漆・意識
はぁ……と、鴉天狗はためいきをついた。
「七時三十分。アニメが始まります」
時刻は土曜日の午前七時三十分。響はいつもならこの時間に始まるアニメを見ながら、夜行といっしょにご飯を食べている。
だが、今は部屋に鴉天狗と二人しかいない。
「あんたねぇ、いま自分が置かれてる状況わかってる? あんたは誘拐されてるんだから、そんな悠長なこと出来るわけないでしょ?」
鴉天狗はムッとした表情で響に言う。「アニメ始まります」
と、響は繰り返し、そう言う。
「だから、この部屋にはテレビなんてないのよ。仮にあったとしても見せるわけないでしょ!」
鴉天狗は響に向かって怒声をはなつ。「アニメ始まります」
響がしつこく言うと、鴉天狗は憤怒の表情を浮かべ、響を思いっ切り叩いた。
「ギャアギャアうるさいのよ! 少しは大人しくするって気はないわけ?」
鴉天狗がつっけんどんな態度で響を睨み付ける。「アニメ始まります」
響は瞳を潤ませ、ぎゃあぎゃあと騒ぎ始めた。
「ああ、もう! なんなのよ、この餓鬼はぁ? 収まらないったらありゃしない!」
鴉天狗が愚痴をこぼしていると、部屋の襖が開き、田心姫が小さなテレビを持って入ってきた。
「ほら、これで見れるでしょ?」
そう言いながら、田心姫がテレビのコンセントをプラグに挿し、部屋にあるアンテナ線を繋ぎ、電源を入れた。
響が見たかったアニメにチャンネルを合わせると、響は先ほどとは比べ物にならないほどに大人しくなり、テレビをジッと見つめた。
その行動に鴉天狗は驚きを隠せないでいる。
「大人しくさせるには、本人の主張を聞いてあげることね。自分が納得したら大人しくなるんだから」
田心姫にそう言われ、鴉天狗はうなずいた。「それと、もし彼を傷付けたり、殺そうなんてしたら……どうなるかわかってるわね?」
耳元でそう囁かれ、鴉天狗は、大きく喉を鳴らした。
「自首してきた? この前起きた歩道橋の転落事故についてか?」
警視庁刑事部の一角で、佐々木刑事がそう言う。
「はい。自首してきた女性は、亡くなった野山治樹と口論の末、誤って階段から落としてしまい、気が動転してその場から逃げたとの事です」
岡崎がそう説明する。「まぁ、犯人が自首してきたんじゃったら事件は解決じゃろうなぁ……。その事について阿弥陀や大宮には伝えておるんか?」
そう訊かれ、岡崎がうなずいた時である。
「ああ、佐々木刑事、来てましたか」
阿弥陀と大宮が、刑事部の捜査一課にやってくる。
「おや? 大宮はたしか皐月ちゃんとデートじゃなかったか?」
佐々木刑事がニヤリと哂う。「な、何を言ってるんですか? 昨夜神社を訪ねた時、葉月ちゃんに嫌な思いをさせてしまったので、そのお詫びに皐月ちゃんも入れた三人で喫茶店に行ってただけですよ」
大宮が慌てた表情でそう言う。
「しかし、急な呼び出しですね。転落事故の犯人が見付かったそうですが?」
「ああ、今西戸崎が事情聴取しておるよ」
佐々木刑事がそう言うと、阿弥陀と大宮は取調室の横にある部屋に入り、中の様子を窺った。
「それじゃぁ、別れ話の際に口論になってしまい、あんたは被害者を突き落としたんだな?」
西戸崎刑事がそうたずねると、「いえ、わたしは彼に腕を取られてしまい、階段を踏み外しました。運良くその場で倒れたので頭を打っただけでしたが、彼は下まで転げ落ちてしまったんです」
真理子は西戸崎刑事たちに頭の傷を見せる。時間はだいぶ経っているが、瘡蓋のような小さな傷があった。
「事故とはいえ、わたしが彼を殺したことに間違いはありません」
真理子はそう言いながら、顔を俯かせた。
「彼女、犯行を認めてますけど、話を聞く限りじゃ口論の末に起きた事故みたいですね?」
大宮が阿弥陀にそうたずねる。
「ええ。故意によるものではない以上、罪は軽くなるかもしれませんが、どうも腑に落ちないんですよね?」
阿弥陀は険しい表情を浮かべる。
それに対して大宮はたずねた。
「あの時間に被害者が足を滑らせたとすれば、彼女はまず疑われないということですよ。私たちは彼女を完全にノーマークでしたからね。それに被害者の服についていた霞谷響くんの足跡で、初動が可笑しくなったともいえますし、言い換えれば彼女が一生言わないままだったら、事件は事故として処理されていたということです」
「罪の意識に苛まれたんじゃないんですか?」
大宮がそう言うが、阿弥陀はより険しい表情を浮かべる。
「罪の意識に苛まれるか……」
阿弥陀の言葉に、大宮は首をかしげた。
阿弥陀の予想通り、結局のところ、証拠物件は何一つ残っておらず、また夜行が見つけた宝石のかけらも、彼女が持っていたことの裏付けにはならない。
彼女が自首してこなければ、事故として処理されていたのが落ちである。
「しかし妙じゃな……。彼女の言ってることが本当なら、あるはずなんじゃよ。犯人を示す証拠が」
中に入ってきた湖西主任が、阿弥陀と大宮に話す。「証拠?」
と、大宮が首をかしげる。
「彼女は口論の末、被害者に腕を取られバランスを崩してしまったと云っておるじゃろ? じゃったら、どうしてガイシャの爪に皮膚がないんじゃろうな?」
「たしかに可笑しいといえば可笑しいですね。バランスが崩れて倒れそうになったら、手を外すとは思えませんし、爪で引っ掻いたとしても可笑しくない」
「でも、見たところ彼女の腕に包帯が巻かれてはいませんよ」
大宮の云う通り、真理子の両腕には包帯が巻かれていない。
「被害者が手を放したんでしょうかね?」
「それならなおの事……可笑しいじゃろ」
湖西主任は、先日虚空蔵菩薩から聞かされた話を思い出す。
『人にまやかしを見せていても可笑しくはない。そして今までのことをなかったことにも出来る』
――ぬらりひょん、か……。
湖西主任はうーんと悩み、部屋を出て行った。
その後、真理子は検視庁へと書類送検されたが、証拠不十分によって不起訴された。
響はジッと朝からテレビを見ている。一応昼食は取っているのだが、それ以外は特に反応も何もしていない。
それ以前に、土曜日は部屋で遊んでいるか、ジッとしているかのどちらかである。
夜行が部屋を留守している間、濡女子が響のことを見ているのだが、響はやりたい事がない以上は何もしない。
テレビではクイズ番組がやっており、漢字の振り仮名を打ち込んでいくというのがやっている。
画面には、『長閑』という文字が大きく出ている。「のどか……でしょ?」
と、鴉天狗はあきれた表情で云う。
正解は鴉天狗の云う通り、『長閑』である。
回答者が回答し、次の問題が現れた。
『紅葉襲』という文字が現れると、回答者が慌て出す。
「――もみじがさね」
響がぼそりとつぶやいたちょうど、回答者全員が不正解で失格になった。
そして司会者が正解を皆に説明した。
『紅葉襲』と……
「ねぇ、知ってたの?」
鴉天狗がそうたずねたが、響は自分の目の前に手を翳して、ジッとそれを見つめていた。
「鴉天狗……ちょっと来て」
部屋の襖をゆっくりと開け、田心姫が鴉天狗を呼ぶ。
「ぬらりひょんからの伝令で、これをあの子に読ませてって」
そう言うと、田心姫はメモを渡した。
『清らかな紅い土は横にずらせ。さすれば恐れに塗れ、世は憂き世となるだろう』
メモを見るや鴉天狗は首をかしげる。
「なによ? このわけのわからないメモは……」
「さぁね。でもそれが解くヒントを知ってるのは、その子だけなのよ」
田心姫はそう言うと、襖を閉めた。
鴉天狗はジッとそのメモをにらむと、響の方を見遣る。
「ねぇ、これを見て。何かわかる?」
そう言いながら、響にメモを見せるが、響は外方を向く。
「――お水飲みたいです」
「水なんて後で飲ませるから、これがなんなのか――」
鴉天狗がそう急かすが、響は部屋の襖を開けて、厨房の方へと走っていく。鴉天狗はその後を追ったが、響は自分でコップを取り、水を汲んでいた。