捌・香
リズム感のある鋏の音が店内に響き渡っている。
椅子に座っている皐月は目を瞑り、ジッと動かないでいた。
髪を櫛で梳かしながら、揃えるように髪を切っている早苗はその髪に惚けている。
何百人といわんばかりに女性の髪を見てきた彼女でさえ、皐月の髪は美しいと溜め息を吐くくらいであった。
「どうしたら、こんな髪になるのかしらね?」
早苗がそう尋ねたが皐月は答えない。
「学校で風紀検査した時もそうでシタ。黒川サン、答えてくれなかたデス」
隣で手伝いをしている早百合も皐月の髪に惚けていた。
「答えられないんじゃなくて、誰も信じないから答えないだけです」
皐月はチラリと二人を見やった。
「どんな方法でやってるのかしら? 手入れが行き届いているもの」
「シャンプーとかリンスはどこでも売ってるような安物なんですよ。ただちょっとトリートメントが違うだけで」
そう云うと、皐月は薄目で鏡を覘いた。
自分の髪を切っている早苗とそれを手伝っている早百合が本当の姿じゃないのかと思えてならず、先ほどまでの惨劇が嘘のようであった。
早苗の手元が震えながらも、早百合がやさしく声かけしているお陰で、今のところ失敗なく進んでいる。
「――トリートメントに?」
「私の家、大黒さまとかお稲荷さんを祭っている神社なんです。だからよく百姓の人から豊作のお礼にお米なんかを貰ったりしてて、それで米のとぎ汁でチェンジリンスやってるんですけど」
「そう。道理で薬品臭くないと思ったわ」
早苗がそう云うと、髪を櫛で梳かし、整髪していく。
「昔の人はそうやって身近なものを代用して、自分の体を綺麗にしていたの。そもそも髪を洗うというのは、紀元前エジプトにおいて、神様への祈りを捧げる禊ぎからと云われていた。最初は水だったんだけど、徐々に泥へと変わっていった」
「泥にデスか?」
早百合がそう尋ねると、早苗は頷く。
「泥には炭酸ソーダやケイ酸アルミといった、アミノ酸系の洗浄成分が含まれていたみたい。それがシャンプーの起源と云われているわ」
「日本はどのくらいから始めたデスか?」
「日本でシャンプーが使われた歴史自体が浅くてね。それよりも前の話になると、稲や麦の茎を粉末にしたものを髪にふりかけて梳かしていたのが始まりだといわれてるの。そもそもそれまでお風呂に入るという概念がなかったらしくて、体の臭いを香の匂いで誤魔化していたそうだからね」
「汚いデスね」
「髪を水で洗うというのが広まったのは江戸時代末期。でも宮中の女官であっても一ヶ月に一回しか髪を洗わなかった。この時代、シャンプーの役目を果たしたのは布海苔、饂飩粉、粘土、卵の白身、椿油の搾りかすとされているわ」
そう説明していると、早百合は棚に置かれているシャンプーを見やった。
そこには椿オイルが含まれたシャンプーがあるからだ。
「昔は自然にあったものを代用していた。髪を石鹸で洗うのは明治中期からと云われていて、それでも体と一緒に洗うというのが多かった。シャンプーを使うようになったのは昭和初期からとされているのよ――はい終わった」
早苗はそう云うと、皐月の肩を叩いた。
皐月はゆっくりと鏡に映った自分の姿を見るや呆気に取られていた。
今までは腰まであった自分の髪が今では肩までしかなく、内側に巻き込んだ形になっている。
前髪は目に入らない程度に少しだけ遊びが入っていた。
「あまり髪の毛は弄ってないわ。ううん、弄れなかったっていったほうがいいかもしれない。それだけ綺麗に保っていたんだもの、美容師として……本当にいい髪を切らせてもらったわ」
早苗はそう云うと、皐月の体に付着した髪をブラシで払い除け、前掛けのシーツを取ると、ゆっくりと椅子の高さを下ろした。
「すごく似合ってるデス。それなら校則違反にならないデス」
「へ、変じゃないですかね? 今まで長かったから、なんか首のところがスースーして」
皐月は笑いながら項に触れると、上空を一瞥した。
大人しく見ていた遊火は驚いた表情を見せている。
「大丈夫。長髪だった人が短くすると、最初そんな感じなのよ。でもあなたの場合は髪の毛が短いのも混じっていたし、いっその事、肩までにしたほうが見栄えがよくなるしね」
早苗はそう云うと、もう一度皐月の髪を丁寧に梳かしていた。
「いいんですか?」
カウンターで料金を払おうとした皐月が驚いた表情で尋ねた。
「早百合ちゃんやあなたに迷惑をかけてしまったからね。それにもしあなたが来てくれなかったら、私……」
早苗はそう云うと、涙を零した。
「お母サン」
早百合がゆっくりと早苗に寄り添う。
「早百合ちゃん。こんな……こんな私でもお母さんって」
「早苗さんはわたしのお母さんデス。お父さんが大切にしていた人を私も大事にしたいデス」
早百合がそう云うと、早苗はゆっくりと皐月を見た。
「私は地獄に落ちるんでしょ?」
そう尋ねられ、皐月は顔を俯かせる。
「どんな人でも必ず地獄に落ちます。すぐに天国にいけるはずがない。地獄で罪を償って、初めて衆生は天道にいける。でもそれは考えることすら馬鹿々しいくらいの年月を費やしますけど」
「それでもかまわない。私はもう一度この子の母親として……」
早苗がその先を言う前に、皐月は店を出て行った。
店の前から数百米ほど離れると、皐月は徐に携帯を取り出した。
その指は震えている。
「皐月さま?」
遊火が心配そうに声をかける。
「わかってる…… 家の中で死体が発見されている以上、通報しないといけないでしょ?」
冷静を保ちながらも、皐月の表情は強張っていた。
『もしもし…… 阿弥陀警部ですか? その……』
皐月は電話先の阿弥陀警部にことの件を説明する。
説明を聞いている阿弥陀警部は信じられないといったばかりに驚いていたが、皐月の話に耳を傾け、至急パトカーを向かわせると云った。
――電話を終えると、皐月はその場に跪き、慟哭した。
早苗と早百合が和解したというのに、どうして引き裂かなければいけないのか。
もっとあの二人を一緒にいさせてあげてもよかったのではないか。
だけれど、罪を見過ごすことは出来ないし、どうせすぐにわかることである。
ならばいっその事、早く通報したほうがいいのではないか。
そう考えていると頭の中がグチャグチャになり、神社に帰るまで皐月は抜け殻のようになっていた。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「なるほど。それなら合点がいきますね」
その日の晩、衣川早苗を連行したことを説明にきた阿弥陀警部が納得した表情を浮かべていた。
「その早苗という女性は、ある事件で国条小百合を憎んでいた。そしてそれを夫の甥である衣川太一に轢き殺してほしいとお願いした」
そう話しながら、阿弥陀警部は皐月を一瞥する。
髪を切った皐月の容姿に戸惑っているのではなく、その表情が晴れやかではないからだ。
「死亡推定時刻が合わないのは納得いかんがな?」
拓蔵がそう云うと、
「ええ。おそらく店の中で見たという鴉天狗がなにかしら絡んでいると見て間違いないでしょ?」
そう話していると、どこからか声が聞こえ、拓蔵と阿弥陀警部はそちらに見やった。
その表情は驚きと警戒に満ちている。
「爺様、どうかしたの?」
葉月がそう尋ねると、拓蔵は少しだけ笑うと、
「いや、ちょっとトイレにな」
そう云いながら、拓蔵は席をはずすと居間を出ていった。
「あ、私はちょっと外でタバコを吸ってきますね」
云うや、阿弥陀警部も居間から出ていった。
その行動に弥生と葉月は首を傾げ、皐月は俯いた顔を少し上げ、一瞥していた。
肩を震わせた拓蔵と阿弥陀警部は境内に足を踏み入れていた。夏とはいえ、夜は冷える。
「久しいな。ヤマちゃんの旦那さま」
人影がそう話しかけると、拓蔵は怪訝な表情を浮かべる。
「何の用じゃ?」
月明かりが人影を照らすと、拓蔵と阿弥陀警部は真剣な表情になった。
人影の正体は高山信こと大威徳明王であった。
「いや、ちょっとね。この度の一連。犯人が捕まったようだな」
「ええ。意外な結末でしたが、でもまだ全体的に解決したとは思っていませんよ」
阿弥陀警部がそう云うと、大威徳明王は頷いてみせる。
「そのことなんだがな、事故現場で摩虎羅が体につけてきた髪の毛。これを調べたら捕まった衣川早苗のものだとわかった。おそらく彼女は髪鬼となっていたんだろう」
そう聞かされると、拓蔵は納得する。
髪鬼は怨念や嫉妬心が自分の髪に宿ったものとされている。
その髪は延々伸び続け、切っても埒が明かない。
「しかし、死亡推定時刻が噛み合わないし、そもそもその時間、衣川早苗は店の中にいた」
阿弥陀警部がそう説明すると、
「もし例えばだが――人が死んだことをなかったことに出来たらどうする?」
そう言われ、拓蔵と阿弥陀警部は首を傾げる。
「そんなこと出来るわけないでしょ?」
阿弥陀警部がそう言うと、大威徳明王は顔を俯かせる。
「そんなことが可能だというのか?」
「やつの力なら可能かもしれんな。いや、やつでなければ出来んことだろうが」
大威徳明王がそう云うと、拓蔵と阿弥陀警部は互いを見やった。
「言霊使い…… 名前くらいは知っとるだろ?」
「ありもしないことをありとする。不思議な力を持った者のことじゃな」
「すべてのものには名前があり、その名前には魂が宿る。それを自在に操る術士でしたかね?」
「そう。首を絞められ瀕死状態だった衣川太一に『お前はまだ生きている』といえば、まだそいつは生きていたことになる。しかし、その魂は生きていても、媒体となる体自体はすでに死んでいるから、死亡推定時間が曖昧になってしまったという考えなんだがな」
そう説明すると大威徳明王は少しばかり頭を掻いた。
「なにか納得していませんね」
「今回の一連、言霊使いになんの利益があるのかということじゃな?」
「ご名答。衣川早苗は義理の娘である早百合を妬んでいた。それを言霊使いが心の隙間に入り込み、唆した――だが、それを言霊使い自らがしたとは思えん」
「誰かに命じられたということか?」
「恐らくな……」
大威徳明王はそう云うと、阿弥陀警部を見た。
「他の十王から何か連絡はないのか?」
「今のところは、鴉天狗の行方は十二神将に任せているようで、地獄裁判も休みなしだそうですからね」
「お前は気楽でいいな。云ってしまえばお前だって十王であろう? 阿弥陀如来」
大威徳明王にそう云われ、阿弥陀警部は苦笑いを浮かべた。
「私は最後のほうですからね。それに四九日を過ぎると、殆どの人があまりしなくなるでしょ?」
阿弥陀如来――五道転輪王は没後二年目を意味する三回忌に行われる裁判長である。
あまり仏教に詳しくない人は四十九日を終えると何もしなくていいと思っているのかもしれない。
四九日に亡者が来世が決まるとされているが、実際仏になるのは十三王までの裁判を終える没32年目の三十三回忌とされている。
「とにかく、俺はもう少し鴉天狗について調べるよ」
そう云うと、大威徳明王はスーと姿を消した。
「どうしたんですか?」
阿弥陀警部が拓蔵に声をかける。
「いや、なんでもない。しかし外は寒いな。早く部屋に戻って、弥生に熱燗の準備でもしてもらうか」
そう云いながら、拓蔵は足早に戻っていった。
拓蔵は戻る間、頭の中でこう呟いていた。
『ありもしないことをありとする…… それはあることをないとすることも可能。――まさかと思うが、遼子や健介さんの存在をなかったことにしているとすれば、三途の川に来ていないというのも合点がいくかもしれんな』
しかしその考えはどうだろうかと、拓蔵は自問していた。