壱・夢寐
夢寐:眠って夢を見ること。また、その間。
周りが灰色に染まり、目の前には丁字路がある。
それが見慣れた景色に違いないと信乃は思った。
そもそもこれが夢なのだと自覚しているし、何よりも忘れたくても忘れられない景色だった。
――ここを曲がったら……
信乃は考えるのを躊躇し、その場に立ち止まろうとしていた。
どうして、ずっとこの夢を見るんだろう?
この先を曲がると、見えてくる景色は彼女が一番見たくない景色だった。
一番大好きな『ユズ』という飼い犬が得体の知れないナニカに貪られるように喰い殺された現場である。
彼女が人ならぬものを罰する力を得ようと思ったのは、ユズを殺したナニカを殺すためであり、少なくともそれ以外の理由はなかった。
信乃の足は身勝手に、まるで何かに引っ張られているかのように一歩、一歩と歩んでいく。
そして、視界にソレが映し出された。
耳障りな音とともに得体の知れないナニカがユズを食べていた。
食べ零された皮や骨、臓器が信乃の目の前に転がり落ちていく。
そして一際大きな音がし、信乃はそれを見た。
「…………っ」
信乃はそれを見たくなかった。
しかしそれを許さないかのように顔は微動だにせず、目を大きく開き、それを見せようとする。
骨と脳髄を剥き出しにしたユズの頭部がジッと信乃を睨みつけていた……
ガバッと布団から飛び起き、信乃は漸く夢から覚めた。
その表情は強張っており、全身には脂汗が溢れ出し、ゼェゼェと息が整ってはいなかった。
生唾を飲み、心を落ち着かせるようにゆっくりと深呼吸をする。
そしてふと時計を見ると、針は明朝四時を刺していた。
信乃はゆっくりと布団から出るとカーディガンを肩に羽織り、まだ寝ている浜路を起こさないように忍び足で階段を下った。
薄暗い廊下の先にぼんやりと光が零れている。
そこは居間であり、朝早くから鳴狗寺の修行僧たちが忙しく動き回っていた。
彼らの朝は早く、朝四時くらいになると信乃と浜路以外は殆ど起きており、住職である鳴狗実義は、居間でゆっくりとお茶を飲んでいた。
信乃が起きてきたのに気付いた実義はそちらに見向きもしないまま「気が乱れておるな。またあの夢か」と尋ねる。
その言葉に信乃は黙り込み、視線を逸らした。
「お前がその夢を毎夜見ることになったのは、あの事件が起きてからじゃったな」
実義がそう云うと、信乃は実義の右隣に座った。
「聞けば、犬神と対峙していたお前と皐月ちゃんは、お前よりも皐月ちゃんのほうが深手を負っていたそうじゃ…… いや、むしろお前だったから犬神は殺せなかったんじゃろう」
「わかったような言い方しないで」
信乃は実義の顔が見れなかった。彼女自身あの犬神がユズではないかと考えてはいる。
しかし、それを認めると信乃はユズを殺そうとしていた。
そしてそれが仇となり、今度は殺されるのではないかと恐れていた。
あの悪夢はそれを暗示しているんじゃないだろうかと、信乃は身を震わせる。
「お前が妖怪を怨むのはわかる。ユズを殺したナニカを殺したい…… しかしな、怨みは何も生まんし、なんの解決にもならんよ」
「それじゃ…… それじゃ、おじいちゃんはユズを殺したソイツを見逃せっていうの?」
信乃は声を張り上げるように言い返した。
「見逃せとは云っておらん。妖怪を殺すことをやめろといっておるんじゃ」
実義の表情は微動だにしていない。
「ユズを殺したのは妖怪でしょ? だったら、妖怪全部を怨んで、殺して、殺して……」
信乃はそれ以上何も言えず、耐え切れなくなり、居間を出ていった。
ユズを殺したナニカを殺して…… それじゃソイツを殺したら、何が残る?
そんなの決まってる、空虚しか残りはしない。
死んだ生き物が生き返るわけがない。信乃も馬鹿ではないのだからわかりきっていた。
だが、ナニカの正体がわからない以上、妖怪を無造作に殺さなければいけない。
何の手掛かりもないのだ。そのナニカに関するものがなにひとつ……
実義は信乃が居間を出て行き、漸く廊下側の襖を一瞥する。
「真達羅どの」
そう呟くと、十二神将の一人である真達羅が姿を現した。
その身形は小さな虎のようである。
「あの子に力を与えるのは無理でしょうな?」
「わいはあの子を信じとる。必ず自分の負の感情に勝てることも、そして妖怪を本当の意味で罰せることもな……」
真達羅がそう云うと、実義は小さく笑みを浮かべた。
「そうやなかったら、変成王はんが信乃に執行人としての力を与えやせん」
真達羅は胸を張ってそう言うと。
「それにあの人の未来予知は何度やっても、皐月はんと信乃はんが一緒に笑ってる姿しか見えんそうや」
「じゃといいんじゃがな」
実義はゆっくりと虚空を見つめた。
「人の怨念は簡単に休まりはせんよ。どこかで歯止めをかけんと……」
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「はい、そうです。地震が起きる夢を見て…… すごくリアルでした。本当に地震が起きてるんじゃないかって…… そしたら一年後にあの大地震が起きたんです。他にも自分の周りが火の海になっていて、一週間後に家で火事が起きたんですよ。ストーブの近くに服がかけてあって、それが落ちて燃えてしまっていたんです」
TVから女性の体験談が淡々と流されている。
「予知夢ねぇ……」
TVを見ながら、チョコスティックを食べている皐月が呟く。
その表情は狐に摘まれたかのように眉を顰めていた。
はっきり言って、皐月はこういう眉唾物は嫌いである。
そもそも彼女だけになく、三姉妹自身妖怪やら幽霊やらの相手をしているのだから、そちらの方も非現実と云えるのだが、彼女たちにしてみれば現実なのだから仕方がない。
しかし、夢となると非現実に相違なかった。
「だいたいストーブの近くに物置かないのが当たり前でしょ?」
「皐月お姉ちゃんが言うと説得力あるよね? 去年だっけ? 低温火傷したのって」
葉月が思い出すように尋ねる。
低温火傷はその言葉通り、ストーブが低温状態の時、その近くに長時間いると火傷を負ってしまう外傷のことである。
「あれは皐月がストーブを点けっ放しにしたまま、足を向けて昼寝していたのがいけなかったんでしょ」
弥生はそう云いながら、皐月が食べているチョコスティックを袋から一本取り出し、それを口に含んだ。
「わたしタイマーつけてたはずだったんだけどなぁ」
皐月は首を傾げる。
「それにしても、予知夢なんてただの偶然でしょ?」
「そうじゃがな、死んだ人が何かを告げることを『夢枕に立つ』というぞ? 若しかしたら、予知夢もそれに似たものかもしれん」
「死んだ人か…… 爺様は生きてるし、お父さんとお母さんは瑠璃さんの話だと死んでいないことになってる」
皐月がそう云うと、弥生と葉月も頷く。
「そうなると、私たちの夢枕に立つのっておばあちゃんくらい?」
弥生がそう云うと、拓蔵は弥生を見やった。
「どっちの?」
葉月がそう尋ねると、弥生は少し考える仕草をする。
「どっちかなぁ…… 正直、お父さん側は事故が遭ってからの6年間、ちっとも連絡してきていないしね――訃報がないから生きてるんだろうけど」
「それじゃ、お母さん側のおばあちゃんってこと?」
皐月は拓蔵を見ながら尋ねると、弥生は先ほどと同じように考える仕草をした。
「っても、お母さんが生まれてすぐに死んだって、お母さんや爺様に聞いたことあるからなぁ……」
「夢枕は別に身内だけではないぞ、若しかしたらずっと昔のご先祖さまかもしれん」
拓蔵がそう云うや、「まさかぁ」と、三姉妹は笑みを零した。
第十八話です。今回から小説家になろうのみの連載になります。