漆・焼痕
駅のホームで電車を待っていた宝静がふぅと溜め息を吐いた。
周りからひそひそと陰口を云われている気配がするが、彼女は気にはしなかった。
宝静の障害は生まれつきである。そのことに関して離別した母親を憎んではいない。
もちろん、父親に対しても恨んではいなかったが、出来れば最後まで治療をしてほしかった。
時期はずれの大きなマスクをしているだけで変人扱いを受ける。
ましてや雨合羽を着た日にゃ、それこそ『口裂け女』と云われても否定出来ない。
小学生の頃はそれをネタにからかわれたりしたが、素顔を見せたら、それはそれで蔑視されていた。
電車の発射ベルが聞こえ、ボーっとしていた宝静は慌てて電車に乗り込むと、ちょうどドアが閉まり、ゆっくりと電車は走り出した。
座席に座り、バックの中からスケジュール表を取り出し広げた。
宝静の身形からして、ほとんどが事務関係の仕事なのだが、偶に人と接することがある。
会社の同僚や上司は宝静の顔のことを知ってはいるが、外から来た人は彼女を一瞥するや、気味悪がったり、あまり目を合わせようとはしない。
たとえば自分の顔が綺麗な状態だったら、どれだけよかっただろうか。
その歪んだ口元が整っていたら、こんな大きなマスクをしなくてもすんだのにと、宝静は多々思うことがあった。
しかし、それを形成する勇気がなかった。
今働いている会社は知り合いの紹介であり、彼女の障害を理解してくれてはいるが、果たしてそれもいつまで持つのか……
このご時世、いつ馘首になるかわからないのだ。そして再び彼女を雇ってくれるかどうかもわからない。
目の前に座っている女子高生二人がペチャクチャと喋っている。
股を大きく開き、人目も憚らずに大きな声で話しており、見るからにみっともない姿である。
「なに? うちらになんか用?」
振り向くや否や、女子高生の一人が苛立った口調で宝静に声をかけた。
宝静は咄嗟に視線を逸らす。
「なに、小母さん、わたしたちになんか用なの?」
もう一人も喧嘩腰に話しかける。
用も何も、目の前に座っていた彼女たちが視界に入っていたのだから、それでいちゃもんつけるのはなんとも図々《ずうずう》しい。
そもそも宝静はまだ二十代半ばであり、少なくとも他人から小母さんといわれる年でもない。
「あ、あたしは……」
「だいたい小母さん、なにそれ、すんごいマジうけるんですけど」
女子高生の一人が、宝静の顔を指差す。
宝静は最初理解出来なかったが、「きゃはは、ほんとだぁ。なにそれ、ちょう気持ち悪いんですけど」
もう一人もケラケラと嘲笑する。
宝静がつけている大きなマスクを指差しながら哂っているのだ。
「小母さんさぁ、もしかして、ひとに見せられないくらいブスなんじゃない?」
「いえてる。うちらの視界に入らないでくれない?」
暴言に耐え切れず、宝静はゆっくりと立ち上がり、席を離れた。
幸い、他にも座れる場所があったため、そこに座った。
「ねぇ、お母さん。あの人、大きなマスクしてるよ」
隣の座椅子に座っている子供がそう言うと、母親が「へ、変なことをいうんじゃありません」
といい、宝静から子供が見えないようにする。
宝静は少し溜め息を吐くと、バッグから折り紙を取り出し、テキパキと折り進めていく。
そして出来上がったのは『ウサギ』である。
それを先ほどの男の子がジッと宝静を見ていた。
「ほしいの?」
宝静がそう尋ねると、男の子は答えるように頷いた。
「だめですよ」
と、母親が止めにはいったが、「いいんですよ。それに何回も作ってるから、家に何個も置いてあるんです」
そう言うと、宝静は先ほど作ったウサギを男の子に渡した。
「ねぇ、作り方教えて」
いつの間にか宝静の周りには子供が集まっていたが、『**駅~っ! **駅~っ!』
という車内アナウンスが聞こえるや、「ごめんなさい。わたしここで降りなきゃいけないの」
宝静はバッグを肩にかけ、子供たちに頭を下げるや、電車を降りた。
子供たちは頬を膨らましながら、文句を言っているのが聞こえたが、電車が走り出すと、その声も次第にやんでいった。
昨日、ウサギ小屋で事件があったこともあり、ウサギ小屋には飼育委員以外は入ることが出来なくなっていた。
中休みのあいだ、低学年の子供たちは教室からジッとウサギ小屋を見たり、中には朝早く学校に来て、飼育委員が餌やりに入るすきを盗んで入ろうとした児童までいる始末である。
昼休み、葉月はウサギ小屋で見たマスクを被った女がいたフェンスのところを、浜路と一緒にあたりを調べていた。
「ねぇ、なにかわかった?」
葉月が尋ねると、浜路は鼻をヒクヒクと頻りに動かす。
信乃同様、鳴狗家の血筋は生まれつき鼻が利く。それは犬にも勝らないものであった。
「ちょっと待って、かすかにだけど血の臭いがする」
浜路はそう言いながら、ゆっくりと体育館の裏側に回った。
日陰となっているそこは、梅雨時とはいえ、生暖かいこの時期でさえ、立っているだけで身震いがするほどに冷たく、薄着をしていた葉月は体を震わせた。
浜路はまるで警察犬のように鼻をヒクつかせ、体育館の下を見やるや、しゃがみこみ、手を突っ込むと、何かが手に当たった。
葉月に覗くようにと促し、葉月はしゃがみこんで中を見ると、そこには小さな鋏が捨てられていた。
浜路はそれを手に取ろうとすると、葉月がそれを止め、ポケットからハンカチを取り出し、それに包むように鋏を取った。
「浜路ちゃん、なにかわかる?」
葉月はそう尋ねながら、浜路に鋏を見せた。
浜路は鼻をピクつかせ、臭いを嗅ぐ。
「血の臭いがする。たぶん、この臭いだと思うよ」
「何の臭いかわかる?」
そう尋ねたが、浜路は首を横に振った。
「獣みたいな血の臭いだけど、さすがに特定はちょっとね」
「湖西のおじいちゃんに調べてもらおうかな?」
そう考えたが、殺人でない以上、刑事部が動くとは思えない。
「ちょ、ちょっと待って、その鋏……なんか可笑しくない?」
浜路はそう言うや、鋏の刃を凝視する。
「これ、もしかしたら、前にも使ってるかもしれない」
「そりゃ、鋏なんだから切ることに……」
葉月も何かに気付き、言葉を止めた。
鋏の刃の一部分が錆ている。
今は梅雨であるため、雨が頻繁に降ってはいるが、ウサギが殺された日からこの時間まで、雨が降ってはいなかった。
錆は空気や湿気などの作用で、金属表面に生じる酸化物や炭酸塩などの皮膜である。
ここは日陰で風通りがいい。いくらなんでも一日で錆びるとは思えなかった。
葉月はあたりを警戒する。
そして、徐に目を瞑り、譫言を呟いた。
「何か云ってるの?」
浜路がそう尋ねると、「誰かがここで鋏を慌てて捨てていったって」
葉月はそう言いながら、フェンスを指差した。
「警察に調べてもらったほうがいいんじゃない? もしかしたら、ウサギ小屋で見た女の人って、逃げていく時のを見てたんだよ」
浜路はそう言うが、葉月はそうなのだろうか?と考えていた。
逃げるとすれば、一目散に逃げるはずである。
そもそも、どうやって人の目に触れずに入れたのか。
ウサギ小屋は中庭にあり、周りは校舎や体育館である。
そしてなにより、教室があるため、誰かが外を見ている可能性だってある。
しかしながら、学校内にいる全員に尋ねると、誰も不審な人を見ていないという。
葉月は鋏をハンカチに包み、ポケットの中に仕舞った。
稲妻神社母屋の居間には、拓蔵と湖西主任の姿があった。
「珍しいな、あんたがうちに来るなんて」
拓蔵はワンカップ酒を飲みながら尋ねる。
「葉月ちゃんはおらんのかえ?」
「なんじゃ、葉月に用があったんか? 生憎じゃが、まだ学校から帰ってきとらんよ」
拓蔵はそう言いながら、うしろにある掛け時計を親指で指した。
時刻は午後四時である。
「もうそろそろしたら帰ってくるじゃろ? ところで、なんの用なんじゃ?」
「ちょっと葉月ちゃんに霊視してもらおうと思ったんじゃよ」
湖西主任はそう言いながら、被害者である三守怜子の遺体が写った写真を見せた。
「これは…… 確か、阿弥陀警部がこの前持ってきた写真じゃないか?」
「ああ、そうなんじゃがな、もう一度霊視してもらおうと思ったんじゃよ」
湖西主任はそう言うが、拓蔵は首を傾げ、写真を凝視する。
「実はな、昨日の晩、お前から葉月ちゃんが通ってる学校でウサギの事件があったという電話をもろうた時、三守怜子の検死結果を見とったんじゃよ。それで気付いたんじゃが、手に噛まれた痕があるという診断結果だったんよ」
「噛まれた痕?」
拓蔵がそう尋ねると、湖西主任はトランクから、人間の手の模型と、犬のような牙がある歯型の模型を取り出した。
「これが先日殺された三守怜子と同じくらいの形をした手の模型」
そう言うや、湖西主任は手の模型を持ち、説明する。
その手の甲には“赤い点”が四ヶ所、線を四角く結ぶかのようにつけられている。
「そしてこれが葉月ちゃんが会ったという、宝静暦がいた公園に捨てられ、何者かに殺されていた子犬の歯型」
そう説明しながら、犬の歯型を使い、手の甲を噛み付かせるように挟んだ。
――すると、四つの赤い点が牙の先と綺麗に合わさった。
「これは……」
さすがの拓蔵も驚いた表情を浮かべる。
「偶然にしては出来すぎじゃろ? このことで阿弥陀たちにお願いして、近隣住民に聞き込みをしてもらったんじゃがな、一致したんじゃよ。三守怜子が手に包帯した日と、子犬が殺された日が」
「それじゃ、子犬を殺した犯人は、浜路の云っていた通り三守怜子だったということか」
しかし、そのことは警察も知っていたはずである。
そのことを指摘すると、「そもそも、あの公園でよく見かけられていたのは、マスクをした女という証言だけだった。それで最初は宝静暦が疑われて、彼女の事情聴取をしておったから、初動捜査が可笑しくなってたんじゃな」
「マスクを? それじゃ、三守怜子も……」
「していたと推測してもいいじゃろうな。そして顔の皮が剥がされていた理由も……」
湖西主任が言葉を止めた。
――ちょうど神社の近くを取っていく小学生の声が居間まで聞こえてきたのだ。
「葉月ちゃんはもうそろそろ帰ってくるんじゃったな」
「そうなるな。別に習い事をさせているわけでもないし」
そう話しながら待てども、時計は午後五時を回った。
時計を見ていた湖西主任が苛立ちを見せる。
それを見ていた拓蔵も「少し、遅すぎるな」
と、表情を曇らせた。
「そうか? どうせ寄り道でもしとるんじゃないのか?」
「弥生や皐月ならそうかもしれんが、葉月は一度まっすぐ家に帰ってきて、宿題してから遊びに出かけるんじゃよ。寄り道はほとんどしたことがない」
「居残りでもしとるんじゃないか?」
そうなのだろうかと拓蔵は思ったが、午後六時になっても帰ってこなかった。