捌・雨音
葉月は一人、殺された子犬がいた公園の滑り台の下で静かに目を瞑っていた。
そしてゆっくりと目を開き、公園一帯をぐるりと凝視する。
見えたのは子供やら、大人の男性やら、人ならぬものであったが、彼らからは殺意を感じられなかった。
葉月はポケットからハンカチを取り出し、包んでいた鋏を見る。
若干、鋏から怨念を感じ取っていたからだ。人の怨は、ものにも宿るといわれている。
これは付喪神とよばれるもので、基本的には長く使われた道具になんらかの不思議な力が宿ったものとされている。
大切に使われた道具はそのものに恩義を返すと云われ、逆に粗末に扱われた道具は禍を齎すといわれている。
その後者による念を感じたが、その鋏はさほど古いものではなかった。
「あら?」
声が聞こえ、葉月が振り向くと、そこには宝静がいた。
「お姐さん?」
「どうしたの? そんな怖い顔して」
宝静が尋ねると、葉月はふと確認するかのように鋏を見せた。
「この鋏がどうかしたの?」
「お姐さん、この鋏に見覚えある?」
葉月が尋ねると、宝静は首を小さく横に振った。
「でも、こんなに刃をボロボロにしたんじゃ、鋏がかわいそうじゃない?」
宝静は鋏の刃を指差しながら言った。鋏の刃がボロボロになっている。
葉月が手に持っているのは、小学校で使うような文房具としての鋏だ。
布を切る『洋裁バサミ』、枝を切る『枝切りバサミ』、金属を切る『金切りバサミ』と、要素によって様々な鋏がある。
それらは専用に作られているため、同じ鋏といえど、使えるものではなかった。
「こんな雑な使われ方してたら、ものがかわいそうでしょ?」
そういうと、宝静はバッグからペンケースを取り出し、ひろげて見せた。
「ほら、わたしの鋏、お気に入りだったから、小学生の時から使ってるの」
そういうや、ペンケースの中に入っていた鋏を見せた。
綺麗に仕舞われているため、錆一つなく、刃もボロボロにはなっていない。
「それ、葉月ちゃんの?」
宝静が尋ねると、葉月は首を横に振った。
それにこれを見せて、宝静に知らないかと尋ねているため、葉月のものではない。
「学校の体育館にあったんだ」
「なんでそんなところに?」
「多分だけど、犯人はその鋏を使って、お姐さんが可愛がっていた犬を殺したんだと思う」
それを聞くや、宝静はギョッとする。
「でも、犯人は捕まったって」
「……殺されたって」
葉月の言葉に、宝静は鸚鵡返しする。
「それと、昨日学校のウサギが誰かに殺されて、その鋏にその血液が付着してるかもしれない」
「錆付いているところがそれ……ってこと?」
葉月は答えるように頷く。
「でも、どうしてあの子は殺されなきゃいけなかったのかしら」
葉月もその事が気になっていた。
殺された三守怜子の手には、犬に噛まれた痕があり、それがこの公園で発見された子犬の歯形と一致している。
しかしながら、それなら殺さなくてもいいはずである。
――そもそもこの鋏がウサギを殺したものかどうかもわからないのだ……
葉月はふと空を見上げた。
どんよりとした雲が流れている。
そしてポツポツと雨が降り始めた。
「そろそろ帰らないと、お父さんとお母さんが心配するんじゃない?」
そう訊かれ、葉月は宝静を見上げた。ふと黒い影が二人の間にすり抜ける。
――いま、誰か通ったような……
葉月はそう思いながら、公園一帯を凝視する。
近くにいるのは宝静ただ一人である。それ以外の人の気配がするとは思えなかった。
「どうかしたの?」
「お姐さん、この公園でなんか嫌なこととか聞いてない?」
「いやなこと? べつに怖い話とかないわよ?」
それは葉月も公園にいる浮遊霊を見ていればわかる。
怖い感じがしないのだ。もっとも霊感に敏感な葉月であるため、凝視すれば霊の善悪がわかる。
どこかで雷が落ち、ブレーカーがおちたのか、公園の街灯がフッと消えた。
あたりは薄暗く、気味が悪い。
「お、お姐さんいる?」
葉月がそう声をかけると――
水に濡れた足音が、葉月の背後から、ピチャリ、ピチャリと聞こえてきた。
「お姐さん?」
と葉月が振り返った時だった。
雷が再び鳴り、その光が人影を映し出し、葉月は悲鳴をあげた。
「あ、ああ……」
葉月は怯えた表情で後退りする。
目の前にいる女は宝静と同じく大きなマスクをしている。
しかし、隙間から覗き見える相貌は、とても『人』のように暖かい光は発していなかった。
「ねぇ? わたし……きれい?」
女がそう尋ねると、「わ、わからない」
葉月は怯えた表情で首を激しく横に振る。
「ただ答えるだけでいいのよ? ねぇ、わたし……きれい?」
「わからない! わたしはあなたがきれいだとか、そんなのわかんない!!」
葉月は目を瞑ろうとしたが、まるでこじ開けられているかのように、瞑ることが出来なかった。
そして体が思うように動かず、女は顔を近付ける。
「ねぇ? わたし……きれい?」
「だから! わたしはあなたがきれいだとか、そんなのわかんない」
葉月がそう言うと、女は葉月を掴みかかる。
「いいから言いなさい! わたしがきれいだと」
「き…… れ……」
葉月は無理矢理口をひろげられる。
「わ、わたしは…… あなたがきれいだなんて絶対思わない!」
予想外の言葉に女は目を疑った。
途端、葉月を縛り付けていた何かが解け、葉月はその場に跪き、激しく咳き込んだ。
そして、キッと女を睨みつけた。
「わたしはあなたみたいに、無理矢理人に言わせたきれいじゃ、きれいだなんて絶対思わない!」
「な、なにを?」
「人がきれいだって思うことは、その人が素直な気持ちで思うことなの! 他人から無理矢理言わされた言葉なんて本心じゃない! ましてや人に言わせる言葉は、ほんとうにあなたがきれいだと思っていうことじゃない!」
葉月の言葉に、女はわなわなと体を震わせた。
「わたしは…… わたしは……」
女は震え、譫言を発する。
「葉月ちゃんの言う通り、人に無理矢理言わせた言葉は本当の言葉なんかじゃない」
宝静が静かに葉月に歩み寄り、女を見やった。
「わたしもあなたみたいに大きなマスクをしてるし、きれいになりたいと思わなかったことはない。でも、人を脅してまでいわせたいと思ったことはない」
「あなたに…… 何がわかるって言うのよ! 私と同じくせに! わたしとぉ」
女は隠し持っていた鎌を振りかざし、宝静を切りつけた。
宝静の腕からは血が流れ落ちている。
「お姐さん?」
葉月がそう呼びかける。
「あなたも……あなたたちもわたしと同じふうにしてあげるわ」
そういうや、女は再び鎌を振りかざし、葉月を切りつけようとした時だった。
――金属が当たった音が、公園内に響き渡った。
「皐月おね……」
葉月は自分を庇ってくれたのが皐月だと思い、そう云おうとしたが、目の前にいるのは意外な人物だった。
「し、信乃さん?」
目の前にいたのは、女の鎌を長刀で受け止めていた信乃であった。
その信乃は女を睨みつけている。
「一刀・戦風扇」
信乃は刀を縦横無尽に切りつけたが、女はそれを避け、間をあけた。
「信乃さん、どうして?」
「別に葉月ちゃんを助ける義理はないけど、助けなかったら浜路がうるさいだろうし」
信乃はあまり葉月を見ようとはしなかった。
「あいつ? 学校で飼ってたウサギを殺した犯人って?」
「わ、わからない……でも、わたしがウサギ小屋から外のフェンスを見た時に学校を見てたの、あの人だった」
葉月はそう言いながら、女を指差した。
「そこで倒れている人から、ここで殺された子犬の念が感じられるけど、すごく暖かい匂いがして、気持ちがいい」
そう言いながら、信乃は少しばかり目を細める。
――が、次の瞬間、カッと目を見開き、女を見やった。
「……だけど、あいつからは嫌なにおいしかしない。殺された動物の怨念の臭いしか」
「何をわけわからないこと云ってるのよ? ねぇ、あなた、わたし……きれい?」
女がそう訊くと、「ええ…… きれいでしょうね?」
信乃がそう答えると、葉月は驚いた表情を浮かべ、女は勝ち誇ったような表情を浮かべた。
「そうでしょ? わたしってきれいだからね? あなた見る目があるわ! そこのガキなんかわたしのことをきれいだとは思わなかったみたいだからね」
女はケラケラと高笑いする。
「吐き気がするくらい不細工すぎて、笑っちゃうくらいにきれいだわっ!!」
信乃がそう告げると、女は一度、戸惑いの表情を浮かべたが、その言葉を理解すると信乃を睨みつけた。
「いま……なんていったの?」
「あれ? あんた皐月と一緒で聾なわけ? それとも馬の耳に念仏? まさか自分が本当にきれいだなんて、本気で思ってたわけ?」
信乃がクスリと笑みを浮かべる。
「あんたからは即席ラーメンやスナック菓子、チョコレートに炭酸飲料、お肉の臭いもするわね…… とてもじゃないけど、栄養バランスが悪すぎる」
信乃は女を指差しながら言い放った。
「それとあまり運動してないでしょ? そんなんできれいだなんて、月とすっぽん、自惚れるのも甚だしいわっ!!」
「あ、あんたなんかに何がわかるのよぉっ!!」
女はそう言いながら、信乃を切りつける。
「本当のきれいっていうのはね、死ぬ気で努力するものじゃなく、その人にあった体系を維持することが最低限のきれいなのよ。無理なダイエットで体を狂わせ、卑怯な手を使った偽りのきれいなんて、わたしは心からきれいだなんて思わない!!」
信乃はそう言うや、鎌を避け、女を刀で切りつけた。
「閻獄第一条三項において、動物を殺めたものは『等活地獄・瓮熟処』へと連行する!」
信乃がそう告げるや、どこからかお札が現れ、女の額に貼り付けられた。
「い、いや…… いやぁああああああああああっ!!」
女の断末魔が聞こえ、女は地獄へと送られていった。
「は、葉月?」
心配になって探していた皐月が公園にいた葉月を見つけ駆け寄ってきた。
「皐月お姉ちゃん?」
葉月も皐月に気付き、引き攣った笑みを零しながら尋ねる。
「その人が宝静暦?」
皐月は近くに倒れていた宝静を見ながら、葉月に尋ねた。
「それじゃ、この人が例の口裂け女……」
「違う、本物の口裂け女なら、さっき信乃さんが――」
葉月は信乃を指差しながら、説明する。
「――信乃が?」
皐月はどうして信乃がここにいるのか、まだ理解出来ていなかった。
「信乃さんが助けてくれなかったら、わたし殺されてたかもしれない」
「あ、あんた、また危険な……」
「ああ、もう! 助かったんだからいいでしょ?」
信乃がそう言うと、皐月と葉月は彼女を見やった。
「それに、ちゃんと礼状を言いつけて、地獄に送ったから、心配しなくてもいいわよ」
皐月は信乃が妖怪を恨んでいることを知っている。
だからこそ、礼状を言いつけ、きちんと執行人の仕事をしたことが不思議と信じられなかった。
「そうしないと、この子が後で嫌な思いをすると思っただけ」
信乃がそう言うや、皐月は笑みを浮かべた。
「な、なによ?」
「いや、なんでもない。ありがとうね、信乃。葉月とこの人を助けてくれて」
皐月は気を失って倒れている宝静を見やる。
「別に頼まれたから助けたまでで……」
信乃は言葉を濁らせる。
皐月と葉月が信乃を凝視し、耐えられなくなった信乃は「ああ、わたしもう帰るわ」
苛立った声を放ち、信乃がその場を去ろうとした時だった。
「信乃さん……」
葉月が呼び止め、振り返った信乃は「なに?」
と尋ねると、「助けてくれて、ありがとう」
葉月は笑みを浮かべながら、お礼を言った。
「お礼だったら、わたしじゃなくって、浜路に言ってあげて」
信乃はそう言うと、凝視しないとわからないほどに小さく笑みを浮かべ、消えた。
信乃が去った公園には鈴の音が響き渡った。
「皐月お姉ちゃん、どうかしたの?」
声をかけられた皐月は葉月を見下ろす。
「ううん、なんでもない。それじゃ、阿弥陀警部たちに連絡して、この人を神社に運んでもらおう。一応訊きたいこともあるらしいから」
そう言われ、葉月は首を傾げたが、了解するように頷いた。
『信乃…… あんたは何も変わってない。初めて会った六年前からずっとね』
皐月はそう頭の中で呟きながら、背筋を伸ばした。