玖・鎮魂曲
「それじゃぁ、葵さんはパリの方にいるんですか?」
皐月は大宮巡査に誘われて、彼と一緒に喫茶店でお茶を飲んでいた。
「一応連絡はしたけど、母さんも母さんで忙しいしさ。今度そっちでショーがあるらしくて、その化粧品とか色々売りにね」
「大変なんですね。化粧品会社って」
皐月は余り化粧をしない。するとしても薄化粧くらいである。
「それでいい人がいたら、新商品のCMにオファーするとか云ってたよ」
皐月は笑みを浮かべながら、大宮巡査の話を聞いていた。
「それにしても、どうしてみんな断ったんだろうね?」
大宮巡査が首を傾げる。元々は大宮巡査が、迷惑を掛けてしまったので、皆を誘って何かご馳走しようと思っていたのだが、阿弥陀警部はもちろん、弥生と葉月、信乃もそれを断った。
というよりかは、皐月と大宮巡査を、二人っきりにさせようという魂胆なのだが、「ほんと、阿弥陀警部は捜査で忙しいだろうし、弥生姉さんは夕食の用意。葉月と信乃は来ると思ったんですけどね」
皐月も首を傾げて云う。
この二人、似た物同士なのか、単に鈍感なのかのどちらかである。
日も暮れ始め、大宮巡査は、皐月を神社まで送っていた時だった。
「大宮巡査、今度いつ休みが取れます?」
「そうだね。二ヶ月くらい休んでいたから、その分取り返さないといけないけど、まぁ非番が取れる時が出来たらでいいかな?」
そう聞き返され、皐月は小さく頷いた。
警察官の休日は勤務場所にもよるが、大宮巡査の場合シフトせいがなく、代わりもいないため、事件が滞ったり、忙しくなければ、普通に祝日が休みになる。
皐月は特別一緒に何かをしたいというわけではないのだが、休みにどこか連れて行ってもらいたかったのである。
しかし相手が忙しい以上、無理強いすることは出来なかった。
ふと、大宮巡査が足を止める。「どうかしたんですか?」
「いや、あの人なんだろうなと思って……」
皐月に尋ねられ、大宮巡査は指で示しながら教える。
そこにはベールを来た女性が、ゆっくりと二人に近付いてきていた。
「シスターじゃないんですか?」
「いや、福祠町に教会なんてあったかなぁ?」
云われてみれば確かにと、皐月も首を傾げた。
実際にはあるのだが、そんなに有名な場所でもなく、小さい教会であるため、二人が知らないのも無理はない。
シスターはゆっくりとした足取りで、大宮巡査の隣を通り抜けようとした瞬間――――
「……っ?」
皐月は咄嗟に大宮巡査の腕を掴み、自分のところへと引き寄せる。
「っ? 皐月ちゃん、どうかし……」
大宮巡査は戸惑った表情で皐月を見たが、すぐに自分の左腕を見返した。そして不自然に破れた袖を見るや、ゾッとする。
それを見るや、シスターは舌打ちをする。
「あ、あなた何者なの?」
皐月がそう呼びかけると、突然風が吹き、シスターのベールが風に運ばれるように取れた。
「……っ、え?」
皐月と大宮巡査は絶句する。
シスターの顔の皮は一枚もなく、朱色に染まった顔の筋肉が剥き出しになっている。「な、なによ? その顔……」
強張った表情を浮かべた皐月は、大宮巡査を庇うように後退りする。
「そうね…… まぁ、私の姿を見たからには、生きて帰らせないわよ」
いうや、シスターは皐月の懐に飛び込み、爪先で皐月の皮膚を引っ掻いた。
「……っ!」
皐月の皮膚がピーラーで皮を剥いたように、ピラピラと風で靡いている。
「皐月ちゃん!」
大宮巡査が叫ぶや、シスターは大宮巡査の顔目掛けて爪を立てるが、「瑠璃さん直伝っ! 鉄焼突きっ!」
皐月は、左肘でシスターの横腹を肘打ちし、シスターを吹き飛ばした。
「っ……!」
皐月はその場に跪き、左腕を庇う。「皐月ちゃん、大丈夫かい?」
「な、なんとか意識は保ててますけど…… ちょっとやばいかも」
皐月は額に脂汗を出しながら答えた。左腕は、今でもドクドクと血が流れている。
倒れていたシスターがゆっくりと起き上がり、皐月と大宮巡査を見遣る。
「あなたの肌、すごく綺麗ね。私のコレクションにしたいくらいだわ」
シスターは歪んだ笑みを浮かべる。「そんなの、こっちがごめんだわっ!」
そう云うや、皐月は舌を出し、シスターを睨み付けた。
シスターの姿が消え、皐月は気配を探るが、シスターは足元に現れ、両足の脹脛を切り付けた。
「………………っ!」
言いようのない激痛が走り、皐月はその場に倒れた。「それで動けるんだったら、笑い話よね」
シスターの云う通り、皐月は激痛で、起き上がる事が出来なかった。
シスターが切り付けたのは靱帯であり、関節を折り曲げする役目を持っている靱帯を切るということは、立つことも出来ない。
いくら地蔵菩薩の血を持っていても、すぐに回復出来るわけではない。
「さぁて、あなたの綺麗な顔を剥いてあげようかしらね」
シスターはゆっくりと皐月の頬を上げ、爪を立てた。
そして爪をツーッと引くと、皐月の頬に赤い線が出来、そこから血が垂れ流れていく。
「それじゃぁ、さっさとその綺麗な顔を……」
シスターが爪立てた手を挙げた時だった。
「氷雨・小糠雨っ!」
シスターの上空から、小さな氷の塊が音も立てずに襲い掛かった。
シスターは咄嗟に皐月を突き放すと、その雨を避けるように、間を広げた。
「おばあちゃん?」
皐月は上空を見上げると、そこには鎌を持った海雪が浮かんでいた。
「皐月、大丈夫……じゃないわね?」
海雪は皐月を見遣るや、顔を歪める。「皐月、刑事さん、大丈夫?」
「信乃?」
駆け寄ってきた信乃に、皐月は驚きを隠せないでいた。
シスターは上空に浮かんでいる海雪と、地上にいる皐月たちを交互に見遣る。「面倒だなぁ…… さっさと死んでくれない?」
シスターは飛翔し、上空にいる海雪を叩き落とした。
「な、なによ? あいつの跳力」
海雪は地上およそ二百米上空にいたが、シスターはその上を跳び上がり、海雪を叩き落した。
シスターは間髪入れずに、今度は信乃に襲い掛かった。
「あ、危ない!」
そう叫ぶや、大宮巡査は信乃を庇うように、背中を引き裂かれた。
「お、大宮巡査?」
「け、刑事さん?」
皐月と信乃が大声で叫ぶ。大宮巡査の背中には血が溢れ出している。
「……っ、の……っ」
皐月は目を大きく開き、肩を揺らしている。息は不安定で、心臓の音も普段よりもはるかに大きい。「――皐月?」
信乃が声を掛けたが、皐月は鬼の形相でシスターを睨んでいた。
「ころす…… ころす…… コロすコロすコロすコロす――――」
皐月は譫言のように呪詛を繰り返す。「ちょ、ちょっと皐月? どうしたのよ?」
信乃が声を掛けるが、皐月は耳を貸さないと言わんばかりに憤怒の表情でシスターを睨んでいる。
「…………っ、皐月、ちょっといい?」
信乃はそう言うと、皐月の頬を思いっ切り引っ叩いた。
「し、信乃?」
「ほら、目が覚めた?」
そう声を掛けると、皐月は項垂れた表情で頭を振った。
「――ったく、あんたは感情に流され過ぎ」
「ご、ごめん」
謝る皐月の表情は、先ほど見せた鬼のような形相とは違い、怯えた表情を浮かべている。
「皐月は、大宮さんを護って……っても、その身体じゃちょっと無理か?」
信乃は皐月の足を見る。皐月の足は靱帯を裂かれており、立つこともままならない。
「しかたない。脱衣婆、二人で倒しましょう!」
信乃がそう言うと、海雪は「わかった」と頷き、鎌を構え直した。
「皐月、その人――なんなの?」
そう訊かれ、皐月は戸惑う。「さっき私たちですら気付けなかった動きを、まるで予測したように私を庇った」
信乃は大宮巡査を見ながら云う。
皐月は云われるまでその事に気付けず、質問に答えられなかった。
「まぁ、いいわ。それにわたしは借りは作らないほうだから」
そう云うや、信乃は身体を構える。
――オン・ベイシラ・マンダヤ・ソワカ――
心の中で多聞天の真言を叫ぶと、青白い光が信乃を包み込み、信乃の姿は、青と白の巫女装束姿へと変えていく。
「さてと、さっさと勝負を決め……」
信乃が啖呵を切ろうとした時、シスターと対峙していた海雪が、信乃たちのところへと吹き飛ばされる。
「ちょ、ちょっと! 人がかっこよく決めようとしてたのにぃ!」
信乃はそう言いながら、覆い被さった海雪を除けようとする。「それに、重たいのはその胸だけにしなさいよぉ!!」
「ご、ごめんごめん…… でもあいつ相当強いわよ」
信乃から退いた海雪は、焦った表情でそう告げる。
そして海雪はゆっくりと瞳を閉じ、――オン ソラソバティエイ ソワカ――
弁才天の真言を心の中で唱え、海雪は鎌を構え直した。
「それにしても、皐月の左腕や両足の皮が引き裂かれてるって云うか、皮そのものが剥かれてるって感じね」
海雪がそう言うと、信乃はハッとした表情を浮かべた。「皮? まさか大宮さんが云ってたのって…… あいつがしてきた事じゃ?」
信乃はそう云うや、シスターを見た。
「どうしたの? そんな顔をして――」
シスターは海雪に声を掛ける。「知ってるわよぉ? そこにいる二人に隠してることがあるんでしょ?」
そう言われ、海雪は戸惑う。
「まったく、つまらない生き物よね。人間って……」
「な、なにを云って――」
海雪が言葉を言い切る前に、シスターは海雪の身体を引き裂いた。
「あんたの被ったその化けの皮を引ん剥いてあげる。ほらぁ…… ほらぁ…… ほらぁあっ!」
シスターは爪を立て、海雪の身体を引き裂き、切り刻まれていく。
「おばあちゃん!」
皐月と信乃が大声で呼びかける。
砂煙が消え、シスターの足元に跪いていたのは、小学6年生ほどの小さな少女であった。
「お、おばあちゃん?」
皐月と信乃が同時に同じ渾名を言う。その声は戸惑いを隠せず震えている。
「あらぁ? 知らなかったの? こいつ…… ずっとあんた達のこと――」
シスターが話している刹那、ボトリと何かが落ちる音が聞こえ、シスターはそちらを見る。そこにはシスターの右腕が切り落とされていた。
「余計な詮索はしなくてもいいわよ。それに私は、瑠璃さんに言われて隠していただけ…… 本当だったら、すぐにでも二人に教えたかったくらいだからね」
海雪は笑みを浮かべるが、その瞳は暗く、どんよりとしていた。
「閻獄第二条三項において、死者を盗み、殺したものは『黒縄地獄・畏熟処』へと連行する!」
海雪がそう告げると、お札が現れ、シスターの額に貼りつく。
「くぅあぁああああああああああああああああっ!」
シスターの身体は歪み、青白い炎となって地獄へと送られていった。
「ほ、本当に、おばあちゃんなの?」
皐月がそう尋ねると、海雪は戸惑った表情を浮かべ、外方を向く。
「ねぇ、答えて! どうして、どうして……」
皐月は疲労と困惑で眩暈がしていた。
真相が聞きたかったのだ。どうして海雪は自分たちに、なんの相談もなく、あんなことをしたのか。
確かに皐月たちでは、なんの力にもなれなかったであろう。
高々12歳の子供である。複雑な家庭環境であった海雪を助ける事が本当に出来たのか、皐月と信乃はその歯痒さがあった。
しかし、少しくらい話してくれても良かったのではないかと、そう考えれば考えるほど、やはり歯痒かった。
「私からもお願いよ、おばあちゃん! どうして、おばあちゃんが私たちの……」
信乃は戸惑いながらも、海雪が自分たちを監督していたのかが聞きたかった。
「はぁ……」
と、海雪は深い溜息を吐く。
「まぁ、瑠璃さんからのわがままでね。二人の監督をお願いされてたの。もちろん二人には私の正体を隠したままでね」
海雪は悪びれた表情で二人に告げる。
「でも、わたしはそれでもよかったと思ってる。だってわたしは誰も信頼なんてしてなかったから…… それにあの時だって、二人に話したところで何も変わらないと思っていたし、どうせ殺そうとも思ってた」
その言葉を聞くや、皐月と信乃は表情を暗くする。
「でも、瑠璃さんに云われて、どうしてあの日に実行したんだろうって思ったの…… わたしは心のどこかで、二人と一緒にいる時が楽しかったんだって」
海雪は拳を握り締め、目からは大粒の泪を零している。
「馬鹿だねわたし…… 死んでから、二人の大切さを知るなんてさぁ? ずっと学校でつるんでたくせに、ちっとも気付かないんだもの」
海雪は泣きじゃくり、顔を手で覆う。
「ふたりともごめん…… ごめんなさい…… ごめんなさい……」
海雪は二人に謝罪する。
「もういいよ。おばあちゃん」
信乃はそう言うと、ゆっくりと海雪の頭を撫でた。
「そうだよ。ずっと私たちを見てたって事は、私たちの供養がおばあちゃんに通じていたてことじゃない?」
皐月がそう言うと、信乃も同意するかのように頷いた。
「あれ? でもそれじゃぁ、どうしてわたし、おばあちゃんって云ってたんだろ?」
皐月はキョトンとした表情で首を傾げた。「そりゃぁ、脱衣婆だからじゃない?」
「ううん、私初めて会った時から、自然におばあちゃんって云ってた」
皐月は海雪を見ながら云うが、結局本人はその違和感に答えが出なかった。