捌・創傷
瑠璃は必死に走っていたが、小さな少女の体力は如何せん乏しい。
権化になっていた時は、然程きつくはなかったのだが、やはり体力はそれ相応かと、瑠璃は少しばかり苦笑いを浮かべる。
福祠駅が見え、稲妻神社まであと少しといったところで、突然横から、手がニュッと現れ、瑠璃の口を押さえた。
「……っ! ん…… んぐぅ……」
ジタバタと暴れるが、手の大きさからして、大人の男である。力も強く、子供の力ではどうする事も出来なかった。
突然瑠璃がいなくなったことで、慌てた表情で周りを見る夜叉たちの首が一瞬のうちに刎ね、地面に落とされた。
「ひょひょひょーい、飯だ、飯だぁ」
酒呑童子がケラケラと笑いながら、夜叉たちの体を子鬼と共に貪り、食い殺した。
「さて、準備は出来た…… 後は暴走するのを待つだけだ」
瑠璃の口を押さえながら、ぬらりひょんが現れ、酒呑童子に声を掛ける。
「しかし、仏さまが人間になるとはな、奇妙なこともあるもんだ」
「元より、菩薩は人に近い存在じゃからな。それにこいつは人として生きていた」
ぬらりひょんは笑みを浮かべ、瑠璃を見遣る。
瑠璃は手を噛んでやろうかと、口を動かすが、顎がつかまれているため、うまく噛む事が出来ない。
その時、頬肉を噛んでしまい、口には気持ち悪い血の味がしていた。
何かが倒れるような音が聞こえ、響はピクッと体を窄めた。
手足を縛られ、目隠しと猿轡をされた瑠璃が目の前で倒れている。
「よし、これでいい。後は羂索を見つけるだけだ」
酒呑童子はそう言うと、響の髪をクシャクシャにし、部屋を出て行った。
響はテレビの上に置いている置時計を見ると、「アニメを見ます」
と言って、テレビの電源を点けた。
その音で、気が付いた瑠璃は、目の前が暗いことに違和感を感じたが、近くに人がいることを知り、声を出そうとするも、轡をされていて、声が出ない。
響は響で、テレビに集中しているため、瑠璃のことには目がいっていなかった。
「――お前たちの最後だ! ――くぅ、なんて、強さだ…… みんなしっかりしろ! ここで俺たちがあきらめたら、地球は大変なことになるんだぞ!」
テレビから聞こえてくる音から察するに、ヒーローもののアニメがやってるんだろうと、瑠璃は考える。
番組が終わり、響はテレビの電源を切り、いつものように、玩具の剣で、夜行と一緒に遊ぼうとしたが、その玩具が見付からないどころか、夜行の姿もない。
それに、濡女子の姿もない。
響は呆然と立ち尽くし、部屋を出て行こうとすると、倒れていた瑠璃に足元を掬われてしまい(正確には引っ掛けた)、大々的に倒れてしまった。
突然、響が体の上で倒れたものだから、瑠璃は気を失いそうになるほどの痛みを感じた。
「んっ! んんぐぅ……」
上擦いた悲鳴を挙げ、瑠璃は体をジタバタさせる。
響が起き上がるが、瑠璃の上に乗ったままで、痛みは余計に酷くなる。
瑠璃は体を少しだけ上げると、響は自分の下に何かいるとわかり、体を退けた。
瑠璃は口を塞がれているため、鼻で息をする。
響以外に気配はない。つまりぬらりひょんも酒呑童子も――栢も田心姫もいないと言うことになる。
もしかしたら、気配を消しているだけじゃ、と考えたが、考えたところで埒が明かない。
瑠璃は響に轡だけでも外してもらおうと思ったが、――それが出来なかった。
自閉症である響に、この状況をどうやって説明すればいいんだろうか?
ただでさえ、普通の会話の遣り取りでも困難な障害である。
響は部屋を出て行こうとする。――駄目っ!と瑠璃は心の中で叫んだ。
――突然、部屋のドアが開く。「よ、よかった……」
女の子の声が聞こえ、瑠璃は耳を立てた。
――どこかで聞いたことがある声だ。しかも、今の自分よりも幼い雰囲気がある。
「っ? なんで地蔵菩薩が? まさか……」
女の子は部屋で倒れている瑠璃に駆け寄り、轡と目隠しを外した。
――鴉天狗? いや、栢?
瑠璃は女の子の正体を見るや、驚きを隠せないでいた。
「地蔵菩薩、どうしてあなたがここに? まさか、ぬらりひょんが?」
栢は驚いた表情で尋ねる。瑠璃は小さく頷いた。
「午後七時、晩御飯の時間です」
空気を読まない(そもそも空気が読めるとも思えないが)響がそう言うと、「少し、テレビでも見てて待ってて…… おねえさん、この子とお話があるから」
栢がそう言うと、響は理解したのか、テレビの方を見た。
ただし、響は『テレビ』を『見る』という言葉を理解したまでで、テレビの電源は点いておらず、真っ暗なままだった。
栢は瑠璃を見遣る。「ひどい……」
その言葉に瑠璃は違和感を感じた。
今、目の前で自分を心配している栢は、かつて毘羯羅や皐月を襲った鴉天狗なのだろうかと……
しかし、眉を顰めた表情を浮かべている栢は、紛れもなく栢である。
「どうして、こんなひどいことができるの?」
――それは小さな少女の声であった。
瑠璃は手足を自由にしてもらい、漸く一息つけた。
いや、そういう表現は、栢に見張られている以上、云えないのだが、どうも調子が狂う。
自分が作った料理を、響と一緒に食べている栢の姿を見て、瑠璃はどういう顔を浮かべればいいのかがわからなかった。
「ふりかけがありません」「ふりかけはありません」
という、二人の会話を聞くと、何日も誘拐しているためか、響の行動や言動が、だいぶわかってきたといった感じである。
「鴉天狗、少し私の質問に答えてくれませんか?」
瑠璃がそう尋ねると、栢は少しだけ瑠璃を見るが、すぐに視線を逸らした。
なるほど、話すことはないか……と、瑠璃は理解する。
確かに、敵に話すとは考え難い。
「しかし、だいぶ響もあなたに懐いてますね?」
「わからない。わたしも――どうしてこの子を心配してるんだろうって……」
栢は呟くように答えた。
突然、外からカラスの鳴き声が聞こえ、栢は体を窄める。
そして、縄と布で瑠璃の体を締め付ける。
「ごめん、ぬらりひょんが帰ってきた」
瑠璃の耳元でそう言うと、栢は瑠璃を押入れの中に入れた。
部屋のドアが開くと、入ってきた田心姫が驚いた表情を浮かべた。
「どうしたの? この料理……」
田心姫がそう言うと、栢は視線を押入れの方に向ける。
田心姫はその視線に気付き、押入れを開けてみると、中に瑠璃が入っていることを知り、栢を見遣った。
「ぬらりひょんは?」
「まだ、戻ってないの?」
田心姫がそう言うと、栢は小さく頷いた。
「でも、どうして地蔵菩薩が?」
「わからない、ぬらりひょんは一体何を考えてるの? もういや…… もう自分のせいで人が死ぬのはいや……」
栢は声を荒げた。
「栢…… あなたはやっぱり、自分がしたことがわかってたのね?」
田心姫が宥めるように尋ねる。
「私のせいだ…… わたしがおっかさんとおっとさんに殺されるって、誰かに言われて、そしたら、本当に殺されそうになって、殺されたくなかったから、私は抵抗したのに……」
押入れにいた瑠璃は驚きを隠せないでいた。
――まさか…… あの大災害の理由って……
瑠璃は吉祥天と黒闇天のことを思い出した。
吉祥天と黒闇天は姉妹として描かれることが多く、美しい姿で描かれる吉祥天とは違い、黒闇天は醜女のような姿で描かれる。
しかし、幸せを齎すとされる吉祥天と、不幸を齎す黒闇天は対である。
また、黒闇天はドゥルガーと同一視されており、……毘羯羅と同じである。
まさか、毘羯羅が彼女を?と考えていると、誰かが部屋から出て行く音が聞こえると、数分後には水を浴びるような音が聞こえてきた。