玖・伝言
目を覚ました宝静の目に飛び込んできたのは、昇ってきた朝日がちょうど本堂の窓から差し込み、それが天井に描かれている稲穂が照らされている景色だった。
その景色はまるで大きく実った稲穂が茂る田園の中に、宝静は自分がいるかのような錯覚に陥る。
宝静は少しばかり目を細め、その景色を眺めていた。
本堂の扉が開き、宝静は音がしたほうに振り返った。
「お姐さん、大丈夫?」
部屋に入ってきた葉月が宝静に尋ねる。
「葉月……ちゃん? それじゃここは」
宝静は頻りに首を動かし、再び本堂を見渡した。
「わたしのおうち。ほら、初めて会った時――」
葉月は自分の家が神社であることを、宝静と初めて会った時に説明している。
「……っ! そうだ! あの女の人は?」
公園で襲われたことを思い出した宝静は、葉月に詰め寄った。
「心配しなくても、ちゃんと連行されましたから大丈夫ですよ」
本堂に入ってきた阿弥陀警部が宝静に頭を下げる。
「あなたは……いつぞやの」
「おや、覚えてましたか?」
そう訊かれ、宝静は頷いた。
「でも、警察の人がどうしてここに?」
宝静は葉月と阿弥陀警部を交互に見やった。
「一応先に説明しときますね。殺された三守怜子が引っ越すはずだった部屋を調べてもらったんですよ。先に荷物だけ運び込んでいたみたいで――」
阿弥陀警部はそう言いながら、小さな袋に入った薬を見せた。
それには『プロスタンディン軟膏』と書かれているが、知識のない葉月と宝静には、何に使う薬なのかさっぱりであった。
「これは火傷の薬みたいで、結構酷い症状の場合に使うものなんだそうです」
「つまり…… 殺された三守怜子は火傷を負っていた?」
葉月が確認するように尋ねると、「ええ。まぁ、それがどこなのか……犯人がしたことに意味してるわけですけどね」
「そんなことを訊いても、葉月はあの晩、写真を裏返しで見せられとるから、遺体自体は見とらんじゃろ?」
拓蔵と湖西主任が本堂に入ってくる。
「あんたが宝静暦さんかえ?」
湖西主任が尋ねると、宝静は頷いた。
「阿弥陀、この前発見された女の子おったじゃろ? 路地で通り魔に遭った」
湖西主任が阿弥陀警部にそう尋ねる。
「あれな? 三守怜子が殺された時に使われた凶器と刃渡りが一緒だったんじゃよ。それともうひとつ」
今度は葉月を見やり、「ウサギを殺した凶器と思われる鋏から、人間のものとは違う血液反応が出た。しかもふたつな」
「ひとつは間違いなくウサギ。もうひとつは公園であんたが世話をしていた子犬の血液だったんじゃよ。血液がなくとも、遺体からDNA採取出来るからな」
拓蔵が説明すると、宝静は驚いた表情を浮かべた。
DNAは別に血液からでなくても採取出来る。
「しかし、ここでひとつ可笑しな点が出来るんですよね?」
阿弥陀警部がそう言うと、葉月と宝静は首を傾げた。
「子犬を殺したのは三守怜子。でも、その三守怜子は子犬を殺した翌日に死んでいる。それで発見された鋏ですけど……一体誰がウサギを殺したんでしょうかね?」
「それは、その三守怜子っていう人を殺した犯人じゃ?」
宝静がそう尋ねると、「部屋の中は蛻の殻で、事務用品すらなかったんですよ」
「……っ? 阿弥陀警部、子犬とウサギを殺したのが三守怜子……だったとして、それじゃ、その三守怜子を殺したのは?」
葉月は何かに気付き、怯えた表情で尋ねた。
「三守怜子の主治医に尋ねたところ――彼女、重度の火傷を負っていたそうなんですよ。しかも顔半分」
「発見された時、三守怜子の遺体には顔の皮が剥がされていた。本当の死因は胸を一刺しされた出血多量によるショック死という診断なんじゃが……それだけじゃったら、自分の顔を剥がさんでもいいと思うがな?」
宝静は湖西主任の言葉に耳を疑った。
「宝静さん……あんたならわかるんじゃないのか?」
「わたしなら? それはいったいどういう」
「同じ症状を持っておるあんたならな」
「お姐さんと同じって――まさか、その人も?」
葉月は宝静を見やる。
宝静は静かにつけていたマスクを外した。
上唇に切れ目があり、顎は歪んでいる。
「殺された三守怜子も上唇が裂けておったよ」
「それに加えて重度の火傷。調べたところ、その火傷は子供の時、両親の喧嘩で誤って薬缶のお湯を顔中に当てられたそうなんですよ」
それを聞くや、宝静は少しばかり躊躇った表情で、「それじゃ、あの公園にいた『口裂け女』って……」
宝静は最初あまりにも自分の考えが世迷言過ぎると思っていた。
それに昨晩のことも実は夢ではないのかという考えもあったが、「でも、子供の時に火傷を負っていたとしたら――それじゃ、今までずっとマスクをしていたってこと?」
「そもそも学校すら行ってなかったようですよ。一応、取り入れ先の小中学校に問い合わせてみましたけど、名前だけあって、一度も登校してなかったようです」
阿弥陀警部の話に、宝静は「一度も」と繰り返した。
「火傷を隠すために皮を剥いだのか、もしくは口唇裂であったこと自体が彼女は醜く思っていたんでしょうな」
「それとな、どうして被害者である三守があんたを陥れようとしたのか、そもそも接点すらなかったわけやろ?」
「え、ええ。でも、どうして彼女はわたしを?」
「あんた、羨むっていう言葉の意味答えられるか?」
「えっと、憧れる――でしたよね?」
「もうひとつの意味で、妬むという意味合いもあるんじゃよ。つまり三守は自分と同じ大きなマスクをしているあんたが、羨ましかったというわけじゃな」
湖西主任の説明を聞きながら、「意味がわからない」
と、葉月は怪訝な表情を浮かべた。
「いや、葉月さん。ずっと閉じ篭ってる人からすれば、自分と同じはずなのに違うことが出来る人を羨むものなんですよ」
「わたしだって、ずっとこの病気がどれだけいやか、これのせいで何回いじめられてきたか…… でも、理解してくれる人がいたから私は外に出れたんです。――彼女にはそういう人はいなかったんですか?」
宝静がそう阿弥陀警部と湖西主任に尋ねる。
「あんたもうすうす気付いとるじゃろ? 口裂け女がどうして自分の顔の皮を剥いだのか」
「それは火傷した痕を見せたくなかったんじゃないの?」
「彼女が火傷を負ったのは子供の時。きちんした治療をしておれば、子供の時期に治っておるはずじゃろ? そしてその原因は両親の喧嘩……」
それを聴くや、宝静は心当りがあるかのように俯いた。
「口裂け女の起源は一九七九年にあった噂話からではなく、江戸時代からと言われておってな。たとえそれが本物じゃなかったにしても、時代が時代だけに、今よりも酷な扱いを受け取ったと思うぞ」
「名前はなくとも、先天的な病は昔からあるからな。ただやはり今よりも理解されなかったと考えたほうがいいかもしれん」
湖西主任はゆっくりと宝静の肩を叩いた。
「もう一度形成手術を受ける気はないか? ずっと出来なかったんじゃろ?」
そう訊かれ、宝静は一瞬途惑った表情を見せた。
「もしかすると、三守がウサギを殺したのは、自分が宝静と同じだということを葉月に教えたかったのかも知れんな」
「口唇裂は別名『兎唇』とも言われておるからな」
そうだとしても、わざわざウサギを殺さなくても――
と、葉月は頭の中で呟いた。
「もしかしたらじゃが、女の子を殺したのは口裂け女で、ウサギを殺したのは本人の意思だった」
「彼女の手の甲についていた噛み傷が殺された子犬の歯型と一致したのも頷けられる。激情し、持っていた鋏で犬を殺した。そこを塾帰りの小学生に見られたが、背格好が宝静と一緒じゃったから、疑われなかったということじゃ」
それを聞くや、葉月はふと違和感を覚える。
「でも、それじゃ本人は誰に殺されたの?」
「凶器と思われるものは発見されていない。そして顔の皮が剥がされ遺体を身元不明のものにしようとした。しかし近隣住民からの証言で、部屋にいる人間の身元は割り出されている。殺し方が如何せん回りくどいように見えて、実はすぐに見つかるようにしていた」
「つまり犯人はすぐに身元がわかるようにしたんじゃよ」
「い、言ってることがわからない」
「宝静と違い、人に会うことを嫌っていた三守が出て行くとすれば、人が出歩かない夜がほとんどでしょうけど、殺された日、一度だけ朝の時間に隣人が挨拶を交わしていたらしいですよ。そして、その後に大きな物音がし、気になった隣人が部屋に入ると三守は殺されていた」
それを聞くや、葉月は目を大きく開いた。
「部屋中を調べたが、部屋は荒らされておらんかったし、玄関には隣人が近くにおったから、逃げるとしたら窓からじゃろ? じゃが、窓のサッシには泥がついておらんかった」
「そして、人が逃げていくのを見た人もいない。通報を受け、わたしたち警察が現場に駆けつけ、捜索をしていた時も、警察以外誰一人出入りすることはなかった。つまりですよ? 殺された三守怜子が隣人と挨拶を交わし、部屋に入ってから、誰も部屋の出入りはしていないんですよ」
「もしかしたら、その隣人が嘘をついてるんじゃ?」
「わたしたちも最初そう思いましたけどね。凶器に使われた包丁が見つかっていませんし、死亡推定時刻は午前十一時。そしてわたしたちが通報を受けたのがお昼頃、確か十二時を回ったくらいですかね? その間に包丁を捨てることは可能でしょうけど、隣人はサンダルを履いてましたから、裸足なんですよ」
「それがなんなんですか?」
「事件現場の指紋を採取するんですけど、その時被害者以外の指紋が検出されれば、その指紋を持った人物を捜索するんですよね。それが事件解決の糸口になるわけですから。でも、現場には被害者以外の指紋は取られていない。もちろん先ほど言った通り、三守怜子以外は部屋から出ていない……」
「殺された時、近くには隣人がいた。そしてすぐに部屋に入り、遺体を発見してる。もちろんこれは一人でなら指紋が採取されていない以上、証言にはならないし、その人が殺したという証拠にもならない。他の住民にも訊きましたけど、その隣人が三守怜子と話しているのを見たという人もいましたし、部屋の電気がついたのを窓越しに見たという人もいるんですよ」
阿弥陀警部が説明すると、葉月は肩を震わせる。
「それじゃ誰も犯人を見た人はいない。つまり自殺ってこと?」
「じゃが死因は出血多量なんじゃろ? それに大きな物音も気になるな」
「現場を隈なく調べたら、水浸しになってる場所がありました。恐らく被害者は料理をしているさい、何かに驚き、誤って水を零してしまった。被害者が下着だったのは濡れた服を脱いだからで、キッチンで発見されたのも理解出来ます」
「でも、それじゃ凶器は?」
葉月が尋ねると、湖西主任は呆れ果てた表情を浮かべるや、溜め息ひとつ……
「それがわかれば苦労はせんよ。とにかく凶器すら見つかっていない」
結局、この事件を警察は未解決事件として処理した。
この一件の事件。果たして人によるものなのか、はたまたアパート住民全員が嘯いていたのか……
わかったことがあるとすれば、三守怜子が地獄裁判全てを終える三十三年間の内、誰一人、彼女のために経を読まなかったことだけだった。