捌・道祖神
警視庁に戻ってきた拓蔵は、すぐさま湖西刑事に割れた花瓶の破片を渡した。その破片は欠けた部分にも朱色に染まっている。
「この花瓶にルミノール反応があるかどうか調べて欲しいんですけど」
拓蔵がそう言うと、湖西刑事は首を傾げた。
「可笑しいと思いませんか? 花瓶の割れた部分に塗料が付く事はないはずなんです」
瑠璃は湖西刑事から欠片を受け取り、翼々とそれを見る。
「つまり、この破片で犯人は坂本隆平を殺した……ということか?」
「これで頚動脈を切れば可能じゃないかなって、それに割れた花瓶の中に紛れ込ませれば」
「……怪しまれないということですか? 警察がそこまで目を遣らないと思ってやったんでしょうかね」
瑠璃はそう言うと湖西刑事を見遣った。
「しかしそうなると、ますます水本の証言が必要になるな……」
湖西刑事はそう言うと、瑠璃を見遣った。「浄玻璃鏡で見る事は出来んのか?」
「――浄玻璃鏡? それって確か、閻魔さまが死んだ人が生きていた時の悪事を調べるための……」
拓蔵がそう言うと、瑠璃は寂しそうな表情を浮かべた。「えっと? 俺なんか変なこといいましたか?」
「いえ、黒川くんの説明は合っています。確かに浄玻璃鏡は、死者が生前に犯した罪を調べるために使う道具です。でも、本来全ての衆生は均しく罰を受けなければいけない。それがたとえ一寸の虫を殺す事だとしても」
「――厳しいんですね」
「でもそれを悔やめば罪は多少軽くなります。それに、本来浄玻璃鏡はその人の人生を映し出す鏡なんです。どんな事をしてきたのか、そしてそれが周りの人々にどのような影響を与えたのかという、戒めを教えるためでもあります」
瑠璃はそう言うと、ジッと拓蔵を見た。「私はあなたがしたことを追及する気は、毛頭ありません。あなた自身は何も悪い事をしてはいない。ただその命は助けられたはずではないのですか?」
瑠璃は恨めしそうに拓蔵を睨む。「おい、福本巡査長。その話は今関係ないじゃろ?」
湖西刑事にそう云われ、瑠璃は拓蔵から視線を外すと、そのまま鑑識課を後にした。
「すまなんだ。地蔵菩薩は子供を第一に護る神仏じゃからな、たとえ仕方のないことだとしても、あんたを怨まずにはいられんのじゃよ」
「怨まれる覚えはないですけど、彼女が思ってることは本当ですよ。俺は助けられたはずなんだ。夏樹と文那を」
拓蔵はギュッと拳を握り締める。
「取り敢えず、これは調べておく。後はあんたが思ってる通り、水本の証言があっているかどうかだ」
湖西刑事にそう云われ、拓蔵は頷くや鑑識課を後にした。
「えっと、その事なら警察に話したはずですが?」
拓蔵は事件当時坂本隆平が作業場に入る以前のことを、水本に訊ねに来ていた。
「いや俺が聞きたいのは、作業場に入る前のことなんです。死亡推定時刻は、どうやら作業場に入ってからになってるんですよ」
拓蔵がそう説明すると、「ですが、先生が出てきた様子もありませんでしたし、第一先生は集中すると、一心不乱になりますからね」
「あなたの云う通り、坂本隆平は作業中で集中していたため、外から声を掛けていたあなたの声に気付かなかった。もしくは元からどこか別の場所で死んでいたか」
「……な、何を云ってるんですか?」
「昨日、作業場を拝見させていただきました。そしたら小さな窓があったんです。そこから声を掛けたんですか?」
「え? ええ、そうですよ」
水本はそう答えたが、表情に焦りがあった。
正直拓蔵もそう答えるだろうと予想はしていたが、本心はそうではない。
「おかしいですね。その窓って、外からじゃ絶壁になっていて、人が覗き込めるような場所じゃなかったはずですけど?」
そう云うや、水本はハッとし、拓蔵を睨みつけた。「それに、本当に作業をしていたのなら、陶芸に使う轆轤が汚れているはずじゃないんですか?」
「も、もしかしたらまだ粘土を捏ねていたかもしれません」
「鑑識の話だと、掌や爪の間に土汚れはなかったそうなんですよ」
そう云われ、水元の表情は強張っていく。「あ、あなた一体なんなんですか? まるで私を犯人みたいに」
「犯人じゃなかったら、知らない事じゃないんですか? それに俺はあなたのアリバイが聞きたいんですよ。坂本隆平が殺された前日…… 取引先の鳥居宏明が殺されているんです」
「鳥居さんがですか?」
水本がそう言うと、拓蔵は眉を顰めた。その表情は今始めて聞いたような、寝耳に水と云った感じである。
拓蔵はこの鳥居殺害も水本がしたのではという考えがあった。
しかし、この水本の表情は嘘を云っていないと感じられたのも確かだ。
「確か坂本隆平が殺された日、あなたはその取引先と連絡をしていたそうですね」
「ええ。何でも先生の作品が売れたとかなんとか」
水本がそう説明すると、「でもその日より前から行方不明になってるんですよ。それに、発見された死体は坂本隆平の死亡推定時刻の前になっている」
拓蔵がそう言うと、水本は怪訝な表情を浮かべた。
「私が嘘を言ってるとでも?」
「いや、それを確認したのはうちの同僚ですし、警察もそこまで馬鹿ではないです。ただ…… それが本物の鳥居宏明だったのか」
「ほ、本物に決まってるじゃないですか?」
水本が声を張り上げると、近くから靴音が聞こえてきた。
「黒川巡査長、彼が云ってるのは本当でしょう。ただそれが本人だったかどうかは別ですが」
やってきた瑠璃がそう言うと、拓蔵と水本は目を疑った。
「水本さん、あなたは取引先の会社に電話したんですよね?」
瑠璃にそう訊かれ、水本は答えるように頷く。「だったら、彼が云ってる事は本当です。会社に問い合わせたところ、その時間電話があって、相手は水本さんだったという電話番の人からの証言がありました」
瑠璃が説明している中、拓蔵は瑠璃の足元を一瞥する。履いていた靴が動きやすい運動靴だったが、瑠璃の服装はピシッとしており、どうにも似つかわない組み合わせだったからである。
さらに肩で息をしているため、つい先ほど知ったのだと拓蔵は瑠璃に説明を受けた。
「それじゃあその時、水本が電話をしたというアリバイは成立してるって事ですか?」
「まぁ、今となってはその証言も意味がなくなりましたが、でも彼が会社に電話した事は本当のようです」
拓蔵と瑠璃の会話を聞きながら、水本はホッと胸を撫で下ろした。
「それと湖西刑事からの伝言です。あなたが持ってきた花瓶の破片から予想通りルミノール反応が出たようで、今その解析をしているそうです。恐らく坂本隆平か、鳥居宏明のものだと考えられます」
拓蔵は水本を見遣る。「それにしてもどうして割ったんですか? パッと見でしたけど、結構いい作品みたいでしたが?」
拓蔵がそう訊ねると、「私も破片を見ただけでしたが、色艶も良かったですし、何より土に魂が宿っていました」
瑠璃がそう言うと、拓蔵は小声で「地蔵だからですか?」と尋ねる。
「本当にいい作品には、作者の魂が宿ると云われています。ただそう思っただけですよ」
瑠璃はあしらうように言い返した。
「あれは先生の作品ですよ。ただ気に入らなかったものは割っていたようです」
水本がそう説明すると、拓蔵と瑠璃は互いを見遣った。それを見て、水本がどうしたのかと尋ねる。
「いや、その取引先に送る作品もですか?」
「ええ。先生は自分が納得したものにしかしていなかったそうです。だからよく納期が遅れたりしてたんですよ」
「それって自分が納得する料金じゃなかったら売らなかったと考えても?」
「いいえ、先生はそれが作品の価値だろうから、あまり追求はしなかったそうです」
水本の言葉を聞きながら、拓蔵はもちろん、瑠璃も狐に摘まれたような表情を浮かべていた。
「予想が外れましたね。安く仕入れていた作品を高く売られていたことを知った坂本隆平が、鳥居宏明にそれを問い質し殺そうとしたが、逆に殺された…… そう思っていたんですけど」
警視庁に戻っている間、拓蔵は瑠璃と会話をしていた。
「でもまだ水本のアリバイが成立しているわけじゃない。彼のアリバイが成立したのはまだ会社に電話をしていたことだけ。そもそも坂本隆平の妻や友人のアリバイも、はっきりしたものではありませんからね」
瑠璃はそう言いながら、神妙な表情を浮かべる。「しかし、坂本隆平が作業場にいたという……」
拓蔵がそう言うと、瑠璃は少しばかり眉を顰めた。
「黒川くん…… 根本的に勘違いしてるようですが、遺体は作業場で発見されたのではなく、道中にある林に捨てて……」
瑠璃はそう言うと、歩みを止めた。
「水本は、一体誰を呼ぼうとしてたんでしょうか?」
「そりゃ、坂本隆平――ちょっと待ってください? 作業場にいなかったとしたら、誰を呼ぼうとしてたんですか?」
「そもそも遺体には無数の切り傷があった。首を落とすだけに飽き足らず惨い事までしている」
瑠璃はそう呟くや、拓蔵の手を引っ張り、走り出した。
「急いで現場に戻りましょう。もしかしたら私たちは何か勘違いをしていたのかもしれません」




