み、意識を取り戻した。
うっすらと目を開けると、そこにいたのは赤い巫女装束を着た少女であった。
「……皐月ちゃん?」
大宮巡査は意識を取り戻してはいたが、まだ朦朧としている。
「はやく、皐月のところに行ってあげて。後のみんなはもう助かってるから……」
少女はそう言いながら、ゆっくりと手を大宮巡査の顔に翳すと、スッと目を閉ざした。
「大宮っ! 大宮っ!」
男の声が聞こえ、大宮巡査は目を覚ました。
「よかった。おい、岡崎っ! 大宮は無事だ」
西戸崎刑事がそう云うと、岡崎巡査はホッとした表情を浮かべた。
「さ、西戸崎先輩……」
大宮巡査は頭を振るい、西戸崎刑事を見遣った。
「ぼ、僕はいったい今まで……」
そう尋ねたが、「これはこっちの台詞ったい、俺たちも今の今まで何処にいたのかわからんかったとよ」
「なんか女の子の声が聞こえて、それに随ったら、大宮がいたんだよ」
岡崎巡査がそう説明すると、「女の子? まさか皐月ちゃん?」
大宮巡査がそう尋ねるが、二人は頭を振った。
「いや、皐月さんではなかったよ。彼女の年齢からしてみたら、少し幼かったしね」
岡崎巡査がそう説明すると、大宮巡査は狐につままれたような表情を浮かべた。
しかし、大宮巡査は意識が朦朧としてはいたが、はっきりと少女の顔を見ていた。
――あれは間違いなく皐月ちゃんだ。
でもやっぱり彼女と少し違っていた。
そう考えながら、大宮巡査は何故か背筋が凍るのを感じた。
ぬらりひょんは一人、鬼瓦の欠けた襤褸屋敷へときていた。
そこは、以前栢が訪れた場所である。
ぬらりひょんが入ろうとすると、パチンと静電気が奔った。
それを感じるや、ぬらりひょんは小さく笑みを浮かべる。
『目々連……。わたしだけど』
屋敷の扉が開き、中から老人が顔を出す。
「栢か? どうした、扉は開いているのだぞ……」
老人は目の前にいる栢に声をかけた。
『ごめんなさい』
栢はそう頭を下げるが、老人は盲目であるため、それが見えなかった。
「ここではなんだ。中に入れ」
老人は栢を手招きする。栢は顔を俯かせ、従うように一緒に中に入った。
屋敷の中に入り、老人は廊下を二、三歩ほど歩くや、急に立ち止まり、「それで、お前さんが欲しているものは見付かったのか?」
「な、なんのこと?」
栢は首を傾げる。
「呆けるでないわ。阿弥陀如来たちをいなかったことにしたのは、お前の仕業であろう? ぬらりひょん……」
老人がそう告げると、「な、何を云って――」
栢は狼狽するが、その表情は――
「隠し事をしても無駄じゃぞ? 先日毘羯羅から栢がお前さんに殺されたことは聞いておるからな」
老人がそう云うと、栢は舌打ちをした。
「そうかい……。それじゃぁ死んでもらおうか? 死に損ない」
栢は懐から小刀を取り出し、老人に切りかかった。
――が、老人は栢の手を弾き、胸座を掴むと、一本背負いの形で栢を投げ飛ばした。
「あっ……くぅっ……」
栢は呻き声をあげる。
「さて、どうしてここにきた? ここにはもうお前の欲しているものはないぞ? ぬらりひょん」
「黙れっ! 我々を裏切ったものが!」
「まだ云っておるのか? わしは朧に助けてもらった身じゃ。今はこうやってオンボロ屋敷に住み憑いとるだけの老体じゃよ?」
老人はカラカラと笑う。
「さぁ、わかったらさっさと立ち去れ! もう朧はおらんのだ。あやつは人間だ。我々とは違う」
老人がそう云うと、「黙れ……。わたしを騙したやつの末裔まで……。末裔まで」
ぬらりひょんはワナワナと肩を震わせる。
「おまえは……何のためにあの子を好きになった?」
「何のことだ? 好きになった? わたしかが? 笑止! そんなことは一度も思ったことないわ!」
「では、どうしてお前は……泣いているのだ?」
そう言われ、ぬらりひょんはハッとする。そして自分の周りを見るや、天井には大きな目が現れていた。
「一目連……」
ぬらりひょんはキッと老人を睨んだ。
「わしはもうお前に教えることも、報せることもない」
「だまれ! だまれぇっ!」
ぬらりひょんは落ちていた小刀を拾い上げ、老人に飛び掛った。
「くっ……」
ぬらりひょんは老人を上に乗り、老人はぬらりひょんをどかそうとジタバタする。
「死ね……」
そう呟くと、ぬらりひょんは老人の首元に刃をを立て、突き刺した。
「ごふっ!」
老人は吐血し、体を痙攣させ、絶命した。
「これで、わたしの……」
ぬらりひょンはそう呟くと、「げほぉっ?」
と、大きく体を弓のように反りかえらせ、吐血する。
そして、ゆっくりとうしろを見遣った。
「くっ、あぁ……」
背中に刺さった金剛杵がメチメチと音を立てながら、ぬらりひょんの体を貫いていく。
「ぐぅ……ぬぅ……ぐぅ……。ま……らぁ……きぃしぃんぅぐぅ……」
呻き声をあげながら、ぬらりひょンは凄惨は表情を浮かべる。
「降伏しろっ! ぬらりひょん。貴様を助けるものはもうおらん」
「ふさげるぅなぁ、わたしはぁ、わたしはぁ」
肩を震わせながら、ぬらりひょんは振り返り、魔羅鬼神を睨みつけた。
「田心姫は我々が既に取り押さえた。貴様が誘拐した霞谷響と黒川瑠璃も保護している」
魔羅鬼神がそう云うと、「な、なんだと?」
ぬらりひょんは一瞬だけ焦ったような表情を浮かべたが、次第に「くくく……」
と冷笑した。
「そうか……そうか……まぁいいわぁ……貴様らがそう考えているのならばそれでもいいだろう……」
ぬらりひょんはスッと姿を消した。
「ま、まてぇっ!」
魔羅鬼神が叫ぶ。
「待て。やつの表情を見ただろう? 我々の言葉が嘘だと気付いたのだ。ここで追えば二の舞になる」
障子を開け現れたのは、先ほどぬらりひょんによって殺されたはずの老人であった。
「目々連。ではさきほどのぬらりひょんは……」
「恐らくじゃが、朧によって浄化された方のぬらりひょんであろう。そうでなければ、摩利支天によって守られているここに入る事は出来ん。だがあの一瞬、もうひとつの方が現れたということになる」
目々連は顔を俯かせる。
「しかし、お前も危険な賭けをしたな。件を使って罠を張るとは――」
「件もそうだが、わたしとて静かに暮らしたいものさ。しかし朧や夜行への礼もあるでな」
目々連は懐から護符を取り出し、それを床に置いた。
『オン マリシ エイ ソワカ』
と、摩利支天の真言を唱える。
「しかし、お前たちが止めようとしても、第二、第三の犠牲が出てくる。やつの狙いはここを破壊することではない。もっと別の恐ろしいことだ」
目々連はそう云うと、「妖怪のわしが願いを聞くのは釈然としないだろうが、件に事を伝えてくれ」
その言葉に魔羅鬼神は頷いた。




