伍・不帰
不帰:二度と帰ってこないこと。転じて、死ぬこと。
教室の扉が音を立てて開き、そこから葉月が姿を現した。
それとほぼ同時に浜路が隣の教室から姿を見せる。
それぞれが立てた音に気付き、そちらを見やると、
「葉月ちゃん、今帰り?」
浜時にそう尋ねられ、葉月は頷く。
「――市宮さんは?」
「美耶ちゃんは今日塾があるからって、先に帰ってったけど?」
葉月にそう言われ、浜路は少し考えると
「今日さ、弥生さんって遅い?」
そう訊かれ、葉月は首を傾げる。
「弥生お姉ちゃんに何か用があるの?」
「信乃おねえちゃんのことでちょっと相談があるの」
「皐月お姉ちゃんじゃ駄目なの?」
皐月なら弥生より帰りが早い可能性があると考えての問いだ。
「皐月さんだと、信乃おねえちゃんとちょっとあるっていうか」
確かに信乃のことで皐月に相談するのは少しばかり都合が悪い。
「多分夕方くらいには帰ってくると思うけど、でも信乃さんがどうかしたの?」
そう尋ねると突然浜路が肩を震わせる。
「起きないの。一昨日からずっと……」
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
弥生が家に帰ってきたのは、丁度夕方六時になろうとしていた時だった。
「あ、弥生お姉ちゃん、お帰り」
居間にいた葉月がそう言うと、弥生はただいまと返事を返す。
「あれ、浜路ちゃん? もう帰らないと怒られるんじゃないの?」
葉月の隣に浜路が座っているのに気付いた弥生は葉月にそう尋ねた。
「いや、今日は弥生に話があるといってな、話が済んだら送っていくつもりだ」
拓蔵がそう言うと、弥生は肩にかけていた鞄を床に置き、卓袱台の前に正座した。
「それで、私に訊きたいことって?」
「弥生さんって、隠れてる幽霊とか妖怪の気配がわかるんですよね?」
「まぁ、出来なくはないけど、それがどうかしたの?」
「信乃おねえちゃんの周りにそういうのいないかなって調べてほしいんです」
そうお願いされ、弥生は葉月を見やった。浜路の表情は真剣で冗談を言ってるとは思えなかったからである。
「でも、信乃さんだったら、自分でどうにか出来るんじゃないの?」
「それだったら、お願いには来ませんし、したらおねえちゃんに怒られるのわかってるけど…… でも、おねえちゃん、一昨日から目を覚まさないんです」
「――どういうこと?」
そう聞き返すと、浜路は事の件を説明した。
「爺様、この前阿弥陀警部たちが尋ねてきたことと似てない?」
「じゃが、信乃が起きた様子はないんじゃろ?」
そう言われ、浜路は頷いた。
「でも、何か呻き声みたいなのが部屋から聞こえてきて、心配になって部屋を覗いだら、今度は笑い声が聞こえて」
「何か夢を見てるって事?」
葉月にそう訊かれ、浜路は答えるように頷いた。
「しかし、それだけじゃなぁ」
拓蔵がそう言うと、葉月が拓蔵のほうを見るや小さく悲鳴を挙げた。
拓蔵の頭の上に小さな動物がいたからである。
「なんじゃ、誰かと思えば真達羅か?」
拓蔵が冷静にそう言うと小さな動物――真達羅は呆れた表情を浮かべた。
「なんや、もう少しリアクションとってほしかったわなぁ、そんなんじゃお笑い界の一番星にはなれへんで?」
真達羅がそう言うと、
「地獄にお笑いとか必要なのか?」
「そりゃ必要やで、毎日しんどいからなぁ心のゆとりくらいあってもええやろ」
真達羅がそう言うと、拓蔵は呆れた表情で真達羅を見やった。
居た堪れなくなった真達羅は一度咳払いをする。
「ほんで本題やけど、浜路ちゃんが言うてる通り、信乃はんがここ何日か目を覚まさへんねん」
「でも若しかしたら、知らない間に起きてるってことも」
「わいがずっと見とったんや、それだけはない」
真達羅が自信満面に言う。
「でも真達羅って、確か薬師如来眷属の十二神将のひとつじゃ?」
「正確に言うとな、薬師如来はんの十二ある大願に応じて生まれた天部の神やな。因みにワイの本地は普賢菩薩ちゅう神様や」
「そんなことより、信乃さんが目を覚まさないのは本当のようね」
弥生がそう言うと、浜路は暗い表情を浮かべた。
「真達羅は弥勒菩薩に頼まれて信乃を監視しておったんじゃろ? 信乃に不審な行動はなかったのか?」
「いんや、いつもどおりビデオの予約してから寝たんやけど、それから起きんくなっとるんや」
「ビデオ? 何か予約してたの?」
「ああ、いつも夜中にやっとる番組なんやけど」
「夜中にねぇ――」
弥生がそう呟くと、突然廊下から誰かがクシャミする音が聞こえ、全員がそちらを見やった。
「皐月お姉ちゃん」
葉月がそう言うと、帰ってきた皐月が居間に顔を覗かせる。
その途端――
「べぇっくしょん! ふぇ、ふぁく……」
二度、三度と連続してクシャミをし、まるで花粉症患者が見せるような表情を浮かべていた。
「ちょ、ちょっと! 葉月ぃっ! まさか家の中に猫入れてない?」
皐月が涙目でそう尋ねると、葉月は首を横に振った。
「嘘言わないでよ! 私がアレルギーなの知ってるでしょ? ふぇっくしょん」
言葉の途中でクシャミをする。見れば顔には蕁麻疹が浮かび上がっていた。
「あれ?」と弥生が首を傾げる。
以前、拓蔵の知り合いである京本福介の家に行ったさい、その娘である雨音が隠れて猫を飼っていたことを思い出したが、自分たちが来たときにはすでに猫は死んでいたので、アレルギーが出るとは思えなかった。
「多分、真達羅のせいじゃろうなぁ」
拓蔵が頭上にいる真達羅を見やる。
「ってか、なにそれ?」
皐月がそう尋ねると、真達羅は拓蔵の頭上からヒョイと飛び降りるや、卓袱台の上に着地した。
「ワイの名は真達羅。薬師如来はんが作った地獄裁判をする際、亡者が現世で犯した罪を隈なく調べるのがワイら十二神将の仕事や」
「その十二神将がどうしてこんな……ふぇぇくしょん」
皐月は言葉の途中でクシャミをする。
「アンサンなぁ、人が話しとる時にクシャミやなんて、酷いやないん?」
「その原因はお前にあるんだがな?」
拓蔵がそう言うと、真達羅は首を傾げたような仕草をする。
「真達羅…… おぬし、十二支に譬えると何になる?」
「えっと、寅やけど?」
真達羅がそう言うと、弥生と葉月、そして浜路がハッとした表情を浮かべる。
「あ、もしかして……」
「な、なんや? なんやの? ゆうてぇなぁ」
真達羅がキョロキョロと周りを見る。その表情は焦っていた。
「トラはネコ化ヒョウ属に分類される肉食動物なんじゃよ」
拓蔵にそう言われ、真達羅は呆気に取られた表情を浮かべた。
つまり、ネコアレルギーである皐月がクシャミや蕁麻疹を出していたのは、真達羅が原因であり、皐月から二米ほど離れると、アレルギー症状は柔らいでいた。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
信乃が目を覚まさないという件は、同じく十二神将の一人である因達羅の口を通して、海雪の耳にも届いていた。
「信乃さんが通っている学校の剣道部顧問をしている布袋智輔――弥勒菩薩さまからの報せによると、信乃さんが目を覚まさなくなったのは二日前。丁度、阿弥陀如来さまや佐々木刑事が神社に訪問した晩のようです」
「真達羅からの報告だと、霊気もなければ妖気もなかった」
「それと、同じく十二神将である伐折羅が今回の件、獏という妖によるものという考えがあったそうなんですが」
因達羅が言葉を途中で止めたため、海雪はどうしたのかと尋ねた。
「よく獏は悪夢を見せる妖怪と云われていますが、実際はその逆で、悪夢を食べてくれる妖怪なんです」
それを聞くと、海雪は少しばかり考える仕草をし、
「確かに近藤武蔵が夢の中で殺されたことを考えると、信乃の件もそれに近いわけだし、そう考えられないわけじゃないわね。でも、そういう妖怪だったら悪夢を見せるとは思え――」
海雪は言葉を止め、険しい表情を浮かべ、気配を探った。
そして、徐に虚空から大きな鎌を取り出し、それを手にもつや、
「凍雨っ!」
云うや、鎌の刃が凍り、それが横一文字に振り回されると、ビュンという風の音が当たりに響き渡った。
「よくわかったわね?」
暗闇からスーと人が姿を表す。
その姿は黒のスーツを羽織った女性で目だけが赤く光っていた。
「それだけ痛々しいほどの邪気を発してたんじゃ、いやでも気付くでしょ?」
「そう? そこにいる雑魚は気付かなかったようだけど」
云うや女性――鴉天狗は因達羅を見やり、笑みを浮かべた。
その因達羅は額に汗を浮かばせながらも、小刀を手に持ち、構えを取っている。
「閻魔さまからの命令で、あんたを殺してでも地獄に連れ戻しなさいって言われてるんだけど」
海雪は鎌を振り回し構え直す。
「いったいどんな大罪を犯したのか知らないけど、素直にお縄を頂戴しなさい!」
云うや、鎌を大きく振り翳し、鴉天狗目掛けて振り下ろした。
海雪の放った一刀の先には何もなく、代わりに海雪と因達羅の周りには無数の羽根が二人を囲っていた。
それは四方八方天地と逃げ場はない。
「一歩でも動いたら、羽根があなたたちの体を突き破るわよ?」
鴉天狗が笑みを浮かべながら云う。
海雪はスッと鎌をダラリと下ろし、
「不遣雨……」
海雪がそう告げると、大粒の雨が降りはじめ、周りの羽根を濡らしていく。
「そんなことをしてもムダァ、殺されたいようだから、さっさと……」
鴉天狗が焦った表情を浮かべ、指示を示すかのように指を動かしている。
「な、なんでよぉ? どうして云うことを聞かないの?」
どこからともなく、月明かりが差込み、海雪と因達羅の周りを照らした。
そこには確かに鴉天狗の放った無数の羽根があったが、そのすべてが凍りついていた。
「あんた、氷雨って知ってる? その言葉通り、空から降ってくる氷の粒のこと。一般的には霰や雹のことを云うんだけど、冬に降る冷たい雨も氷雨って云うの。だから氷雨は夏と冬の季語でもあるのよ」
そう云うや、海雪は鎌を構え直し、辺りに舞った凍り付いた羽根を一瞬のうちに砕いた。
その氷の破片が海雪や因達羅の周りに飛び散る。
その景色はまるで氷雨のようであった。
「いったいどうやって?」
「簡単よ。地上の気温と空の気温は60度も違って、ちょっとした水でもすぐに凍りつく」
「それはあんたたちも一緒でしょ?」
鴉天狗がそう言うと、
「私たちは元から存在しないから――」
答えるように因達羅がそう言うと、持っていた小刀を鴉天狗の首目掛けて切りかかった。
「っ! 飃」
鴉天狗の背中から羽が生え、身を覆うように羽が閉じる。
その羽は硬く、因達羅の小刀を弾き飛ばした。
――オン ソラソバティエイ ソワカ――
その言葉を聞くや鴉天狗は羽を少し広げ、その隙間から海雪を見やる。
海雪は鎌を縦横無尽に振り回し、視線を鴉天狗一点に集中させていた。
そして鎌の動きが止まるや――そこに海雪の姿はなく、まるで大きな力で自分の体を突き落とされる感覚を鴉天狗が感じた刹那、背中から衝撃を与えられた痛みと同時に、口から大量の血が包まった羽の中で飛び散った。
その一滴、一滴が彼女の顔に飛び散る。
「あ、がぁ、あがぁが」
ゆっくりと羽が広げられ、鴉天狗は顔についた自分の血を掃った時である。
――ナウマク サマンダボダナン インダラヤ ソワカ――
因達羅がそう呟き小刀を構える。
「ちょ、ちょっと…… それって帝釈天の真言じゃ……」
鴉天狗がそう訊くと、
「元より私の別称は『帝釈天』」
因達羅は小刀を振り翳し、鴉天狗目掛けて投げ付けた。
鴉天狗はもう一度羽を丸め、身を守ろうとしたが、小刀は鴉天狗の体ではなく、羽に突き刺さり、一瞬にして、灰と化した。
「金剛杵があなたを纏った邪気を滅ぼす」
そう云うや地面に突き刺さった小刀が抜け、因達羅の手元に戻り、もう一方の羽に突き刺さり、灰と化していく。
「地獄から脱獄したものは、今まで以上の罰を受けなければいけない」
因達羅が鴉天狗を蔑視する。
「元より、あんなところにいた時よりも、地獄にいたほうが私にとっては天国だから、どんな罰を与えられようが耐えられる!」
鴉天狗はふらふらとしながらも立ち上がり、刀を構えた。
「……颶ぇえええええええええええっ!」
「プレスト コン・フオーコ」
海雪が鎌を大きく振り翳すと、刃は真っ赤に染まり、炎を纏った。
「炎が風に勝てるとでも思う?」
鴉天狗が咆哮を挙げ、海雪を切り刻む。
「ペルデンドシi」
海雪がそう呟くと刃に纏った炎は鎮火した。
それはちょうど鴉天狗の放った風が炎を消し飛ばそうとした時であった。
「ペザンテ」
刃が鴉天狗の体に突き刺さり、海雪が鎌の柄から手を離すと、鴉天狗の体が突き落とされる。
再び地面に叩きつけられた鴉天狗はジタバタと、体に突き刺さった鎌を外そうとしたが、
「な、なによぉ、これぇ……? なんでこんなに重たっ! げぇほぉっ」
地面にはりつけられた鴉天狗を上空から海雪と因達羅が見下ろす。
「閻獄第八条――」
海雪が礼状を云おうとした時、一瞬彼女は焦りとも同情とも取れる曖昧な表情を浮かべた。
そして徐に突き刺さっていた鎌を自分の元に戻した。
その行動に因達羅はおろか、鴉天狗も理解出来ないといった表情を浮かべている。
「み、海雪さん?」
因達羅が尋ねるが海雪は彼女にではなく、鴉天狗に視線を送っていた。
「……っ」
鴉天狗は逃げるようにスーと姿を暗ます。
「まっ、待ちな――」
因達羅が後を追おうとしたが海雪がそれを制す。
「み、海雪さん。いったいどうしたんですか?」
「ひとつ教えて。鴉天狗がまだ生きていた時、彼女が犯した罪はなんだったの?」
海雪がそう尋ねると、因達羅は少しばかり躊躇った表情を浮かべたが、やがて口を広げ、海雪に教えた。
そして、海雪は鴉天狗が現世で犯した大罪を悔やみ、同情した。
それはまるで自分のことのように――――