肆・三門
三門:禅宗伽藍の正門。古代寺院の中門に相当する。一般に二階造りの楼門で、楼上に釈迦・十六羅漢などを安置する。本堂を涅槃に擬し、そこに到達するために通る空・無相・無願の三解脱門に擬する。のちには智慧・慈悲・方便の三つに擬していう。
渡辺が尋ねに来たその日の晩。夕食を済ませた拓蔵は、渡辺が置いていった写真を三姉妹に見せた。
「――これが、その渡辺って刑事さんが私に視てほしいって云ってた写真?」
写真を手に取りながら、葉月は尋ねる。
「これに写っている女性が、先の不正疑惑で逮捕された浦部っていう社長の母親……」
皐月と弥生も写真を覗き込む。
「渡辺という刑事が言うには、心筋梗塞による突然死――ということになっているらしいんじゃよ」
「――なってるって?」
弥生は首を傾げる。『なってる』という言葉に違和感があった。
「葉月、この前、突然番組が中断になったことがあったじゃろ?」
そう尋ねられ、葉月は少しばかり思い出すような仕草をすると、小さく頷いた。
「その時に不手際があった?」
「詳しくは判らんがな、どうもまだ警察が発表していないことを報道していたようなんじゃよ」
「マスコミって自分たちで調べるじゃない。それこそ根掘り葉掘り」
そう弥生は言うが、「……でも、浦部って人、黙りを決め込んでたって聞いてたけど」
弥生は自分で言って首を傾げた。
「警察は母親の死を浦部のせいにして、吐かせたと云っておったよ」
「――ひどい」
葉月は表情を険しくし、言い捨てた。
「でも見たところ歳もいってるし、心筋梗塞による呼吸困難という解釈は間違ってないんじゃ?」
皐月がそう尋ねると、「わしは専門ではないからな。確かに心筋梗塞は突然死じゃから、間違っていないといえばそうなるが――」
拓蔵は一度言葉を止め、茶を飲むと軽く息を吐いた。
「浦部が逮捕されたのは、母親が亡くなる二日ほど前。その四日後に浦部は態度を変えた」
「それが――なに?」
皐月は自分の頭上で漂っていた遊火を一瞥する。
その遊火はうーんと小さく唸っていた。
「拓蔵さま、その母親が発見された時ってわかります?」
「そういえば、発見されたのは浦部が態度を変えた日の朝とか……」
拓蔵と三姉妹はギョッとした表情を浮かべる。
「――可笑しくない? 不正行為って、そういう疑いがなかったら逮捕されないでしょ? それに犯人が母親のところに帰ってくる可能性があるかもしれないから、見張ってないと……」
「母親が亡くなったのは、浦部に報せる二日前。いくら犯人とはいえ、身内が亡くなってるのに」
「なんか突然死んだ……って感じがしなくなってきた」
弥生はそう云うや、葉月を見やった。
葉月はひとつ深呼吸をすると、写真を卓袱台の上に置き、その上に手を翳し、目を閉じてゆっくりと動かした。
「――誰かいる」
葉月がそう云うと、「誰かわかる?」
「なんかすれた音。それとなにか踏んだ音も聞こえた」
葉月がそう説明していく。
「母親は部屋の中で発見されたんだよね?」
「詳しくは知らんがな。しかし擦れる音になにかを踏んだような音か……。他にはなにか聞こえるか?」
「愚痴のようなのも聞こえる。――きたねぇなって」
「汚い? 部屋がってこと?」
皐月がそう尋ねるが、葉月は首を傾げた。
葉月の能力は、霊が死ぬ直前までに聞いた音を聞くことであり、視覚や嗅覚などを通して知ることは出来ない。
つまり部屋が汚いという情報は、耳だけではわからない。
「――何も聞こえなくなった」
そう云うや、葉月は写真から手を離した。
「ゴミ屋敷……ってことかしら?」
「そう考えるのが妥当じゃろうなぁ」
拓蔵は葉月から写真を受け取り、「明日、警視庁に行って灰羅とかいう刑事に会ってくるわ」
「灰羅って?」
皐月がそう尋ねると、「今日訪ねにきた渡辺の部下らしい」
拓蔵はスッと立ち上がり、部屋を出て行った。
――その一、二分後、皐月の携帯が鳴り出した。
「皐月、携帯……。って、あんた着信音量上げすぎ」
弥生が耳を塞ぎながら叫んだ。葉月も耳を塞いでいる。
そんな二人を見ながら、皐月は首を傾げた。
――やっぱりうるさいんだなぁ。でもこれでも聞こえない時があるんだけど。
携帯を開き、着信を見るや、はて?と首を傾げた。
電話の相手は『緋野さやか』と出ている。
皐月はこんな知り合いいたかなぁ?と考えるが、「出た方がいいですよ」
と、戻ってきていた毘羯羅が云った。
「――知ってる人?」
そう聞かれ、毘羯羅は苦笑いを浮かべた。
「でもなんでこの緋野って人が私の携帯番号知ってるの?」
「知ってるというか、知る事が出来るというか……」
毘羯羅は視線を合わせようとしない。
「いい。出れば判るだけの話だから」
ムッとした表情で皐月は電話に出た。
「もしも……」
皐月が言葉を発すると、「やっと出た」
と、なにやら聞き覚えのある声が聞こえたが、はて誰だっけ?
皐月は毘羯羅を一瞥する。その表情は険しい。
「すみません。どちらさまでしょうか?」
そう訊ねると、「直接話すのは初めてかしらね」
相手の女性はそう云うが、皐月はてんで思い浮かばない。
「皐月、緋野って名前に聞き覚えない?」
毘羯羅が皐月の耳元でささやく。とはいえ、耳が悪い皐月に言うものだから、弥生と葉月にはほとんど聞こえてはいるが。
「緋野? そんな人に聞き覚えないわよ」
「それじゃぁ、丙午って言葉は?」
そう聞き返され、皐月は小首を傾げた。
――丙午って、干支の四十三番目の……。
皐月が考えている間もなく、「あー、もう! 一回会ったことのある人の声くらい思い出しなさい!」
と、つっけんどんな口調で言い放った。
「いや、だから、誰なんですか?」
皐月がそう訊ねると、「はぁ……」
と、溜息が聞こえた。
「――珊底羅です」
そう答えると、皐月は目をパチクリさせた。
「え? えっと?」
「戸惑うのは判ってますけど、前に緋野さやかって名前で、占い師をやっていたので、携帯もそのままなんですよ」
そう云うと、皐月は毘羯羅を一瞥した。
「――知ってたの?」
皐月が毘羯羅に訊ねようとした時だった。
「あ、すまんな、ちょっと電話代わるぞ」
聞こえてきた老人の声を聞くや、皐月は肩を窄めた。
「……なんか、いま怯えたような気配がしたんですけど?」
電話越しの珊底羅が哀れんだ口調で言った。
「わし、一応あんたのばあさんとは、対の存在として知られてるんじゃがなぁ」
老人――虚空蔵菩薩はションボリとした口調で話す。
「いや、それは皐月さんのせいじゃないと思いますよ」
珊底羅がツッコミを入れる。
三姉妹の祖母である瑠璃は、閻魔王――地蔵菩薩の権化として人間の世界にいたが、現在は虚空蔵菩薩の力によって、人と同様に生活をしている。
虚空蔵と地蔵は対の存在であったが、信仰する人が多かった地蔵の方が有名になってしまい、道祖神として祀られてはいるが、虚空蔵は寺院以外では、あまり飾られることがない。
「――ゴホン!」
と、虚空蔵はわざとらしい咳払いをする。
「あー、皐月や、お前さん牛頭野っていう占い師は聞いたことないか?」
「え? あ、はい。今日浅葱からも電話があって、同じこと訊かれましたけど……。その、牛頭野って人は何者なんですか?」
皐月がそう訊ねると、「うん、どうやら元々ぬらりひょんの配下のものだったらしいんじゃよ」
「――ぬらりひょんの?」
そう聞き返すと、電話越しで代わってほしいという声が聞こえた。
「牛頭野の正体は、妖怪『件』。ですが伝承とは違い、彼女は取り憑かれているようなんです」
「云われてみれば、確かに数日で亡くなるって云われているにしては不思議だと思った」
「件は偶然の産物とも云われているからね。不吉なことを報せるという意味では、ある意味占い師に成り済ませているというのは合っているのかも」
珊底羅がそう云うと、「もしかして浦部っていう人の事件に関わっていたりとか?」
「いいえ。でもあの放送があってから、浦部は誰かを庇っていることがわかって、警察はそれどころじゃないみたい」
「――誰かを庇ってる」
皐月は鸚鵡返しをするように聞き返した。
「とにかく、警察が報道しなくなったのは、なにか裏があるんじゃないか……波夷羅はそう考えてるみたい。それじゃぁ、そろそろ切りますね」
珊底羅がそう云うと、「あ、あの。警視庁に行くんでしたら、その瑠璃さんや、大宮巡査たちのこと――」
皐月がそうお願いする。
「皐月さん。あなた、家族に警察がいて、何回も聞かされてるはずでしょ?」
珊底羅が冷たい口調で言う。皐月は最初それがわからなかった。
「警察はね、事件が起きなければ梃子でも動かない。しかも閻魔王さまや大宮巡査たちは、行方不明とはいえ、事件に巻き込まれたという報告を受けていない――つまり、捜索に当たる優先順位は……」
「なんでですか? る、瑠璃さんなら未だ理解出来ますよ。でも、でも……」
皐月は顔をぐちゃぐちゃに歪ませ、声を荒げる。
「警察はどうやら、佐々木班に所属している警官をいなかったことにしている。波夷羅がそう云ってたわ」
「いなかったことにって、どういうこと?」
「――つまり、警察の中にもぬらりひょんの魔の手がってことになりますね」
それを聞くや、皐月の中でなにかが崩れた。
「生きてますよね? 大宮巡査……生きてますよね?」
そう訊ねると、「すまんな。出来れば吉報を云いたいところじゃが、浄玻璃鏡で調べても、靄がかかってわからんのじゃよ。つまり彼らがどうなっているのかさえ……」
虚空蔵菩薩がそう云うと、愕然とした表情で皐月は携帯を落とした。
『おいっ! 皐月っ?』
と、虚空蔵菩薩の声など、今の皐月には聞こえていなかった。