参・凪
病室の片隅にベッドがあり、それを囲むようにカーテンが締められている。
時間は既に夜の十時を過ぎており、消灯時間である九時を疾うに過ぎていた。
弥生はベッドに腰をかけた状態で窓を開けると、月の光が暗い部屋の中に入ってきた。
「遊火、入ってきなさい」
弥生がそう云うと、小さく風が吹いた。
するとカーテンが少し靡くどころか、拳大くらいの大きさにへこんだ。
「――弥生さま、お呼びでしょうか?」
ボゥと無数の火の玉が現れ、それらが一箇所に集まるや人の形へと成っていく。
その姿は十から十二歳くらいの少女で、髪型はストレート。いわゆる一抹人形などに見られる純和風を思わせる髪形だった。
少しばかり違うのは、服装が洋風で、頭と腰にフリルのついた大きなリボンを着けている。
平たく云えば『ゴシック・ロリータ』である。
遊火は鬼火の一種といわれており、高知や三谷山などの、城下や海上に見られる。
鬼火といっても、人に害がない大人しい妖怪であった。
「弥生さまに云われて調べましたところ、襲われた道には妖気もその残り香さえ漂っていませんでした」
「あの時私は警戒してたのよ? それなのに人の気配は感じられなかった」
遊火の言葉が信じられないわけではないが、現に弥生は警戒していた上で脹脛に傷をつけられている。
「――あの道には何かあるわけ?」
「いえ、特には……」
そう遊火が云うと、ハッとした表情で、「そう云えば、たしかあの近くの家で惨殺事件があったとか」
「それ五年以上も前の事件でしょ?」
そう云いながら、弥生は怪訝な表情を浮かべた。
「で、それと私が襲われたのと何の関係があるのよ?」
「それが……、あの家には珍しい生き物を飼っていたようで」
「珍しい生き物?」
そう聞き返すと、遊火はスッと左手の人差し指を虚空に突き刺した。
すると何もないところから点々と火の粉が集まり、それらが形を成していく。
遊火自体がひとつではなく、無数の火の玉が集まったものと云われているため、こういった芸当が出来る。
小魚が群れを成して大きな魚に見せている事と同じだと思っていただければいい。
形を成していく火の玉はなにやらひょろ長い動物の形になった。
「――いたち?」
「フェレットというものみたいですね。弥生さまの云う通り鼬の一種です」
確かに珍しいと云えば珍しいが、今の時代を考えると、フェレットを飼っている家はそう珍しいものでもない。
「五年前に起きた惨殺事件の被害者は沢口修造、四五歳の男性。死因は体中を切り刻まれた出血死によるものと云われています。犯人はいまだに見つかっていません」
「当時は強盗事件とかって云われてなかった? 死体が見つかった部屋の中は荒らされていたって」
「ですが……、金目のものはひとつも盗まれていません。それどころか切り刻まれていたようです」
強盗目的による殺人だったら、当の目的である金目のものをそんな風にするとは思えない。
「それと話を元に戻しますが、弥生さまが襲われた場所を調べていた時、警察の方々が何か集まっていましたが?」
「あそこは最近通り魔事件が起きてるから、パトロールとかじゃない?」
今の時間だったら、まだ人が通っている可能性がある。
「いえ、それだったら周辺を巡回するんじゃないでしょうか?」
そう云われ、弥生は阿弥陀警部が呼び出されていた事を思い出す。
「何か事件が起きたって事? 警察が集まるほどの――」
「それはわかりませんが」
「わからないって? あなた鬼火の一種なんだから霊感がある人にしか見えないでしょ?」
そう怒鳴るように云われ、遊火は泣き出しそうな表情を浮かべた。
「ひゃって、ちぃかずこぉうとしぃたときぃかぜぇが急に止まったぁんでぇすよぉ? 怖いじゃないですかぁ? いきなりかぜぇが止まったりなんかしたらぁ」
愚図り出し、ワンワンと泣き喚き始める。
「ちょ泣かなくてもいいでしょ? あなた一応妖怪なんだから」
「でもぉわぁたし妖怪ですけど、皐月しゃまにはふぇんふぇんきぃずぅいてもらふぇまふぇんしぃ~~っ」
「それは――、ほら皐月は幽霊が見えないでしょ? それに力の弱い妖怪も見えないって云うし」
「ほぉらぁ、わぁたし妖怪じゃないんだぁ」
そりゃまぁ鬼火とはいえ、人に害をなさないのが遊火である。力が弱いといわれても否定出来ない。
先ほどもカーテンが拳大にへこんだ時も、本来なら燃えていたはずであるが、実際は燃えるどころか焦げさえもない。
そもそも鬼火というものは幽霊とも燐が発火した事による自然現象によるものとも云われている。
とはいえ、遊火自体がなんの害も持たない陰火である。
「それにしても、急に風が止まったって事は、少なくともそこに何かがいたって事よね?」
弥生は出来る限り穏便に話を元に戻していく。
「でも何も見えませんでしたよ?」
「何かがいたって云うのはそう云う意味じゃないの。遊火が近付こうとした時に凪になったということよね?」
“凪”というのは風を意味する几に“止”まるという字が入っている事から風が止まった状態の事を指す。
「今日の天気予報は北東の風で夜になると強さを増すって云っていたから、少なくとも風が止まるということは考え難いでしょ」
「――ということは私が見えていた……という事でしょうか?」
「それはわからないけど、妖怪である遊火が感知出来なかった妖気。もしかすると妖怪じゃないのかも――」
弥生が深く考え始めると、遊火がポンッと手を鳴らした。
「そう云えばあの道って六年前までは狭かったんですよね」
恐らく遊火は特に何も考えないで云ったのだろう。
「狭かったって……、二車線道路だからそんなに狭くないでしょ?」
弥生はそう云うが、何故か六年以上前の記憶が曖昧だった。
「違いますよ。昔あそこは車一台に歩行者がやっと通れる道だったんですよ。道が狭いから車の行き来も出来ないし、何より歩行者に事故の危険性があった。本来あの道は弥生さまや皐月さま、葉月さまが学校に行き来する時間帯は車が通れないようにしていたのに、近道だからって車が無断で通っていたんです。道を広げる際立ち退きとかもしていたそうですよ。私、拓蔵さまの手助けをしている前からこの近所の事知ってますし」
遊火は七年前に拓蔵が助けた妖怪で今はその恩を返している。
「そう云えば、あそこって祠があったような……」
「祠? 初めて聞いたけど――」
遊火の言葉に聞き返すと、「そりゃそうですよ。だって以前事件があった公園の林にある祠がそれですから」
そう遊火が云うや、何かを思い出した。
「確かあそこって昔は鼬が住んでたんですよね」
「いたちかぁ……、それだったら“かまいたち”が出てくるんだけど」
「でも“かまいたち”は妖怪ですよ?」
弥生が遊火と会話していると、コツコツと机を叩いたような音が聞こえてきた。
「ちょいとあんた……、独り言にしちゃでか過ぎるんでねぇかえぇ?」
隣りで寝ていた老婆にそう云われ、二人は互いを見遣った。
「す、すみません。ちょっと演劇の練習をしていたもので」
「ほうかい、大変だぁねぇ。あんまり根気詰めると体に悪いからねぇ」
「はい、すみませんでした」
弥生は老婆に頭を下げると、視線を遊火の方に向けた。
「一度爺様に話して、もう一度あの周辺を調べてみて」
そう云われ遊火は嫌そうな顔を浮かべるや、「そのストレートの髪を両側のみつあみかウェーブをかけて……」
弥生がそう云うと、遊火は髪を抑えながらたじろぐ。
遊火の奇妙な服装は弥生の手製であり、云ってしまえば着せ替え人形と成っている。
弥生のゴスロリ趣味は家族と趣味仲間くらいしか知らず、新作を作る際もまずは遊火のサイズで作ってみている。
遊火が嫌そうな顔をしているのは、本来日本の妖怪である遊火が、そんな中世ヨーロッパ調の服装を好んで着ている訳ではなし、弥生以外の目の前では先に述べた通り一抹人形のような服装で現れている。
その最後の砦である長くスラッとした綺麗な長髪を訳もわからないへんな髪型に弄られてはと考えるとやはり命令を聞くしかなかった。
「わかりました。でも危険だと感じたら逃げますからね」
「わかってる。何も危険な目にあわせる訳じゃないでしょ? あくまで偵察なんだから」
弥生にそう云われ、遊火は一つ溜め息を吐くや、パァとまるで蒲公英の綿毛に息を吹きかけたかのように、無数の小さな火の玉となって、開けられたままの窓から出ていった。
遊火の振り仮名がしつこいくらいあったので、最初のところだけを残して、後は削除しました。