弐・規則
皐月のヘアスタイルは腰まで伸びた長い黒髪が特徴的であり、サラッとした髪を触れれば、しっとりとした質感を持っている。
よく友人らにどこのシャンプーを使っているのか、リンスは?トリートメントは何を使っているのかと尋ねられる事が多々あるが、皐月はシャンプーやリンスは特に拘りを持っているわけでもなく、ましてや節約のため安いのを使うことも度々である。
だが、トリートメントだけは決まってこう答えている。
『米のとぎ汁でチェンジリンスをしている』
チェンジリンスとは、トリートメントとなる液体を髪に付けて、最初洗い流す時、洗面器に流しおとしたものを再び髪にかける。これを何回か繰り返すことをチェンジリンスという。
米のとぎ汁ほど大黒天や倉稲魂神といった田の神を祭る稲妻神社にとって身近なものはないし、皐月だけではなく、弥生と葉月もやっている。
そもそもこれを教えたのは、彼女らの祖母である瑠璃である。
他にもニンジンをすりおろしたものをすり込んだり、うどんの茹で汁で髪をすすいだりと、色々教えてもらったが、ニンジンはもったいないし、うどんはそのまま汁の材料として使うため、実用的なものは米のとぎ汁に収まったのだった。
「って云っても、結局誰も信じないんだよね」
皐月は友人である飯塚萌音と一緒に登校しながら、愚痴を零していた。
現在八月も終わり頃。長い夏休みの間にある登校日である。
「しっかし、皐月の髪見てると、本当にいいやつ使ってるって思うわよ? それで米のとぎ汁ったって、誰も信じないでしょ?」
萌音は皐月の髪に触れる。皐月の髪は萌音の指と指の間を逃げるようにさらりとすり抜けていく。
「しっとりとした感じがいいのよ。後あまり脂っこくないし」
「そりゃ、一応女の子だから、それなりに気は使ってるけどね」
皐月がそう言うと、萌音は小さく笑みを浮かべる。
「彼氏が出来たから?」
その言葉に皐月は最初理解出来なかったが、次第にカーッと顔を真っ赤にする。
「萌音ぇえええええええええええっ!!」
悲鳴にも似た咆哮を挙げながら、皐月は逃げる萌音を追いかけていた。
皐月と萌音が教室に入ると、クラスメイトの様子が慌しい。
「なに、なんかあったの?」
萌音が近くにいた女子生徒に尋ねると、
「ああ、ちょっと噂で抜き打ちの風紀検査をするって」
そう告げられるや、萌音は皐月を見やる。
「皐月、あんた大丈夫? たしかギリギリじゃなかったっけ?」
萌音が訊いているのは皐月の後ろ髪のことである。
校則では腰上十二糎までは許されていることになっている。
皐月は普段髪を束ねているため、あまり気にはしていなかったが、確かにここ最近色々あって(その殆どが大宮巡査の見舞いだが)髪を切った覚えがなかった。
「ちょ、ちょっと不安かも」
皐月がそう言うが、萌音は自分の身形が可笑しくないか確認していた。
教室の扉が開かれ、生徒指導の教師と眼鏡をかけた女生徒が入ってきた。
女生徒の胸につけられているプレートには【衣川】と書かれている。
衣川は教室を見渡すや、キッと皐月を睨んだ。
その視線に気付くや皐月は首を傾げた。
その衣川も皐月ほど髪は長くはないが、胸まで伸びている。
「黒川皐月サン」
名を呼ばれた皐月は教壇の前まで歩み寄る。
そして、衣川が執拗に身形をチェックしていく。
「髪が長いデスね。ちょっと……切りマスか?」
そういうや、衣川は懐から鋏を取り出した。
「校則では女子の髪は腰上12センチマデ…… アナタの長さはそれを優に超していマス」
言うや、衣川は皐月の髪を掴み、鋏を入れようとする。
「――――っ?」
殺気を感じた皐月はとっさに教室のうしろに避き、衣川を見つめた。その額には冷や汗とも、脂汗とも取れる汗が出ている。
「なっ? いきなりなにすんのよ?」
皐月がそう言うと、衣川はゆっくりと振り返り、皐月を見る。
「校則違反する不良ハ、修正するのが風紀委員である私の務めデス」
「いきなり人の髪の毛切るのもどうかと思うわよ?」
「反発するその態度、大いに不良という……」
「あんなことされたら、誰だって逃げるわよっ!!」
皐月がそう言うと、ほかの女子も同感といった感じに頷く。
「アナタタチ、タニンのことだと思って頷いてマスが、髪が長いヒトで校則違反していれバ、切りマス」
衣川の言う通り、校則を破っていた女生徒は髪をバッサリと胸元まで切られていた。
「2ミリほど長過ぎデス。切りマス」
衣川はそう言いながら、手に持っている鋏を頻りに動かす。
「いや、だから、ちゃんと切るから…… 新学期までには」
いくら何でも横暴すぎると皐月は衣川に告げた。
「そうデスか? なら仕方ないデスね」
衣川がそう言うと、皐月はホッと胸を撫で下ろす。
「ところで…… アナタのその髪、どこのトリートメントを使ってるんデスか?」
そう尋ねられ、皐月はいつもどおり『米のとぎ汁』と云おうとしたが、信じてもらえるとは思えず、引き攣った笑みを浮かべ誤魔化していた。
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その日の晩、稲妻神社の母屋にある居間には阿弥陀警部の姿があった。
神社へと尋ねにきた用件は、例によって例の如くである。
「犯人がわからん?」
拓蔵がそう尋ねると、阿弥陀警部は答えるように頷いた。
「それじゃぁ、事故ってことですか?」
弥生がそう尋ねると、阿弥陀警部は拓蔵と三姉妹に事の件を説明する。
「確かにそれは可笑しいな。停まっていた車が急に動き出し、被害者を轢殺した。そして、逃げるどころかブレーキを踏んでガードレールにぶつかり、運転手も事故で死んでいる」
「偶然じゃないんですか?」
「被害者が信号の真ん中で立ち止まったときに車が動き出したんですよ。これが偶然じゃないならなんなんでしょうね?」
阿弥陀警部はそういうと、懐から写真を取り出した。
「事故を起こしたトラックの運転手は『衣川太一』という……」
「――衣川?」
皐月がそう言うと、阿弥陀警部は首を傾げた。
「何かご存知なんですか?」
「いや、私の学校の風紀委員で同じ苗字がいたので」
その生徒の事は?と尋ねたが、皐月は申し訳なさそうに首を横に振った。
「それじゃ、よろしくお願いします」
阿弥陀警部から写真を受け取った葉月はそれを卓袱台の上に置き、一、二度深呼吸すると、手を写真に翳し、ゆっくりと動かしていった。
――十秒ほどしてだろうか、突然葉月の表情が青褪めていく。
そして、「アガァ」と顔を天井に向け、口を挙げた。
その表情はまるで首を絞められていると云った感じである。
危険を察した弥生と皐月が葉月の手を写真から遠ざけた。
「げぇほぉ、げぇ、ほぉ……」
激しく咳き込んだ葉月は、落ち着きを取り戻すとゆっくりと深呼吸をする。
「……急に息が出来なくなって、その後のことはわからない」
「わからないって――それって、どういうこと?」
「息が出来なくなった。運転手は心臓を患っておったんかな?」
「いや、検死結果によると、頭を打っての即死でしたし、特別心臓が悪かったという報告も受けていません」
「それにトラックだから、運転しているヒトのうしろに人がいるなんて考えられないし、それにそうだったとして、誰が運転してたのかしら?」
弥生がそう言うと、「車は信号で停まっていましたし、車から人が出たところは誰も見ていないそうなんですよ」と阿弥陀警部は説明した。
「それで、轢殺されたほうは身元わかっとるんか?」
「ええ、一応は…… 国条小百合、28歳。OLです」
「運転手とその人の関係は?」
「繋がりがないとしかいえませんね。まだわからないことだらけですし」
「葉月が感じ取った、衣川太一を縊ろうとしたのも何者かわからんしな」
拓蔵がそう言うと、阿弥陀警部は頷いた。
「それで、先ほどから気になっていたんですけど、皐月さんどうかしたんですか?」
阿弥陀警部に尋ねられた皐月は首を傾げた。
皐月は長い後ろ髪をみつあみにし、それを団子のようにして後頭部に纏めている。
「いや、なんかいつもと違うから、びっくりしただけですよ」
阿弥陀警部が笑ってそう言うと、皐月は少しばかり納得のいかない表情で外方を向いた。
「に、似てませんか?」
阿弥陀警部が拓蔵に耳打ちする。
「何がじゃ?」
「いや、あなただったらすぐにわかるでしょ?」
「ぬぅん…… わしもあれには吃驚したわ。血が繋がっているとはいえ、似過ぎなんじゃよなぁ、警視庁にいた時の瑠璃さんと……」
拓蔵は今から四十年ほど前、警視庁で出会った瑠璃に一目惚れしていた。
そのため、当時のことは今でも鮮明に覚えている。
そして阿弥陀警部は仏として、瑠璃――地蔵菩薩のことを知っている。
もちろん、それは大人に権化していた瑠璃の姿であった。
それが今の皐月と瓜二つだったのだ。
幼女の姿をしている瑠璃しか知らない三姉妹は、そのことに気付きはしなかった。




