弐・稲妻神社
事件発覚から二日ほど経ったが、てんで、捜査に進展はなかった。
あの林道を通る人はごまんといるのだが、対馬怜菜が歩いていた時間帯、目的者すらいなかったからだ。
つまり犯人はその場にいたのか、もしくはワイヤーをどこかに仕込んでいたのかということすらわからないでいる。
ただし、それは人間が犯人として考えればの話だ。
痕跡が見つからない以上、隠れて殺すどころか、ワイヤーを木と木の間に張り巡らして殺したとも考えられにくい。
強いては、被害者だけを殺す事は、計画的だったとしても、天文学的に近い。
対馬怜菜が、現場となった林道を通る事がわかっていたとしても、殺害された時間、彼女一人だけが、林道から、雨が降り出す事で焦って走り出す事を、誰が予想出来ようか?
たとえ天気予報で雨が降る事を知っていたとしても、いつから降り始めるのかというのは、天気予報士でさえ、ハッキリとした時間を言い当てるのは難しいものである。
その事を考えると、人間が出来ることではないかもしれないという警官が後を絶たず、終いには、オカルト的犯行だと述べる者まで現れる始末だった。
そんな中、阿弥陀と大宮の二人は、福嗣町の駅から、一キロほど離れた場所にある、小さな神社に立ち寄っていた。
「大宮くん、ちょっと御神籤でも引いてみます?」
「――警部、遊びに来たんじゃないんですよ? 警部がどうしてもと言うから……」
大宮が不服そうに言うと、「まぁまぁ、神社に来たらお参りと御神籤でしょ? これは常識です」
「――誰が決めたんですか?」
大宮は、眉をひそめる。
「私ですけど?」
そうお道化てみせる阿弥陀に対して、大宮がためいきをついた時だった。
「――せいっ!」
怒声にも近い張りのある声が、神社の中央にある本殿の方から聞こえ、大宮はそちらを見遣った。
勢いのあるその声は、遠くにいる彼の背筋を伸ばし、緊張を走らせる。警察学校時代に、体術として、剣道を齧ったことはあったが、その時の教官以上に、覇気を感じた。
本殿の中を覗いた阿弥陀警部と大宮は「ほう」
と、重なった声をあげた。
違いがあるとすれば、阿弥陀はいつもどおりだという感じで、大宮は、その景色に見惚れての声だった。
本殿には一人の少女がおり、見た目は、殺された対馬と然程変わらない容姿である。
袴を着てはいるが、剣道具は身に付けておらず、右手に長刀、左手に短刀の竹刀を持っており、構えては振り下ろしている。
うしろに束ねられた、腰まである綺麗な黒髪が、まるで時間が止まったかのように、ゆったりと宙を漂っていた。
その動きは、剣道の稽古をしているというよりかは、むしろ舞に近いものがあった。
それを見て、大宮が首をかしげた。
「警部、彼女はどうして竹刀をふたつも? 普通反則になるのでは?」
少女の持つ二本の竹刀に疑問を持つや、大宮は阿弥陀にたずねた。
「いや、反則ではないみたいですよ。まぁ一本でも難しいんですけど……。それに、彼女の実力だったら有段者なんですけどね」
阿弥陀が含み笑いを浮かべていると……。
「そんなところにいらっしゃらなくても、こちらに来て見てくれたらいいんじゃないんですか? 阿弥陀警部」
本殿の方から、少女が阿弥陀たちに声をかけてきた。
「おや皐月さん、今日もまた一段と汗をかいてませんな?」
「遣り始めてまだ二時間くらいですよ? ちょうど、体が暖まったところなんです。どうですか? 一勝負……」
そう言うと、皐月は持っていた長刀の竹刀を、阿弥陀の方に放り投げ、自分は靴も履かずに、足袋のまま境内へと降りた。
「――け、警部?」
慌てた表情の大宮を横目に、阿弥陀は少し笑みを浮かべ、「大宮くん。少し離れた方がいいですよ」
と一言添えた。
「……はっ?」
大宮がキョトンとした時だった――。
竹刀同士がぶつかりあう音が、境内に響き渡ると、皐月と阿弥陀の二人は、激しい鬩ぎ合いを繰り返す。両者一歩も譲ろうとはしない。
阿弥陀警部が持っている竹刀は、平均的な長さ(三尺七寸=百十二センチ)であるにもかかわらず、皐月は短刀である。
傍から見れば皐月の方が不利に感じるが、皐月の攻撃は、まったく引けを取っていない。
むしろ、押しているとも言える。
「へぇ? 全然衰えてませんね?」
皐月は攻めながらも、まるで楽しんでいるような声を出す。
「がははっ! 青二才にまだまだ負けるほど、零落れてませんよ」
阿弥陀が大きく笑みを浮かべた。
竹刀どうしがぶつかる音が劈くように大きく響くと、皐月は、うしろへと跳び下がり、阿弥陀との間合いを大きく広げた。
その刹那、風がピタリと止んだ。
三人の周りにただならぬ空気が流れ、阿弥陀が一際険しい表情を皐月に向ける。
皐月は、左手に持った竹刀を逆手に持ち変え、腰を低く構えた。
右手を手前に出し、まるで忍者のような構えだ。
「――閃ッ!」
皐月が叫んだ時には、既に彼女と阿弥陀の間合いは五寸(十五・一五センチ)ほど縮まっていた。
そして、懐に飛び込むように、皐月は短刀で、阿弥陀の胸元へと斬りかかる。
阿弥陀が小さな声をあげるが、皐月の短刀は、阿弥陀の長刀に当たっていた。
その刹那――。
「はぁああああああああああっ!」
皐月の鬼気迫ったその覇気に、まるでそうなる事を予想していたのか、受け止めている阿弥陀の表情は、より一層険しくなっていく。
ふと、大宮は皐月の竹刀に疑問視していた。
さきほどから右手から左手へ、左手から右手へと交互に持ち変えられている。
それどころか、逆手に持っていたはずの竹刀が、いつのまにかきちんと持ち変えられていた。
「――皐月っ!」
途端、社務所の方から、女性の怒声にも似た叫び声が聞こえてきた。
その言葉が合図になったのか、皐月と阿弥陀はピタリと動きを止める。「――や、弥生姉さん?」
皐月はゆっくりと声をかけた女性を見遣った。
その表情は、先程見せた夜叉のような鬼気迫る雰囲気は皆無に等しく、まるで、叱られている小犬のようである。
「阿弥陀警部もすみません。この子また出鱈目な竹刀の使い方で……。ほらっ! 竹刀は一本を両手で持つものだって剣道部の部長さんから云われたんでしょうが」
「がははっ、いやいや……弥生さん、皐月さんの物怖じしない姿勢は、賞賛に値しますよ」
「そうでしょうか? 私から見たらただ振り回しているとしか――」
弥生は見た目からして高校生くらいか、大人の女性というとそれまでだが、どこか少女のようなあどけない雰囲気もあった。
着ている服は巫女装束で、手に持っているものは――矢である。
「――警部、彼女は?」
大宮が、阿弥陀に耳打ちをするようにたずねた。
「ああ、彼女はこの稲妻神社で暮らしてる美人三姉妹の長女ですよ。名前は弥生さん。で、私に勝負を挑んできたのは、その妹さんで次女の皐月さん」
阿弥陀がそう説明すると、大宮は二人を見た。
弥生と皐月は、その視線に気づき、大宮に対して、軽く会釈する。
「――ところで、弥生さんの持っているあの矢は?」
「破魔矢ですよ。よく正月に買いに行くでしょ?」
そう言われたが、今の今までそんなものを買った記憶のない大宮は、どう答えていいか分からず、苦笑いを浮かべるしかなかった。
「まぁた足袋のままで降りたみたいね? 裏が泥塗れになるのわかってるの? それで足袋だけ別に洗わなきゃいけないから水道代が……」
愚痴々と弥生から小言を言われ、皐月はその場に正座させられていた。
「――弥生さん、神主は御在宅ですかな?」
阿弥陀がそうたずねると、弥生は小さくうなずいた。
そして少し嫌そうな表情を浮かべ、「――なにか事件でも?」
「まぁ、ちょっと……」
歯切れの悪い返答に弥生と皐月は互いを見遣った。
弥生が神主を呼びに行っている間、本殿へと案内された阿弥陀と大宮は、丁度中央のあたりに座っていた。大宮は、神社の本殿が物珍しく、キョロキョロと中を見渡している。
ふと天井を見上げると、黄金色に輝く稲穂が描かれているのが目に入った。
「警部? 不思議に思っていたのですがどうしてここは【稲妻神社】っていうんですか?」
「稲妻はその言葉通り、『稲の妻』を意味しています。古く稲妻によって稲が実ると信じられていたからだそうです」
そう聞くと再び大宮は天井を仰いだ。
「この【稲妻神社】は稲荷神社でもあって、五穀の神【倉稲魂神】を祭っているんですよ」
稲荷という言葉を聞くや、大宮はお腹を鳴らした。
おそらく、稲荷寿司を連想したのだろう。
「はははっ、ちょうど夕餉前ですからな。どうですかな警部」
本殿に入って来た初老の男性が酒を飲む仕草を見せる。
「おっ、いいですな。では話がてら」
「――け、警部?」
大笑いしながら本殿を後にする二人にあきれながらも、大宮は、その後を追った。