陸・理解
阿弥陀と大宮が、稲妻神社に訪れた翌日。その日は土曜日であったため、大宮は、皐月と葉月を誘って、駅前の喫茶店にやってきていた。
その葉月は不貞腐れた表情でケーキを頬張っていた。
昨夜神社で話を聴いていた時のことを根に持っていたからである。
「それで、やっぱり響くんの靴跡で間違いはないんですか?」
「湖西主任の話だと一致したそうだからね。でもやっぱり響くん本人から訊かないと、先には進めないかもしれない。現場には被害者の血以外にルミノール反応はなかったようだし」
大宮がそう言うと、葉月はキッと険しい表情で大宮を見つめる。「響くん、たぶん答えられないと思いますよ」
「どういう意味?」
皐月が聞き返すと、葉月はテーブルの上に置いてあった角砂糖が入っている入れ物から、ひとつ手に取った。
「皐月お姉ちゃん、さっきサトウいくつ入れた?」
「へっ? えっと……五個くらいだけど?」
「それじゃぁ、砂糖をいくつも入れていいって云われたらどうする?」
葉月の質問が理解できず、皐月は首をかしげた。
「まぁ、自分がいいかなと思うくらいじゃないかな?」
皐月がそう答えると、大宮も同感だといった感じにうなずいた。
「――それが出来ないんだよ響くん……」
葉月の言葉に、皐月と大宮は、何ともいえぬ表情を浮かべた。
「それって、どういう意味?」
「響くん、言葉をそのままの意味でとらえちゃうの。つまり、サトウをいくつも入れていいってことは、五個でも十個でも二十個でも入れちゃうんだよ」
「つまり言葉の使い方を理解できていないということかい?」
「そうか……いくつも使っていいとは云っても、なんとなく遠慮しちゃうけど、響くんはそのままの意味で受け取っちゃうんだ」
皐月がそう言うと、葉月はちいさくうなずいた。
「それに、曖昧な質問には答えられないと思う」
「そう言えば、親御さんが同じ事を云っていたな。それに階段を下りていただけとしか思っていないとも云ってたよ」
「階段を下りていただけ?」
皐月が、眉をひそめる。
「大宮巡査の云う通りだと思う。響くんは階段を下りていただけで、被害者を踏んだんじゃない。ただ、階段の段を踏んでいただけなんだよ」
葉月がそう言うと、皐月はうーんとうなった。「ちょ、ちょっと待って……、全然ついていけない。つまり響くんは被害者が殺された午前一時くらいに、その歩道橋を渡っていたってことになるのはわかるけど、階段と人間の身体は硬さが違うわよ? その響くんはそれを階段の段だと思ったわけ?」
「たぶんそうだと思う。響くんは階段を下りていただけなんだと思う」
「いや、だから……そこがわからないのよ? 普通、階段の下に人が倒れてたら反応くらいするでしょ?」
皐月がそうドナる。
「皐月お姉ちゃん? きるって言葉の意味答えられる?」
「きる? えっと……服を着るでしょ? 紙を切るとか」
「それじゃぁ、トランプを『きって』って云われたら?」
「トランプを『きる』って、混ぜるって意味でしょ?」
皐月はそう聞き返したが、ハッとした表情を浮かべた。
「葉月、どうしてそんな質問したの? まさか響くん、トランプを鋏で切ったことがあるってこと?」
そうたずねると、葉月はうなずいた。
「そうか、『きる』という意味を『切る』と捉えたとすれば、響くんの行動は強ち間違ってはいないということか」
「階段を下りていたとしても、響くんが階段を下りていたとしか思っていなかったら、そこに何があったのかまでは覚えていないかもしれない」
皐月と大宮がそう言うと、葉月はちいさく首を横に振った。
「ううん。響くんすごく記憶力いいんだよ。国語のテストなんて、いつも百点取るくらいだし。でもそれがなんなのかまでは、わからないんだと思う」
葉月の言葉を聴きながら、皐月はちいさくうなった。
「もしかしたら、言葉としてではなくて、絵として覚えているのかもね?」
大宮がそう言うと、皐月と葉月が彼を見遣った時であった。
突然、大宮の携帯が鳴り響いたのである。
「――吉塚さんからだ」
大宮は携帯に出ると、見る見るうちに表情を険しくする。
そして財布から二千円を出し、皐月に渡した。
「ど、どうかしたんですか?」
「呼び出しだ。転落事故の犯人が自首してきたらしい」
大宮はそう言うと、喫茶店を後にした。
「こちらです。夜行さん」
鳴狗寺の修行僧が、夜行を母屋にある居間まで案内する。
「これはまた珍しい客が来たな。夜行や」
住職である鳴狗実義が応対する。「お久しゅう御座います。住職」
夜行は正座するや、実義に頭を下げる。
「顔を上げなされ。して、お前さんがここに来た理由はなんじゃ?」
「住職、ヴィシュヌ神というのはご存知で?」
夜行にたずねられ、実義は少しばかり考えると、
「たしか創造神ブラフマー、破壊神シヴァにおける三神の内の一体じゃったな?」
「はい。その中でヴィシュヌは繁栄の神。世界を維持する力を持っているとされています。私はその神妃であるラクシュミーにある任務を請け負っておりました」
夜行がそう告げると、襖がスッと開き、実義と夜行はそちらを見遣った。
「信乃……それと真達羅どのか」
「あんた夜行いうたな? ラクシュミーはあんたに何を頼んだんや?」
信乃の肩に乗っていた小さなトラの姿をした真達羅がそうたずねる。
「真達羅か……脱衣婆が因達羅を眷族しているということは、すでにあの娘も十二神将の一人である毘羯羅を眷属にしているはずだな」
夜行がそう言うと、信乃が首をかしげる。
「どういう意味ですか? まるで私と皐月、それにおばあちゃんのことを知ってるみたいですけど?」
「知ってるも何も、お前と皐月ちゃんがもつ妖怪を滅する力は、この男が与えたものだ」
実義がそう言うと、信乃と真達羅は鳩が豆鉄砲を喰らったような表情を浮かべた。
「福嗣町がまだ三つにわかれた小さな村だった頃、ある大地震が起きた。人はそれを関東大震災と伝記している。その被害はこの寺が建てられている北部の村に集中し、当時の神職であり、あなたたちの先祖である鳴狗八房が、亡くなった霊たちをこの寺の地に鎮めた。その地震を起こした妖怪は、ここに眠っていると云われている、三神一体のひとつである三面六臂大黒天の力を得ようとしていたのだ」
夜行がそう説明すると、信乃は怪訝な表情を浮かべ、「大黒天って、稲妻神社に祭られてる神でしょ? なんでそれがうちの寺に?」
「この鳴狗寺がまだ鳴狗神社と云われていた頃、ある巫女が摩利支天の力によって、この一帯を邪な心を持った妖怪たちから、人々を護っておった。稲妻神社の祭神である倉稲魂神。子安神社の祭神である玉依姫神。そしてこの地に祭っていた三面六臂大黒天によって、その結界は完璧なものだったはずだった」
夜行は険しい表情を浮かべる。
「その地震によって、稲妻と子安に祭られた二つの神は戦う力を失い、三面六臂大黒天も最早戦う力を持っていなかった。戦いはこの鳴狗寺を中心とした村の人々を全滅にし幕を下ろした。戦いの後、それぞれの神社の神職たちは鳴狗神社に毘沙門天を祭神として、稲妻神社に大黒天、子安神社に弁才天をそれぞれの神社に配神した」
「その戦いはワイもきいた事あるで。地震によって村は凄惨な姿になったと云われておってな」
「それじゃあ、私たちの力は大昔から受け付かれてきたってこと?」
信乃がそう言うと、夜行は首を横に振った。
「信乃が犬神の力を受け付いているのは血族によるものだ。海雪と皐月は選ばれたからといった方がいいな」
夜行がそう言うと、信乃は眉をひそめる。
「鳴狗神社が寺院となったのは、元々神道において死は忌むものであったためだ。その地に村人の霊を鎮めたとなれば、神社とは云えなくなり、八房は神社を寺院とし、裏に墓地を造った」
「そうか。だからうちのお墓って、町にある他の墓地と違って、一番大きかったんだ」
信乃は納得した表情で言う。
「――して夜行や、ラクシュミーに頼まれていたこととは?」
実義がそう言うと、夜行は姿勢を正しくする。
「ヴィシュヌは世界を維持する力を持っております。これは言い換えれば破壊神であるシヴァよりも危険視されているんです」
「お爺ちゃん、どういうこと?」
「信乃、たとえば足の骨が破壊されたらどうなる?」
「へ? そりゃ歩けないでしょうね?」
「やけど、骨は再び細胞によって再生されて治ったりするんや。これは体の細胞が体形を維持しようとするからやな。やけど、それを維持する力がなかったら?」
「治るものも治らないってこと?」
「この町一帯に起きた大震災は、ヴィシュヌがこの地を維持出来なかったと云われています。それは彼が悪鬼に唆された結果起こしてしまったこと。その悪鬼は戦いの末に封印されましたが、六年前のある日を境にゆっくりと復活していたのです」
「六年前って……皐月がお父さんとお母さんを亡くした時」
「つまり、その悪鬼が再びこの一帯を滅ぼそうとしておるということか? しかし二度も同じ事は出来まい。ヴィシュヌやラクシュミーが夜行に命じた本当の理由はなんじゃ?」
「やつは今まであったことをなかったことにする力を持っています。やつの正体を知っているものがいても、記憶をなかったことに出来るのです。信乃ちゃんにわかりやすく云うと、ゲームの終わり頃にセーブしたデータの上に、新しく始めたデータを上書きしたようなものだね」
そう言われ、信乃は納得のいかない表情を浮かべた。いや、説明的にはわかるのだが、どうして自分に対して、そういう説明になるんだろうかと、腑に落ちなかったのである。
「私は他の神社にも出向き、今起きている事の件を説明してきます」
夜行はそう言うと、スッと立ち上がり、信乃に何かを渡すと居間を出て行った。
「信乃、覚悟しといた方がええで……。もしあんな大事をしてかしたやつが復活しようとしとるんやったら……」
真達羅はその可愛らしい姿からは想像出来ないほどに、険しい表情を浮かべながら信乃に言った。
信乃は先ほど渡されたメモを見るや、首をかしげていた。