漆・生き地獄
「信乃が起きないって…… この前阿弥陀警部が訊いてきたことと何か関係があるの?」
皐月がそう尋ねる。
浜路の想像とは裏腹に信乃のことを話すと、意外にも冷静な反応をしている。
「まだわからんが、起こしてもまったく反応がないのじゃろ?」
拓蔵が浜路に尋ねると答えるように浜路は頷いた。
「それにしても、夢の中に出てくる妖怪ね…… たとえば獏とか?」
「獏は夢を食べると云われているからな、悪夢を見せるとなると……」
言葉を止めると拓蔵はスッと立ち上がり、居間を出て行った。
「ごめんなさい……」
突然浜路が三姉妹に謝る。
「どうしたの? 浜路ちゃん」
「おねえちゃんと皐月さんが仲悪いの知ってるのに、でも頼れるところってここしかないし」
身体を震わせ、俯いた浜路がそう言うと、
「なんか根本的な勘違いしてるみたいだけど、私は別に信乃のことが嫌いってわけじゃないわよ?」
あっけらかんとした表情で皐月がそう言うと、浜路はゆっくりと顔を上げた。
「確かにユズのことや執行人としての考えが食い違ってて、仲違いしてるみたいに見えるけど、私は今でも信乃のこと友達だって思ってるし、信乃の考えも間違ってはいないと思ってる。だから妖怪を怨まないでほしいなんて考えてないもの」
「でも……」
「私だって嫌いな人はいるし、好きになれないものだってある。簡単な話、妖怪も人も一緒。いい人もいれば、悪い人だっている」
そう言うと、皐月は天井を見やった。そこには遊火が漂うように見下ろしている。
「でも、もし信乃が間違ったことを繰り返し続けるなら、止める。それが友達だからね」
皐月がスッと立ち上がろうとした時、居間の障子が開いた。
「獏以外で夢を操る妖怪わかったぞ、今までのことを考えると恐らくこいつの仕業かもしれんな」
戻ってきた拓蔵が書庫から持ってきた書物を卓袱台の上に広げた。
それを三姉妹と浜路が覗き込むように見た。
「『反枕』という妖怪でな、寝ている人の枕を裏返したり、枕を足元に移動させるという妖怪じゃ」
拓蔵がそう説明すると、三姉妹と浜路はキョトンとした表情で拓蔵を見やった。
「爺様、それのどこが危険な妖怪なの? ただの悪戯好きなだけじゃない? 夢の中で殺されたんなら、インキュバスとかサッキュバスのほうが理に適ってる気がするんだけど」
弥生がそう言うと、拓蔵は険しい表情を浮かべた。
「そやつらは別名『淫魔』といってな、インキュバスは女性の胎内に自分の子供を孕ませると云われ、サキュバスは男を誘惑し、精気を吸い取ると云われておる。浜路、信乃の様子から察するに笑い声と唸り声、その両方とも聞いとるんじゃったな?」
そう訊かれ、浜路は頷く。
「もしインキュバスの仕業じゃったら、唸り声というより喘ぎ声の方が理に適っておるじゃろ?」
「まぁ、そうだったとして、どうして犯人が反枕にいきつくの?」
「確かに悪戯するだけの妖怪なんじゃが、伝承の中には人間を殺すものもあってな、それに夢を見ている間は魂が肉体から抜け出し、その間に枕を返すと魂が肉体に帰ることが出来ないと云われておるんじゃよ」
「つまり、その状態で枕返しをすると、その人が死んだことになるってこと? 自殺した近藤武蔵は最初から死んでいたってことになる?」
皐月はそう言うと、何を考えたのか携帯を取り出す。
「どこにかけるんじゃ?」
「湖西主任のところ。もし爺様が云ってる通り、夢の中で死んだ後、現実世界の身体が勝手に動いて飛び降り自殺をしたなら、もう死亡推定時刻がはっきり出てるはずじゃない?」
皐月がそう言うと、携帯の呼び出し音が途切れた。
『もしもし…… 皐月ちゃんかえ?』
「はい、皐月です。あのお聞きしたいことがあって」
『何じゃ? こっちは寝取ったんじゃから、ゆっくり喋ってくれ』
湖西主任にそう云われ、皐月は軽く深呼吸する。
「先日自殺したっていう近藤武蔵の件ですが、死亡推定時刻は阿弥陀警部たちが云ってた通り、自殺した明朝4時30分頃なんですか?」
『いや、わしも最初そう思ったんじゃがな、詳しく調べると死因は転落による脳挫傷ではなく、心筋梗塞じゃった。ただいつ死んだのかは特定出来んがな』
「それじゃ自殺する前にすでに死んでいた?」
『そう考えられるな……』
湖西主任が何かを言う前に、皐月は携帯を切るや、竹刀を手に持ち、居間を出て行こうとする。
「ふぇっくしょん!」
クシャミをすると、皐月は目の前にいる真達羅を睨みつける。
「話を聞いとらんかったんか? 今回の相手は夢の中に出てくるんや、こっちにいるうちらにはどうする事も出来へん」
「ふぇっく…… ど、ふぁっく、いて……」
「いや退けへん。もし第二、第三の被害者が出た時、対処する人間がいなかったらどうするんや?」
真達羅がそう説得すると、
「第二、第三って何? 被害は少ないほうがいいって意味?」
「そんなこといってへん。うちが云いたいのは対処する……」
真達羅は言葉を止めた。全身に身の毛が弥立つものを感じたのだ。
「要するに信乃自身がその悪夢に打ち勝たない以上、対処出来ないってことでしょ?」
皐月の言う通り、今回皐月たちは何も出来ない。夢を見ている信乃がその悪夢から勝たなければいけないのだ。
「な、なんやわかっとるやないか?」
「でも、あんたは信乃が負けるって思ってるんでしょ?」
「そ、そんなことあらへんって、これでもワイは弥勒菩薩はんや普賢菩薩はんからの命で、信乃の守を頼まれとるんや。でもなぁ今回はワイにも無理なんやで?」
真達羅は冷静な態度でそう言うが、歯をガタガタと震わせていた。
『な、なんや? 十二神将のワイが震えとる? 確かに皐月はんは地蔵菩薩はんの孫娘やけど、その力は四分の一しかあらへんし、異常な治癒能力以外は殆ど普通の人間と変わらんはずや……』
真達羅がそう考えると、
「いいから……退いて」
「い、いや、退かへ……」
真達羅が言うや前に、廊下の奥から何かがぶつかった音が聞こえた。
「あ、あがぁ……」
ガラガラと崩れる壁に真達羅が打ち付けられている。
『な、なんやの…… ぜんぜん見えへんかった』
体勢を整えると、真達羅は皐月を見やる。
「あ、あんたわかっとるんか? ワイは十二神将なんやで? 十王直結の……」
「だからなに? 友達が危険な目に遭ってるのに心配になっちゃいけないわけ?」
ゆっくりと振り返った皐月が真達羅を見つめる。
『な、なんや? この禍々しい気は…… 大黒天のものやない。もうひとつ何かおる……』
皐月の周りには青白いオーラが漂っていた。
しかし、それを確認出来たのは真達羅のみであった。
そのオーラから真達羅に向けて邪気を放っている。
『この感じ? ワイは知っとる…… 同じ十二神将の毘羯羅と同じ気や…… でもあいつはこんな怖い気を……』
――真達羅はハッとする。
梵名『ヴィカラーラ』と云われる十二神将子神である毘羯羅はヒンドゥー教の女神であるドゥルガーといわれており、外見は優美で美しいが、実際は恐るべき戦いの女神と伝えられている。
またヴィカラーラは『恐るべき者』という意味がある。
「もし信乃に何かあったら、守れなかったあんたの身体を死なない程度に引き裂いてやるから覚悟しなさい」
皐月はそう告げると、そのまま母屋を出て行き、鳴狗寺へと向かった。
真達羅はその場にへたりこむ。
真達羅が頭の中では自分を引き裂くことなど、皐月には到底無理なことと考えてはいたが、心の中では本当に遣りかねないと思ってしまったのも事実であった。