弐・聖譚曲
阿弥陀警部は怪訝な表情で、女性の遺体を見ていた。
遺体は一糸纏わぬ姿ではあるが、発見された場所がバスルームであるため、入浴中に殺害されたのだと推測出来る。
遺体の首元には絞殺痕があり、死因も窒息死によるものとはっきりしているにも拘わらず、阿弥陀警部は納得してはいなかった。
「どうした、難しい顔をして」
鑑識課の湖西主任が尋ねると、阿弥陀警部は溜め息を吐いた。
「いや、ちょっと、ある人のことを思い出しましてね……」
「ある人か…… 確かに似ておるな」
湖西主任はそう言いながら、遺体を調べる。
「お前は死因よりも、その課程が気になるんじゃろ?」
「ええ。仏さんは殺される少し前まで、誰かとしていたと考えて間違いないでしょうね」
「それがまだ残っておるということは、だいぶ中に出されているわけだが」
湖西主任は遺体の足を動がし、指を股に忍ばせた。
――ヌルリと滑った感触が、指先に走しる。
愛液(膣分泌液)とは別の、白濁とした液が湖西主任の指先に絡まった。
「検死に回して詳しく調べるか。お前さんは仏の身元と、その周辺に関しての聞き込みじゃな」
「――彼女達に相談は」
阿弥陀警部がそう尋ねると、湖西主任は苦虫を噛み締めた表情を浮かべた。
「これがまだ妖怪の仕業だと決ったわけではなし。そうであっても、気がすすまんな」
湖西主任の言葉に、阿弥陀警部も同じ気持ちであった。
「イチゴのショートとティラ・ミス、それからロールケーキにキウイのタルト……」
とあるケーキ屋のカウンターで、皐月はショーウインドゥに飾られたケーキを指さし、注文をしている。その隣りには信乃の姿があり、若干引いていた。
「あんた、そんなに食べると本気で太るわよ?」
信乃は呆れた表情で言う。「これでも抑えてるほうよ。あ、ショコラケーキもひとつ」
皐月はあっけらかんとした顔で言うが、注文した量は、すでに三人分は下らない。
ショートケーキの大きさも、バイキングのように小さくカットされたものではなく、ケーキ屋で売られている大きさだ。
これが姉妹で食べるのではなく、皐月一人で食べようとしているのだから、信乃が呆れるのも無理はない。
「前はホールふたつくらい、楽に食べれたんだけどね」
「結構付き合い長くて、甘党だってのは知ってるけど、あんたが太ってるの見たことないわ」
信乃はそう言うと、ケーキの値段を一瞥した。
「一ヶ百円……って、何このばかみたいな値段」
信乃は唖然とした表情で叫ぶ。「安いけど、味は保証するよ。なんてたって、瑠璃さんも美味しいって云ってたし」
「閻魔王が? そんなに美味しいんだ。それじゃぁ私も、自分と浜路のに買ってこうかな」
そう言うと、信乃はシュークリームをふたつ注文した。
その帰り、皐月はケーキ屋の袋を片手に持ち、もう片方の手で携帯を弄っていた。その表情は楽しそうである。
「もしかして、あの刑事さん?」
信乃がそう尋ねると、皐月は否定することなく頷く。「今度の水曜に退院だって」
「結構重傷だったみたいだけど、意外に早く退院出来たわね」
信乃が何気なく言うと、皐月は足を止めた。
「わたし、大宮巡査に助けてもらって、怪我がはやく治ったのだって、瑠璃さんの力によるものだし、本当だったら大宮巡査」
皐月は肩を震わせながら言葉を発っする。
「助かったんだからもういいでしょ。あんたは責任感あり過ぎ」
信乃はそう言うと、皐月の両頬をつねった。
「あの事故だって、逆恨みした朽田健佑がしたことなんでしょ?」
何時の間に現れたのか、海雪がそう言うと、皐月と信乃は彼女を見遣った。「でも私が……」
皐月はうずむいてしまう。
「ほら、あんたの大好きな刑事さんにさっきみたいな顔してみなさい。余計な心配させるだけよ」
そう云われ、皐月は苦笑いを浮かべた。
「そうだね。もう変な心配はかけたくない」
皐月はそう言うと、携帯を閉じた。
「そう云えばおばあちゃん、鴉天狗は捕まったの?」
皐月が尋ねると、海雪は顔を歪める。
「いや、まだよ。十二神将も一部を除けば、全力で検挙にあたってる」
「前から詳しく聞こうと思ってたんだけど、地獄裁判の仕組みってどんな感じなの?」
信乃がそう尋ねると、海雪は一度深呼吸をする。
「死んだ人はまず三途の川に訪れるの。私が死者の服を剥ぎ取ったものを、懸衣爺が衣領樹という木の枝にその服を掛ける。枝はその人の罪の重さによって撓り具合が違ってくる。重い罪をもった死者が三途の川を渡ると、川の流れが速くて波が高くなり、深瀬になった場所を渡るよう定められているから、衣はずぶ濡れになって重くなり、衣をかけた枝が大きく垂れることで罪の深さが示される。それと死者が服を着ていない場合は、衣の代わりに亡者の生皮を剥ぎ取るからね。そして川を渡りきると、どこの地獄に落ちるのかを決める裁判が行われる。これに関しては、信乃の家がお寺だし、葬儀屋もしてるから説明は省くわ」
「ええ。ただ私や皐月と言った執行人が罪状を言い渡した妖怪も、同じような感じなの?」
「妖怪は元より罪の重さは普通の死者よりも重たいってことはわかってるからね。三途の川は渡らず、そのまま獄卒によって監獄に入れられる。それから裁判に掛けられる」
海雪はそう説明すると、他に聴きたい事はないのかと聞き返した。
「基本的にこっちの世界における裁判と同じだって思って良いわけ?」
「二人は警察が犯人を逮捕し、裁判を掛けられるって思ってるでしょ?」
そう聞き返され、皐月と信乃は小さく頷いた。
「まぁ、間違ってはいないけど。裁判に掛けられれば、検視は被告人の有罪を、弁護士は無罪を主張する。そして色々な証拠品や証言を結び合わせ、矛盾したところを指摘し合いながら結論に至る。これが現世における裁判の流れ」
海雪は言葉を一度止める。
「だけど、地獄裁判においては、元より有罪である事は確定している。ただその罪の重さを決めるために、執行人が必要だって事なのよ」
そう云われ、皐月と信乃は首を傾げた。
「執行人はいうなれば裁判所の命令で犯人……つまり二人からすれば妖怪を捕まえるように義務付けられたものなの。当然抵抗すればそれなりの対応が出来るように、皐月は瑠璃さんの力を、信乃は弥勒菩薩の力をそれぞれ与えられている。後はさっき説明した通りよ」
信乃は海雪の説明を聞くや、「でも良く考えたら、命令された事って余りないかも」
「まぁ、自警みたいなものだし、強制じゃないからね。でも、公私混同はご法度。それに罪状は二人が言い渡したものが適用される事もあれば、裁判によってより重たくなったり、逆に軽くなったりもするわ」
「例えばどんな風に?」
「以前美咲って言う白狐がいたでしょ? 瑠璃さんが言い渡した罪状もあなたに云った通り罪は軽くなった。逆に間宮理恵を殺した犯人……西条祐子は、身勝手な理由もあって、それ以上の地獄に落とされる事になった」
海雪がそう説明すると、皐月は顔を俯かせた。そんな皐月を見るや、海雪は溜息を吐く。
「当然でしょ? 皐月に取り憑いた間宮理恵の胎児を奪おうとして、皐月を襲ったんだから。瑠璃さんはそのことでお冠だったからね。まぁ、ちゃんとした罪状を言い渡せたけど……」
海雪は心の中で(そうじゃなくても、最近は地獄裁判ほったらかしになってるんだよなぁ。いくら現世と地獄の時間の流れが違うからって…… まぁ、わからないことじゃないけど)と呟いた。
「そう云えば、閻魔王って、どうして皐月や、他の二人の事になると人が変わったみたいに激変するのかしら?」
信乃がそう言うと、海雪はハッとした表情を浮かべる。
「あ、いや…… ほら、瑠璃さんって拓蔵と付き合い長いみたいだから。知り合いが傷付いて黙ってられないんじゃない?」
海雪はあたふたとした表情で答える。
皐月と信乃は特に気に留めず、ふーんと納得した。
それを見て、海雪は変な冷や汗をかいた。
警視庁捜査一課刑事部の一角に、阿弥陀警部と湖西主任、佐々木刑事の姿があった。
三人は先日発見された女性の遺体に関する検死結果を読んでいた。その表情は、どうしたものかと云わんばかりである。
「死因は予想通り、首を締めての窒息死。それ以外には一部を除けば、特に目立った外傷はなし」
「その一部がわかってると、あの二人には説明する気が滅入りますね」
阿弥陀警部は眉を顰めた。
「あの事件か…… あの二人にとって、あれは思い出すのも嫌じゃろうな」
佐々木刑事はそう言うと、窓の外を見遣った。
「六年前に起きた転落事故。四年前に起きた奇怪な通り魔事件。そして今から一年半ほど前に起きたあの事件」
「地蔵菩薩はあの事件を重く感じておるからな。たまにどうして自分は人間ではないのだろうかって……な」
子安神社の境内に神楽堂という建物がある。
中には様々な楽器が置かれており、それらはすべて、自由に扱うことが出来る。
そんな神楽堂に綺麗な琴の音が響いていた。
奏でていたのは海雪であった。
「何回聞いても、魅入らされるほどに綺麗な音じゃな」
そう言いながら、子安神社の神主である、咲川源蔵が神楽堂の中に入ってきた。
「お前さん、なんか嫌なことでもあったか?」
「どうしてそう思うの?」
「心に変化があると、音に微妙な違いがあったりするんじゃょ」
「そんなこともわかるんだ」
海雪はそう言うと、琴を元の場所に戻した。
「伊達に弁天さまを祭ってはおらんし、わしも若い頃はエレキでテケテケ鳴らしてたもんじゃよ」
咲川は笑いながら、ギターを弾く真似をする。
海雪はそれを見ながら、クスクスと小さく笑った。「お、笑ったな」
「だって、鼻歌と左指の動きが全然違うから」
海雪は淑女のような容姿であるが、その表情はまだ幼さを感じさせる。心から笑っているあどけない笑みだ。
「わしはな、海雪さんを見とると、娘の小さい頃を思い出すんじゃよ」
咲川が何気なくそう云うと、海雪は憎悪にみちた表情を浮かべたが、それを悟られぬよう、平然な笑みを浮かべる。「そ、そんなに似てるの?」
「ああ。まるで親子みたいにな」
『親子か…… 間違ってはないけど、私は一度もそんなこと思ったことないよ』
海雪は表情を暗くする。
「しかしその娘とも、もう15年くらい音信不通でな。まったく、いったい何処にいるのやら」
咲川は苦笑いを浮かべた。海雪はそんな咲川を見るや、申し訳ない表情を浮かべる。
『もう会えないよ。だって、おじいちゃんの云ってる人って、私のお母さんで、その人は私が殺したから――』
海雪はそうでなくても、あの壊れ狂った母親を見て、咲川が苦しむ姿しか想像出来ないため、伝える事が出来なかった。