弐・幽玄
阿弥陀警部ならびに佐々木刑事が二階建ての一軒家に訪れたのは、まだ薄暗い明朝四時のことであった。
大きな悲鳴と物音が一人息子の部屋から聞こえ、それに驚いた母親が部屋を覗いたが何事もなかったかのように息子はベッドで眠っていたという。
母親は被害者に何が起きたのかを尋ねようと、息子を起こそうとしたが一向に起きない。
その違和感で母親は警察に連絡した。
「あの子はすぐに起きるんですけど、まるで死んだみたいに眠っているんです」
母親の証言を聞きながら、阿弥陀警部と佐々木刑事はベッドで寝ている『近藤武蔵』を見ていた。
彼らも一、二度ほど武蔵を起こそうとしたが、まったく反応がなかった。
「息子さんが就寝した時間は?」
「息子は今年受験で、その勉強していましたから詳しくは…… ただ何かを探しているような微かな物音はしていたので、本棚から参考書を出していたんだと」
母親の説明通り、机には勉強道具一式が出され、本棚には本が抜かれた形跡を示すように隙間が出来ている。
「佐々木刑事、何かわかりました?」
「まぁ、素直に寝ていると思って間違いないじゃろうが、胸も動いておるしな」
佐々木刑事の言う通り、武蔵の胸は上下に動いている。
肺呼吸をしているのだから動くのは当然で、そもそも死んでいたとすれば呼吸など出来るはずもない。
ふと阿弥陀警部は武蔵の相貌が一瞬動いたのに気付き、片目を指で抉じ開けた。
そしてよく見えるようにペンライトで瞳を照らした。
「――瞳孔が動いてる?」
瞳孔とは眼球に光が入るようになっている部分で、カメラで言うレンズの役割を持っている。
人や動物が物を見るさい、その光を通して脳に景色や形といった情報を伝達している。
「生きてるって証拠かね?」
「瞳孔が動いてるって事は何かを見てるって事ですよね?」
阿弥陀警部がそう云うと、佐々木刑事は少しばかり顔を歪ませる。
「何かを見ているとすれば――夢ってことか?」
ここまでして起きないのだ。深い眠りでなければ――
「深い眠りの状態で夢なんて見るんですか?」
夢を見るというのは殆どがレム睡眠状態といった浅い眠りの状態といわれている。
どうしてそう云われているのかというと、夢というのは脳が活動していなければ見ることが出来ない。
つまり体が眠った状態で脳が覚醒している浅い眠りほど、夢を見るとされている。
しかしながらそういうことがある以上、やはり起きないというのは如何せん可笑しい。
阿弥陀警部と佐々木刑事が色々と考えていると、突然武蔵が上半身を起こし、目をカッと開いた。
「――武蔵くん?」
母親が声をかけたが武蔵は何も反応を示そうとしない。
「あの、起きてますか?」
阿弥陀警部が尋ねると武蔵は体を起こし、ゆらゆらとした足取りで部屋の窓に近付き、窓を勢いよく開けるや、窓のサッシに足をかけた。
「ちょ、何やってるんですか?」
阿弥陀警部と佐々木刑事が止めにはいるが、武蔵はそこから動こうとはしない。
「む、武蔵くん、やめてっ!!」
母親も止めに入ったが、武蔵はそれを振り払い、窓にもう一本の足をかける。
「っ! 迷企羅っ!」
阿弥陀警部が十二神将の一人である酉神の迷企羅を呼び出すと、窓の外には白髪に赤のメッシュが入った青年が上空に姿を現した。
「武蔵くんっ!」
母親の悲鳴と同時に武蔵は体を外に放り込んだが、その空中には既に迷企羅が受け止められる体制でスタンバイしていた。
阿弥陀警部と佐々木刑事はホッとした表情で下を見下ろす。迷企羅も同様であった――
武蔵は迷企羅を見るや、ニヤッと大きく顔を歪ませ、体を捻り、迷企羅の腕をすり抜けた。
迷企羅はハッとし、腕を伸ばしたが間に合わず、グチャっという潰れた音と母親の絹を裂くほどの慟哭が朝の訪れを知らせていた。
遺体となった武蔵が運び込まれたのはそれから間もない頃であった。
阿弥陀警部と佐々木刑事は武蔵が落ちた場所から部屋の窓を見上げる。二人の額には脂汗が出ていた。
「落ちる途中から体がずれる事なんてあるんですかね?」
阿弥陀警部はまだ乾ききっていない血溜まりを見るや、佐々木刑事に尋ねる。
窓から垂直に飛び降りたとすれば、多少のズレはあっても、肩幅くらいのズレが起きることはあまりない。
「強風に煽られてならわかるが、そんなものはなかったしな」
佐々木刑事はそう言いながら、母親のところへと戻った。
「阿弥陀如来さま」
すれ違いに迷企羅が姿を現す。その表情には焦りがあった。
「どうしたんですか? あれくらいの高さだったら楽に受け止められたでしょ?」
阿弥陀警部は柔らかい表情でそう尋ねたが、その瞳に余裕が見えない。
「あの者…… 私のことが見えておりました」
迷企羅がそう報告すると阿弥陀警部は首を傾げた。
迷企羅は十二神将の一人であり、ただの人間が容易く見ることなど出来ない。
阿弥陀警部は人の姿に権化しているため、普通の人でも見る事が出来る。
しかし元々が本家となる菩薩や如来、明王の化身である十二神将の姿は本人が見せようとしない以上、霊感もない普通の人間が見る事は不可能であった。
「あなたのことが見え、体を捻ったと?」
「そうとしか…… ただあの者、落ちる瞬間私を見るや顔を歪ませ」
「顔を――ですか……」
阿弥陀警部はそう呟くと母親のほうを一瞥した。
母親は跪き、荒々しい声を挙げていた。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「夢遊病ですか――」
警視庁刑事部鑑識課の一室で、阿弥陀警部と佐々木刑事は湖西主任から遺体の検死結果を聞いていた。
死因は脳挫傷によるショック死とされたが、湖西主任は阿弥陀警部と佐々木刑事の報告からその原因を夢遊病と言い返した。
「一昔前に、インフルエンザに罹った10代がその薬を飲んで、異常行動や転落事故を起こしたという報告があったじゃろ?」
「ええ、聞いたことありますけど、でも今回そういったのは母親から聞いてませんよ」
「血液にもインフルエンザ反応はなかった。というより時期的にも罹るとは思えんしな」
「そうなると、やはり先ほど云った通り、夢遊病といった感じなんかね?」
佐々木刑事がそう訊くと、湖西主任は顔を俯けながら椅子に座った。
「それなんじゃがな、夢遊病――正確に言えば睡眠時遊行症というんじゃが、これはノンレム睡眠状態に多く見られると云われていてな、眼球運動をしているレム睡眠とは対照的に、ノンレム睡眠は眼球運動を伴わないんじゃよ」
阿弥陀警部は自分たちが武蔵の目を見た時、頻りに動いていたことを思い出す。
つまりその状態はレム睡眠であったという説明がつくが、
「入眠時、最初に起きるのがノンレム睡眠。続いて約1、2時間ほどでレム睡眠になる。それから交互に起きるとされてるんじゃよ」
「わしらが来た時は目が動いておったから、レム睡眠状態――つまり浅い眠り」
「でも、夢遊病はそれとは別のノンレム睡眠状態に起きる」
阿弥陀警部と佐々木刑事がそう言うと、湖西主任はもうひとつの可能性を話した。
それは『レム睡眠行動障害』というものであった。
本来体を動かせる状態ではないレム睡眠では見られない体を動かすという症状である。
簡略して説明すると、寝言や睡眠時の異常行動がそれにあたる。
これと似た症状である夢遊病と違うのは、本人は夢が見れる状態――レム睡眠状態は脳が覚醒している可能性があるため、本人が内容を覚えている場合があるが、ノンレム睡眠は脳が覚醒していないため、記憶にないことが殆どである。
湖西主任はそれも考えられるのではないかと二人に説明した。




