陸・ちっぽけ
「お母さん?」
店内に戻った早百合はその現状に絶句していた。
散らばった鋏や剃刀、櫛は彼女が手入れしたものだと気付くのに、さほど時間はかからなかったが、どうしてこのようなことになったのかがわからなかった。
あの時、そこにいたのは彼女と母親である早苗だけであった。
そうなると早百合は母親がしたんだろうと自然と理論をつなげていく。
事実とはいえ、言い過ぎていたことを後悔していたが、しかしその店主が先端恐怖症であっては不安というのも事実であった。
鋏を扱う人間がそれではとてもじゃないが任せられない。
早百合は腰を屈め、落ちている道具を拾い上げていく。
落ちた衝撃で刃毀れしたものもあり、使い物にならない道具もあった。
「お父さんハ、お母さんを信じてイタから…… この店を任せたデス」
早苗が夫である衣川紀夫を事故に生じて殺したことを早百合は感付いていた。
しかしその証拠がない以上、警察はテコとして動かない。
また遺言書には遺産を後妻である早苗にではなく、娘の早百合にとされている。
そのことで早百合は早苗が自分を恨んでいることも知っていた。
「おはようございます」
カランコロンと店のドアに着けられている鈴が鳴り、従業員の狩野と豊永が店の中に入ってきた。
それを聞くや、慌てて早百合は散らばっている道具を掻き集める。
「――いっ?」
剃刀の刃に指が当たり、刺激が全身に走った。
指は切られ、血が流れている。
「だ、大丈夫?」
「だ、大丈夫デス。ちょっと整理しテタら、転んだだけデスから」
心配そうに眺める狩野と豊永を見上げながら、早百合は笑いながらそう云うと、
「そ、そう? でも気をつけてね。早百合ちゃんにもしものことがあったら店長に顔向け出来ないから」
狩野の言葉に早百合は首を傾げる。
「お母さんにデスか?」
「うん。まぁお父さんの時からだけどね」
狩野がそう云うと、早百合は決意に満ちた表情で二人を見渡した。
「教えてくだサイ。お母サン…… たしか髪の毛を切ることが出来たはずデス。それがどうして突然鋏を持たなくなったデスか?」
早百合がそう尋ねると、狩野は豊永を見遣った。
「話したほうがいいんじゃない?」
豊永にそう言われ、狩野は深呼吸する。
「まだ店長が私と同じカット担当の店員だったころ、ある事件がおきたの」
「――事件?」
「店長はその時、ある子供のカットを任されてね。子供の髪の毛を切るのって、大人を切ることよりも難しいのよ」
「お父さんから切ってもらったことあるからわかるデス。子供は落ち着かないことがあるって」
「子供全般がそうとは限らないけど、でもその子供は少し違っていたのよ」
その言葉に早百合は首を傾げる。
「店長がカットした子供は多動癖があって、切っている最中も落ち着いていなかったの。私たちもあれやこれや落ち着かせることをしていたんだけど、他のお客さんのこともあったから手を出すに出せなかった」
「そして最悪の事件が起きた」
「――最悪の?」
狩野は自分の耳元をかきあげ、早百合に見せた。
「モミアゲ部分の整髪をしていた時、突然子供が動いたのよ。そして耳を切ってしまった」
「――耳を?」
「辛うじて、ちょっと傷が入る程度で済んだんだけど――」
早百合は豊永を見る。表情は不安に満ちていた。
「子供の名前は国条小百合…… 当時議員をしていた国条昌樹の娘だったの」
「その国条が子供の耳を切り落としたという出任せを作ったのよ」
それを聞くや、早百合は全身の血の気が抜けていくのを感じた。
「お、お母さんが切り落とシタなんて…… そんなの」
「もちろん実際見ている私たちは抗議したけど、相手が相手だったからね。話を聞いてもらえなかったのよ――まぁ、聞いてもらえなかったほうがどれだけよかったでしょうね?」
狩野は下唇を噛み締める。
「その親、賠償金欲しさに――――自分の子供の耳を本当に切り落としてたのよ!」
それを聞くや、早百合は想像を絶する光景に吐き気を催し、洗面台に向かい、シンクの中に吐き出した。
「傷害事件として立証したかったんだろうけど、微かに切ったくらいじゃ金は取れないと思ったんでしょうね」
「店長はその頃、自分のミスで人を切ったというのが頭に一杯で冷静じゃなかった。だから借金をして賠償金を払ったのよ。たしか一千万ほどね」
早百合は早苗が借金をした理由を知る。
しかしその借金が一千万だと、返済出来ないという額でもなかった。
「さっきも言ったけど、店長はその時冷静じゃなかった。お金の期日もさほどなく、仕方なくヤミ金に手を出したのよ」
「どうシテ、どうしてお父さんに相談しなかったデスか?」
「あの人はプライドが高かったからね。お父さんに相談出来なかったんじゃないかしら? それにすぐに返せると思ってたんでしょ」
それがまさか先端恐怖症になるとは夢にも思っていなかっただろう。
「私、お母さんに酷いコト云ったデス。そんなことあったの知らないクセに、あんな酷いコト」
気が動転した早百合は椅子に座り、ボロボロと涙を零した。
「私たちはお父さんに口止めされていたの。ちょうど二人が再婚しようとしていた頃だったし、あなたが早苗さんを軽蔑しないようにって」
「酷いのはその国条って人デス。お母さん何も悪いことしてないデス」
早百合はそう云いながら、どうして早苗は父親を殺したのだろうと考えていた。
それが理由だったとしても、殺す理由にはならない。
先ほども言ったが、早苗が一千万という金額を一生返せないというものではない。
しかし相手がヤミ金であったことが狂わせた。
その借金を返すために他から借りるという雪だるま式に膨れ上がってしまい、首が回らなくなった。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
その日、早苗は一人部屋の中にいた。
店のことは豊永や狩野に任せ、休もうと考えていたからである。
精神安定剤を飲み、布団に潜り込む。
――数分ほどで眠りにつくはずだったが、耳元から鈴の音が聞こえ、早苗は起き上がった。
日の光が入った部屋は薄暗く、人の気配はしない。
気のせいだと思い、早苗は寝ようとしたがまた鈴の音が聞こえた。
「誰かいるの?」
そう云うと、窓から差し込んでいた日の光が急に明るくなり、早苗は腕で目を覆った。
『其者、大切な娘を、娘と不思』
声が聞こえると早苗はスクッと起き上がり、部屋を出ていった。
「これであの女は娘を殺すでしょうね? 娘を殺せば遺産は自分に転がるし、あの女は自分で望んでいることだからね」
鴉天狗がそう云うと、部屋の窓を見上げていた僧はキッと睨みつけた。
「貴様は人の繋がりを蔑視しておるのか?」
「蔑視だなんて大それたこと思ってないわよ?」
鴉天狗は笑いながら僧を見下ろした。
「金が目的で実の子供や親を殺す人間なんてごまんといるのよ?」
「親を殺せば大罪である」
「相手は子供よ? 子供を殺して大罪になるという法律は地獄にない! それにあの二人は血が繋がっていないし、他人を殺したところで罪は変わらないでしょ?」
僧は睨みつけるが、その瞳は鴉天狗を哀れんでいるようにも見えた。
そのことに気付いた鴉天狗は顔を顰める。
「私は自分を守るために大罪を犯したのよ。後悔なんて最初からしていない」
そう云うと、鴉天狗は羽を広げ、空高く飛び去っていった。
僧は鴉天狗が去っていくのをジッと見送ると、一点を見遣った。
そしてそれを素早く掴み潰すと、掌に乗った潰れた蜂を睨みつける。
「田心姫に伝えておけ。鴉天狗をこれ以上束縛するなとな」
そう云うと、掌の蜂はボッと燃え散った。