玖・変化
『大宮忠治っと……』
緊迫した表情を浮かべながら、皐月は警察病院の受付で面会書の記入をしていた。
面会書に面会する患者の名前と、自分の名前を記入していく。
それを看護師に見せると、
「あら? 皐月ちゃん、髪切ったの?」
そう尋ねられ、皐月は首を傾げる。
今まで何度もお見舞いに来てはいたが、自分から名乗った覚えがない。
「夏休み中、殆ど来てたんだもの。知らないほうが可笑しいわよ」
からかうように笑う看護師を見るや、皐月は恥ずかしそうに視線を逸らした。
「大丈夫ですよ。似合ってますって」
病室へと渡る廊下で、遊火が声をかける。
「あのね? 前に一回髪をほどいて、前髪をあげただけの格好でここにきた時、大宮巡査に誰って訊かれたことがあるんだけど?」
上空で浮かんでいる遊火にそう言うと、皐月は大宮巡査が入院している個室の前に差し掛かる。
そして一、二度ほど深呼吸すると、ドアをそっと開いた。
「大宮巡査―― 起きてます?」
そう尋ねながら、部屋の中を覗き込むと、
「ちょ、やめろって」
大宮巡査の声が聞こえ、皐月は起きているんだなと認識するが、どうも様子が可笑しい。
病室は事情によって個室であるため、当然のことながらベッドはひとつしかない。
そのベッドの近くに、胸まで伸びた赤茶色した髪の女性が、丸椅子に座りながら、大宮巡査に桃を食べさせようとしていた。
見た目は若く、二十代と云ったところか。
皐月が部屋に入ってきたことに気付いた女性は、皐月の方を見遣ると軽く会釈した。
「あら? 忠治くんの知り合い?」
そう尋ねられ、皐月は小さく頷く。その表情は少しばかり苛立ちを見せていた。
女性の容姿は若々しく、綺麗とも見えるし、可愛らしくも見える曖昧さがある。
そんな女性が大宮巡査を名前で呼ぶということは、知り合いにほかならない。
しかも結構馴れ馴れしい態度をとっている。
「ほら、忠治くん。はい、アーンして……」
女性が桃をフォークで刺し、それを大宮巡査の口元に近づける。
「だから、一人で食べれるって」
抵抗している大宮巡査だが、その表情は苦笑いである。
「なんかお邪魔のようですから、私は失礼します」
そう云うと、皐月は頭を下げ部屋を出て行くと、ドアを乱暴に閉めた。
「あらあら、私なんか悪いことしちゃったかしら?」
女性はそう云いながら、首を傾げる。
「ああ、もう! なんでそういうのに疎いかなぁ? 誰のせいで彼女出来ないと思ってるんだよ?」
大宮巡査が普段見せないほどの苛立ちを女性に見せた。
「だって、私綺麗にしてないと、詐欺って言われるしぃ~」
女性は少しばかり涙目になる。
「だからって、年齢を半分以上もサバが読めるくらいに綺麗にならなくてもいいだろ?」
大宮巡査はそう云いながら、ベッドの片隅にかけていた松葉杖を手に取り、ゆっくりとした足取りで、病室を出ていった。
「皐月ちゃん、ちょっと待って……」
うしろから大宮巡査が声をかけるが、皐月はズカズカと廊下を歩いている。
「ちょっと待って……」
「大宮さん、廊下で騒がないでくれませんか?」
看護師にそう言われ、大宮巡査はゆっくりと廊下を歩き始めた。
そうなると、当然のことながら、皐月の姿を見失うのだった。
「信じらんない!」
と、憤りを露に皐月は病院の表に出ていた。
「あんな綺麗な彼女がいるくせに、ずっと私のこと思ってたなんて考えてた自分が馬鹿に思えてきた」
「別に皐月さまがそう思ってただけかもしれませんよ? そもそもそれ以上の付き合いでもなかったんですし」
遊火がそう云うと、皐月はキッと睨みつけた。
「皐月ちゃん、ちょっと待って」
病院の方から先ほど病室にいた女性が皐月に声をかける。
「なんですか?」
皐月は苛立った表情で女性を見遣るが、女性の容姿に内心見惚れていた。
「た、忠治くんのお見舞いにきたんでしょ?」
肩で息をしながら、女性はそう尋ねる。
「そうですけど、でもお二人の邪魔しちゃいけませんし」
「邪魔なんてとんでもないわ。どっちかって言うと『小母さん』のほうが邪魔者でしょ?」
「そんなこと」と皐月は云おうとしたが、言うが前に携帯が鳴り響いた。
携帯の液晶を見ると、相手は大宮巡査であった。
皐月はムッとしながらも、電話に出る。
「もしもし?」
『あ、皐月ちゃん。その……さっきはごめん』
どうして謝るんですか?と皐月は尋ねる。その声は苛立っているのが明らかなほどに低い。
『その、よかったら病室に戻ってきてくれないか? 話したいこともあるし、それに誤解されたままだと僕も嫌だしさ』
皐月は女性を見遣る。
「忠治くんの言う通りにしてあげて」
苦笑いを浮かべながらそう云うと、女性は病院へと入っていった。
「わかりました…… きっちり話してもらいますから」
そう云うと、皐月は乱暴に電話を切った。
――というのが、今から十分ほど前までの遣り取りであった。
「っへ?」
そして現在。皐月はベッドの上に腰を下ろしながら、大宮巡査と女性を交互に見渡していた。
その表情は先ほどまで見せていた苛立った表情よりかは焦った表情といったほうがいい。
それもそうであろう。この状況をどう理解しろというのか。
「だから、母さんはもう少し年相応に老いてくれないか?」
皐月の隣に座っている大宮巡査は頭を抱えていた。
「だってお母さん、化粧会社の社長だから綺麗にしとかなきゃいけないじゃない?」
女性は涙目で訴える。
「わかってる、わかってるけどさ。どこからどう見ても、五十路間近の容姿じゃないだろ?」
そう言いながら、大宮巡査は女性を指差した。
「え~、皺が見えないように厚化粧してるけど、ぜんぜん厚化粧に見えないファンデーションとか、若くて瑞々しい唇を保つリップクリームとか、色々開発してるから」
「そういう問題じゃない! 僕が云ってるのはどうして素顔でも僕と同じくらいの年齢に見えるのかって話だよ!」
という話を皐月は横で聞いているのだが、まったくもって理解出来なかった。
「あ、あのぉ~、要するに私の勘違いだったと?」
皐月は手に持った名刺を見ながら、二人に尋ねた。
名刺には女性の写真が貼られており、『大宮葵』と書かれており、一緒に誕生日もある。昭和XX年49歳と記されていた。
「そ、今まで付き合ってきた彼女も殆ど母さんのせいで、一方的にふられてたんだよ」
大宮巡査は苦笑いを浮かべながら、皐月に話しかける。
「で、でもどうして今まで会わなかったんですか? 私夏休み中ほとんど来てましたけど」
皐月がそう尋ねると、女性――葵は苦笑いを浮かべる。
「海外に出張することもあって忙しかったからね。帰ってきたのも最近だったし、でも忠治くんからあなたのことはよく聞いてたのよ」
そう云うと、葵は皐月を翼々見つめる。
「うん。若いっていいわね。ハリのある瑞々しい肌をしてる。ううん、極力化粧品に頼っていないっていったほうがいいかもね。血行もいいし、顔色も合格。よく運動して、よく食べ、よく睡眠をとってる」
「そ、そんな簡単なことで?」
皐月は生活態度を普段から拓蔵に厳しく云われているので、この行動が極当たり前のことだと思っている。
「あら? それが一番いい美容方法なのよ。よく食べることで栄養が体に行き渡る。そして運動することによって、余分なカロリーが消化される。そしていい睡眠時間をとることで体はきちんと休むんだから。体が悪いとお肌に影響が出て、終いには皺だらけのおばあさんになっちゃうんだから」
さすがは化粧品会社の社長である。説得力があるにはあるのだが、
「母さんがそう言っても、説得力がないだろ?」
大宮巡査にそう言われ、葵は苦笑いを浮かべた。
たしかに年相応の容姿ならば説得力はあっただろうが、見た目は大宮巡査と変わらない二十代だ。いかんせん説得力に欠けていた。
「それじゃ、お母さんお仕事だから」
病院の入り口に黒塗りのベンツが停まっている。
その後部座席の窓を開け、葵が顔を覗かせていた。
「ああ。社員の人たちにもよろしく云っといて」
大宮巡査がそう云うと、葵は笑いながら頷いた。
そして皐月のほうを見ると、優しく微笑んだ。
「皐月ちゃんも、忠治くんのこと、これからも大事に思ってあげて。この子彼女いるとか云ってたけど、実際いたのかどうかもわからないし、若しかしたらキスもしてないかもしれないわよ」
「――母さん!」
大宮巡査が怒鳴ると、葵はクスクスと笑みを浮かべながら、車の窓を閉めた。
「今日は楽しかったわ。それじゃまたね」
ベンツはゆっくりと病院を後にした。
「まったく人騒がせな人だ」
大宮巡査は頭を抱えながら、病院の中に入ろうとするが、
「あれ? 皐月ちゃん」
呆然と立ち竦んでいる皐月に声をかける。
「あ、な……なんですか?」
ハッと気付き、皐月はあたふたとした表情で聞き返す。
「ビックリした?」
「ビックリしたっていうか、まだなんか信じられなくて」
皐月は照れくさそうに顔を俯かせている。
「はははっ…… まぁ、学校の友達からも言われたことあるよ。お前の母さん本当は何歳なんだよって、それくらい変わらないからなぁあの人は」
苦笑いを浮かべながら、大宮巡査は皐月の手をとった。
「ほら、色々聞きたいこともあるし、それに髪切ったんだね」
そう尋ねられ、皐月は申し訳ないような表情を浮かべた。
その態度が心配になり、大宮巡査は――
「大丈夫。すごく似合ってて、可愛いよ」
たった一言である。
皐月が髪を切り、印象を大きく変えたことで大宮巡査に嫌われないかと心配していると察しての言葉であった。
それを聞くと、皐月は自然と笑みを浮かべていた。