玖・馨
「はぁ…… はぁ……」
いくら拒絶しようとも信乃は同じ夢を繰り返し見ている。
多少違ってはいても逃げ出すことの出来ない夢を見せられていた。
これは夢なんだ……とわかっている。もうユズはいない。
しかしそれを理解したところで、反枕の思う壺である。
底なし沼のように、足掻けば足掻くほど悪夢は繰り返されていく。
「いぃやぁ…… もういゃぁ……」
信乃は顔をぐちゃぐちゃにしながら泣き崩れる。
「もういやぁ…… 私のせいじゃない…… 私のせいじゃない…… 私のせいじゃないのにぃ…… うぅぐぅ、えっぐぅ……」
声を震わせ嗚咽を吐く。
「お前のせいだ。お前がちゃんとしていれば、ユズは死なずにすんだ。ああ、聞こえるぞ…… ユズの嘆きが…… お前に見捨てられたユズの鳴く声が」
黒い影が囁くように云う。それに答えるようにユズが吠える。
「ほらぁ、聞こえるだろ? あれはお前に懐いてるんじゃない。お前たちが持っている怨み辛みの声だ。犬を虐殺してきたお前たち一族のなぁ」
「違う。おじいちゃんが私たち一族は犬とともに生きてきたって……」
「いやぁ違うなぁ、道具として使ってきたんだ。そして役に立たない犬は虐殺してきたんだ」
黒い影が云う通り、鳴狗家は犬とともに山の狩を行っていた。
「ほら、聞こえるだろ? そこにいる犬畜生とは違う声が! お前たち一族を怨んだ声が」
黒い影が信乃に話しかける。
「拒絶するなぁ、お前たち一族は村八分されたんだろ?」
「違う。違う……」
信乃は頭を激しく振る。
「お前がユズを殺した。殺した。殺した」
「私が…… ユズを殺した」
「そうだ。あの日、お前はユズが云うことを聞かないからほったらかしたんだろ?」
黒い影がそう言うと、
「私はユズが云うこと聞かなかったから…… ユズを叩いて……」
信乃がその先を云おうとした時だった。
「くぅ~ん……」と目の前にいるユズが小さく鳴いた。
「ひぃっ!!」と信乃は身体を窄めた。
ユズがゆっくりと信乃に近付く。
「いぃやぁ、ユズ…… こないで、私が私が悪かったから……」
信乃は逃げるようにユズから離れる。
「ほぅらぁ! ユズはお前を許してはいない。お前を殺したくてたまらないんだ」
黒い影がケラケラと大笑いする。
「くぅ~ん」
可細い声を挙げると、ユズはちょこんと座った。
舌をだらんと出し、小さな尻尾を振っている。
「――ユズ?」
信乃は驚いた表情というより、唖然とした表情でユズを見遣った。
「アンッ!」と答えるようにユズは吠える。
「…………っ」
信乃はゆっくりとユズに手を差し伸べる。
どうしてか、このユズは大丈夫だと思ったのだ。
手をユズの鼻先三寸のところまでいくと、ユズは身体を動かした。
「きゃははははっ! 飼い犬に噛まれろ! 噛まれてしまえ!」
黒い影がそういった時だった。
その余裕を裏切るかのようにユズは信乃の掌に頬を擦り付け、舌で舐め始めた。
「ユズ…… 怒ってないの?」
信乃がそう尋ねると、「アン」とユズは尻尾を振って答えた。
「ほんとに? 怒ってないの?」
もう一度尋ねる。ユズは手から抜けると信乃の身体にしがみついた。
「ど、どうした! 早く首を! 首に噛み付け!」
黒い影がそう叫ぶと、突然ユズの身体が青白く光り始めた。
「――犬神?」
「な、なんだこのまぶしい光は……」
あたり一面が真っ白になる。
そして信乃の身体は少女から現在の十四歳の姿へと変わっていく。
「この感じ…… 暖かい」
信乃は目を細め、小さく笑みを浮かべる。
――オン・ベイシラ・マンダヤ・ソワカ――
心の中でそう叫ぶと青白い光が信乃を包み込む。
信乃の姿は青と白の巫女装束姿へと変えていく。
「な、なんだと?」
黒い影が怯む。
「……何これ?」
信乃は戸惑った表情でそう呟く。
『それがあなたの持つ毘沙門天の本当の力』
頭の中から声が聞こえ、信乃は驚いた顔を浮かべる。
「ちょ? ちょっとなにこれ?」
『恐れることはない。その力は多聞天の力を引き出す呪文のようなものだ。今までとは違う仮初ではない力をな』
頭の中で聞こえる声がそう言うと、信乃の周りには青白い人魂がひとつ、ふたつと現れる。
「な、なによ……これ?」
信乃は人魂を手で払いのけようとする。
『臆するな。そのものたちは昔、鳴狗八房によって供養された人々の魂だ』
声がそう告げると、人魂は信乃の手に集まり、一本の刀へと変わった。
「な、なにを考えてるか知らんが、お前はもうこの夢から逃げられん」
黒い影が大きく広がり信乃を包み込む。
「一刀…… 羅刹」
信乃は刀で闇を切り裂いたが、すぐに元の闇へと戻っていく。
そしてうしろから刀で切られてしまう。
「――っ!?」
信乃はなにが起きたのか理解出来ず、ふらふらと立ち上がるや、
「……一刀・安達原」
今度は刀を闇に無数に振るう。しかし同様に闇はすぐに元に戻り、今度は真正面から切り刻まれてしまう。
「くぅきゃははははっ! そんなことをしても無駄ダァ。この闇の中では何も出来ない。そう夢の中で人間が何も出来ないのと同じようになぁ」
闇の中で声が響き渡る。
『確かに…… さっきので確認出来たけど、どうやら刀で切ったのがまるで鏡みたいに跳ね返ってくるって感じね。迂闊にやると逆に私のほうが危ない』
信乃はそう考え、構えなおす。
『皐月だったら……この場合どうするんだろうな…… 考えてみたらあの子は誰かのためにしてるってわけじゃない。若しかしたら私は妖怪を助けたいって思ってるあの子を心のどこかで認めてたのかもしれない』
信乃はそう考えながら辺りを警戒する。
「どうしたぁ? もうおしまいかぁ? それじゃぁ! お前をあの世に連れてってやる」
影がそう告げると、突然信乃は身体を窄める。
「あ、がぁあっ!」
ギリギリと首を絞められ、信乃は刀を落としてしまう。
「夢から逃げられないようにしてやる。そしてお前の身体はこの世からなくなる」
声がそう告げた時だった。犬神が信乃の周りで飛び回ると、
「ぎゃぁああああああああああああっ?」
影が悲鳴を挙げるや、信乃の首を絞めていた力が弱まる。
「げぇほっ! げほっ!」
信乃は咳き込み、刀を拾い上げる。
「くぅそぉっ! この犬畜生がぁあああああああああ……」
影が犬神を追いかける。
『さぁ、君は君が出来ることをするんだ』
突然声が聞こえ、信乃は目を大きく開いた。
「で、でも…… 刀を振れば跳ね返されるのよ?」
『信乃ちゃん。君ならわかるはずだ。この夢がただの夢じゃないことが』
「ただの夢じゃない?」
『そうだ! もしこの闇を作り上げた妖怪が云ってる通り、ここが夢なら……』
犬神がその先を云おうとした時だった。
「これ以上は云わせねぇぞぉっ!!」
影が犬神を捕まえ蝕んでいく。
「ユズゥッ!」
信乃は絶叫し、刀を振ろうとした時だった。
『刀を使って戦うことが戦いじゃない。自分の持ってる力を……』
犬神はそう叫ぶと、最後に「ワン」と吠え……消滅した。
「きゃはははっ…… 梃子摺らせやがって、いいか? 夢から覚められるわけねぇんだよ。俺の夢は悪夢だからなぁ」
影がそう言うと信乃のほうへと視線を移した。
『私の持ってる力……』
信乃は頭の中でそう呟くと、刀を構え、ゆっくりと目を瞑った。
「お? なんだ? もう諦めるのかぁ? そうだよなぁ、お前なんかじゃ俺に勝てるわけがねぇもんなぁ」
影――反枕はゆっくりと信乃に近付いていく。
『ユズはあの時、ここが夢ならって云った。その先をあの影は云わせようとはしなかった。つまり、ここが本来の夢とは違う……』
信乃は鼻を一、二度ほどヒクヒクと動かすと、目を大きく開いた。
「そぉこだぁああああああああああああああああああああああっ!」
咆哮を挙げ、信乃は身体を捻り、うしろに刀を振るった。
「――ぎゃっ?」
小さな悲鳴が聞こえるや、辺りの闇が霞みかかる。
「一刀…… 戦風扇っ!」
信乃は一心不乱に刀を振るう。
「あ、ぎゃ? くぅ? ぎゅぁがぁ……」
反枕は苦痛の悲鳴を挙げていく。
「な、なんだとぉ? ど、どうしてわかった」
反枕の身体はズタズタに切り裂かれている。
「昔知り合いに教えてもらったことがあるのよ。夢の世界では痛みとかにおいとか…… そういう五感は感じないって」
信乃はそう告げるとゆっくりと刀を反枕に突きつけた。
「でも、この夢の中では何度も殺された。痛みを苦しみを味わって…… 頭がぐちゃぐちゃに混乱してたから理解出来なかったけど」
「そ、それだけの理由で、おれぉをぉっ! 俺を見つけることは出来ないはずだぁ」
「ええ。確かにユズが教えてくれなかったら、多分あんたの力によって、私は一生閉じ込められたままだったかもしれないけど、犬とともに栄えてきた鳴狗家の血筋をなめないでよ?」
そう告げると、信乃はゆっくりと刀を大きく振りかざした。
「ばぁかめぇ……」
反枕は姿を消した。
「――閻獄第五条十項において、人の夢を荒らし殺めたものは『大叫喚地獄・とうきぼうしょ』へと連行する」
信乃が刀を地面へとつきたてると無数の人魂が現れ、辺り一面に散らばった。
「くぅぎゃぁ?」
「そこぉおおおおおおおおおおっ!」
反枕が怯んだ隙を見つけ、信乃は刀を振り上げた。
真っ二つに切られた反枕の額にお札が貼り付けられる。
「ど、どうして…… 私の力がこんな小娘にぃいいいいいいいい?」
「鳴狗家の人間は普通の人より鼻がいいのよ」
信乃がそう言うと刀を振るい露払いした。
――そして周りの景色に罅が入り地面が崩れると、信乃は奈落へと落ちていった。
「っ!」
信乃が目を覚ますとそこは彼女の部屋だった。
「――夢?」
信乃は頭を振りながら、今までのことを思い出していた。
そして部屋の中に自分以外の人間がいることに気付き、そちらを見るや、
「しぃのぉおおおおっ」
そこには涙や鼻水でぐちゃぐちゃになった皐月の姿があった。
「さ、皐月? なんで私の部屋に……」
信乃がそう尋ねようとする前に、皐月がギュッと信乃を抱きしめた。
「よかったぁ…… よかったぁ……」
「ちょ、ちょっと離れなさいって」
信乃は皐月を自分から離そうとしたが、
『そういえば、あの時使った技って、考えてみると皐月がつかったりしてるのよね。それじゃあの時聞こえた声って』
そう考えながら、信乃は皐月を一瞥すると、そんなわけないかと肩を下ろした。
自分の胸に蹲って泣いている皐月があんな堂々としているとは思えなかったのだ。
「ってかさぁ、ひとつ訊いていい?」
「なぁ、なにぃ?」
皐月は顔を上げ信乃を見る。
「どうして皐月が私の部屋にいるのよ?」
「は、浜路ちゃんが信乃が目を覚まさないって……心配になって」
「目を覚まさなかった……」
信乃は何かを思い出す仕草をする。
「――それってさぁ、いったいどれくらい?」
「一昨日から」
「おとと……」
信乃は言葉を止めると目を大きく開いた。
「あ…… あああああああああああああああああああああああっ!」
突然悲鳴を挙げ、信乃は布団から飛び上がるように立ち上がった。
「ど、どうしたの? まさか! まだ反枕の影響が?」
皐月は持ってきていた二本の竹刀を手に持ち、構える。
「一昨日ってことは、二日前ってことよね?」
「へ? ええ、そうだけど」
皐月がそう答えると、信乃はゆっくりと皐月の方へと見た。
その表情は青褪めている。
「い、今…… 何時?」
「はぁ?」
「いいからぁ! 今何時よぉっ!?」
信乃は皐月の肩を掴み、激しく揺さぶる。
「っと、夜の8時くらいじゃない?」
皐月が答えると信乃はピタリと動きを止めた。
「DVD予約するの忘れてたぁあああああああああああああっ!」
そう絶叫する中、皐月は「はぁ?」といった感じに呆れた表情を浮かべる。
「はぁ?じゃないわよ! 部活で忙しい中、夕方のアニメをリアルタイムで見れないからDVDで予約するしかなでしょ?」
「いや、だったらビデオ借りれば……」
「わかってないわね。リアルタイムでネ友と呟きあう。あの状況がぁあああああああ…… あぁああああああああ***っ! **さん……」
信乃は絶叫を挙げ、頭を振り上げる。
「ちょ、今凄く表現出来ない台詞が出てきたんだけど」
皐月はそう言いながら、信乃を若干引き気味に見ていた。