参・速度
阿弥陀警部が帰ってから数時間後のことである。
パジャマ姿の皐月は机の上に長方形の卓上鏡を置き、櫛で髪を梳かしながらジッと鏡を見ていた。
そして後ろ髪を肩にかけ、梳こうとした時である。
衣川に切られたこともあり、少しばかり長さが違う髪を見つけるや、皐月は眉を顰めた。
皐月は別に長い髪を保ちたいというわけではない。
理由があるとすれば、父親である健介の存在が理由になろう。
閻魔王である瑠璃の話では、三姉妹の両親……健介と遼子はまだ死んでいないことになっている。
これは健介と遼子が三途の川に来ていないことにあり、強いては死んでいないことと同じなのである。
まだ生きているという可能性もあるため、皐月は髪を短く切るに切れなかった。
改めて考えると馬鹿みたいだと皐月は自分に対して嘲笑する。
いってしまえば、父親が大好きだった幼い自分がしたことだ。
皐月は以前大宮巡査から貰った、健介がレースで優勝し、自分と一緒に写った写真が入っている写真立てを見る。
その頃から腰まで伸びた髪だったんだなぁと、皐月は呆れたような表情を浮かべた。
『お父さんが好きな髪型?』
モノクロな記憶の中で、健介が幼い皐月に聞き返している。
『うん。お父さんって、どんな髪型が好きなのかなぁって?』
『どうしてそんなことを訊くんだ?』
健介は遼子を見やり、尋ねる。
『皐月の髪が長くなったから、今度髪を切るって話してたら、お父さんはどんな髪型が好きなのかって話になって、直接お父さんに訊きなさいって云ったんですよ』
遼子がそう説明すると、なるほどと健介は納得する。
『ねぇ、お父さん? どんな髪が好きなの?』
幼い皐月は椅子に座った健介の足に腕を乗せ、上目遣いで見つめる。
『そうだなぁ、お母さんみたいに髪が長い人かな?』
『――お母さんみたいな?』
云うや、皐月は遼子を見た。遼子の髪は腰まで伸びており、烏羽色をしている。
『お母さんと始めて会った時な、あの髪はもう見とれるくらい綺麗だったんだよ。風が吹くと、髪が靡くだろ? それがまた綺麗でさぁ、一本一本がまるで生きてるように見えてたんだよ』
健介がそう言うと、大袈裟ですよと遼子は笑みを浮かべる。
『それじゃ私もそれにする』
皐月がそう言うと、遼子と健介は小さく笑った。
それを見て、皐月は小さく首を傾げた。
『皐月…… お母さんの髪はね、ずっと大事にしていたからこそ、綺麗な色をしているの――』
皐月は幼い自分の記憶をゆっくりとフェードアウトさせていく。
(お父さんが大好きだったから、そんな子供みたいな理由でずっと長い髪にしてたんだっけ?)
幼い頃のことなんて、云ってしまえば「お父さんのお嫁さんになる」とか「かっこいいヒーローになる」といった子供染みた夢でしかない。
歳を重ねるに従って、その想いは変わっていく。
そして皐月の意識は父親にではなく、大宮巡査へと移っていたことは皐月自身わかっていた。
(大宮巡査はどんな髪型が好きなんだろ……)
意識している相手がどんな髪型を好むのか、女性にとって、ただ一人の異性の為に髪型を変えるということはよほどの覚悟があってのことである。
昔、長髪だった人が突然短髪にするのは、失恋したからだという話があった。
決別という意味でも切られるらしいが、それほどまでに女性にとって髪は大事なものなのである。
とはいえ、今の世の中そんなこと考えずにファッションを理由に切る人もいるだろうが……
皐月は校則に違反していたことで髪を切るようにと衣川に云われている。
そして、まだ何日か猶予あるんだと、少しばかり考えるや、鏡を伏せ、邪魔にならないよう髪を後ろ手に束ね纏めると、部屋の電気を消し就寝した。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「気持ち悪いな」
足をテーブルの上に組みながら、深々とソファに座っている信は掌に乗せた数本の縮れた髪の毛を見ていた。
先日事故にあったトラックの中を調べていた摩虎羅が体につけてきた髪の毛である。
ここは『高山探偵事務所』。この男、高山信が現世で探偵業をするために作った事務所である。とはいえ、いるのは本人と従者である摩虎羅だけであった。
「女性の髪でしょうかね? 被害者の衣川は男で短髪でしたから」
「そう考える以前に、この髪は妖気を放っていたんだな?」
すでに妖気を感じられないその縮れた髪の毛は、まるで毟りとられたかのように痛んでいる。
「微かにですが、妖気らしきものを感じられました」
摩虎羅が答えると、信は顎に手をやり、唸るように考え始めた。
「髪には不思議な力があると昔から云われているからな」
「つまりその何かが運転手を殺したと?」
その問いかけに、信は少しばかり視線を髪の毛に移した。
「運転手の名前、衣川と言っていたな。身元の調査はしているのか?」
「はい。殺された衣川ですが、どうやら叔父の妻が美容院をやっているようです」
美容院という言葉に信は眉を顰めた。
「美容院…… なんか引っかかるな?」
「引っかかると言えば、轢殺された国条はその日、その美容院に予約を入れていたそうなんです。待っていた彼氏が連絡した時に、国条は事故に遭っている」
それを聞くや、信は国条が横断歩道を渡っている時、携帯に出ていたことを思い出す。
「あの時……か……」
「警察の調べでは、彼氏が彼女の携帯に連絡を入れたのは、その日の午後3時を過ぎた頃とされています」
「彼氏の名前は?」
そう尋ねられ、摩虎羅は書類を信に渡した。
「田村亮平、28歳。国条と同じ会社に勤めている。いわば同僚ですね」
「社内恋愛か――」
「いえ、偶然そうなったといったほうがいいかと」
信の言葉に摩虎羅は割ってはいる。その言葉に信は首を傾げた。
「二人は直接会える部署ではなかったようなんです。云ってしまえば、匿名が当たり前の出会い系サイトで知り合った二人が、偶然同じ会社勤めだったというわけです」
「――なるほどな」
信は唸るような仕草を見せる。
「しかし、この事故が殺人とするならば、直接殺しているわけではないからな…… それに、トラックを運転していた衣川との接点も気になる」
「気になるとは?」
「その田村という男が衣川に依頼していたとすれば、男女の縺れによる殺人だと話はわかるが…… その衣川も死亡している」
「証拠隠滅に殺したんでしょうか?」
信はトラックがブレーキ痕を残していることを思い出したが、それも考えられ難かった。
ブレーキ痕はその長さと道路や場所の状況で、出していたスピードが変わってくる。
事故があった十字路は中心に二十米の横断歩道が×印に交差されている。
ブレーキ痕の長さは軽く見積もって十米あり、道路は車通りの激しい乾いたアスファルトである。
「ざっと見積もって、トラックは39キロものスピードで走っていた」
信はそう言うや、「そんなに早かったか?」と摩虎羅に尋ねた。
摩虎羅は答えるように首を横に振る。
車が発進してからスピードに乗るには、予めアクセルを踏んでいなければいけない。
「トラックからはエンジンの音もしていませんでしたし、なにより痕が残るほどのスピードは出していませんでした」
トラックが発進してから人を轢いたのは五秒もしていなかった。
その後轢いてしまったことに気付いたのなら……
「最初から国条を殺すつもりだった……」
信はそう呟くが…… 彼は頭の中ではこう呟いていた。
それじゃ――
仮に衣川自身が国条を殺そうとしていたのなら、なぜ本人は自分を殺したんだ?
それに本当に殺すつもりだったとしたら、どうしてブレーキ痕なんて残している?