陸・兎口
兎口:(『うぐち』とも)口唇裂(上唇)の俗称。兎の口に見えることからそう云われている。
葉月や浜路が通っている福祠小学校の中庭には、小さなウサギ小屋がある。
昼休み返上で飼育委員の何人かが小屋の中や周りの掃除をしており、その中に葉月の姿があった。
「静原さん。穴の中見てください」
高いところの掃除をしていた六年生の新藤が、五年生の静原にお願いする。
部屋の隅にはいくつかの穴が掘り起こされており、言うなればウサギの巣穴なのだが、掃除をするさい、その穴の中も確認しなければならない。
餌を食べる以外はその巣の中にいることが多いため、下手をすると、そこで子を産んでいる可能性があるからだ。
静原はいくつかの穴の中を懐中電灯で照らしながら覗きこんでいく。その中にはまだ隠れていたウサギが巣の中で眠っていた。
刺激を与えてウサギを起こし、餌を見せながら、地上へと誘導していく。
――そうしていくうちに、静原はある穴の中を懐中電灯で照らした。
この小屋一番の大きなウサギが巣の中で眠っているのだが、妙に体が小さく感じた。
静原は音を鳴らして起こそうとしたが、ウサギはまったく反応を見せない。
「どうかしたんですか?」
葉月が静原に尋ねると「ああ、黒川さん。ちょっと鶴見先生呼んできてくれない?」
飼育委員の顧問は、葉月の担任である鶴見である。
――数分後、葉月は鶴見をウサギ小屋まで連れてきた。
「静原さん、どうかしたんですか?」
鶴見は腰を屈め、静原に尋ねる。
「それが、穴の中にウサギが入ってるんですけど、全然反応しないんです」
そう言われ、鶴見は懐中電灯で照らしながら、穴の中を覗きこんだ。
そして穴の中に手を突っ込み、ウサギの背中に触れた時だった。
まるで、生きていると思える温もりは感じられなかった――
鶴見は懐中電灯を静原に渡し、もう片方の手を穴の中に入れ、ウサギを取り出し、眼下に曝した。
そして、小屋の中で絹を裂くような悲鳴が響き渡った。
ウサギの口は、まるでペンチか何かで潰されており、お腹が裂かれ、五臓六腑が剥き出しになっている。
その死体を見るに耐え切れず、静原は外に出るや、激しく嘔吐した。
「せ、先生! いったい何があったんですか?」
外に出ていた新藤は何が起きたのか理解出来ず、小屋の中に入ってきた。
「し、新藤くん、見てはいけません」
鶴見が止めにはいる。
生き物を育てることで、命の大切さや尊さを学ぶという学習目的で、学校は生き物の飼育を子供たちにさせている。
しかし、葉月の目の前に曝されているウサギの死体は、自然に死んだものではなく、明らかに殺されたものだった。
葉月は口を押さえながら、ゆっくりと外を見た時だった。
体育館近くにある道路側のフェンス越しに、大きなマスクをした女性がウサギ小屋をまるで睨みつけるように見ていた。
葉月はゾクッと悪寒を感じ、一瞬視線を逸らした。
そして再びフェンスを見た時には女性の姿はなかった。
ウサギ小屋の鍵は職員室で管理されているため、使わない時は職員室に保管されている。
今日の朝、静原が餌やりにと、用務員の湯川と一緒にウサギ小屋に入っていた。
その時は飼育しているウサギ全七匹の確認を取っている。
最後に鍵を開けたのは先ほどであるため、犯人は少なくとも、午前中に鍵を開け、ウサギを殺害している。
二時間目と三時間目の間に中休みがあり、その時は触れ合えるようにと、ウサギ小屋を開放しており、その時も全部のウサギが巣の中から出ていたのを、見ていた二年生の担任である吉原が証言した。
つまり、殺すとすれば、三、四時間目。そして給食の時間にしかないのだ。
「葉月ちゃん、どう? 何かわかった?」
放課後、廊下の窓からウサギ小屋を見下ろしていた葉月に浜路が声をかける。
葉月はジッとウサギ小屋を凝視していたが、霊の気配も何も感じられなかった。
「霊視は出来ないの?」
そう浜路が尋ねるが、葉月は首を横に振った。
葉月の能力である霊視は便利であるが、殺されたのは人間ではなく動物である。
そもそも動物の言葉がわかれば、苦労はしない。
葉月は溜め息を吐いた。
「ウサギ……?」
警視庁鑑識課の一室で、机に座って書類を見ていた湖西主任がキョトンとした表情を浮かべながら、電話越しの拓蔵と会話していた。
『いやな、葉月の学校でウサギの死体が発見されたそうなんじゃよ』
「生ある者は必ず死あり――じゃろ? そのウサギ、寿命で死んだんじゃないのか?」
『うんにゃ、誰かに殺されたと葉月は云っとるんじゃよ』
それを聞くや、湖西主任は聞き返した。
「いつ殺されたのかわからんのか?」
『それがわかれば、葉月も、学校側も苦労はせんじゃろ?』
たしかにそうだと、湖西主任は項垂れた。
『それと、外でマスクをした女を見たともいっておったがな』
「マスク? 阿弥陀や大宮がいっとる、宝静暦のことか?」
『いや、それじゃったら、葉月が事件が起きた日の夕方に、その宝静暦に会っとるらしいから、すぐにわかるじゃろうし、見かけたマスクの女は違うつっとったよ』
湖西主任は携帯に耳を傾けながら、書類を見た。
(三守怜子を殺した犯人もそうだが、そもそも三守怜子はどうして家から離れた公園に捨てられている子犬を殺したんじゃろうか?)
湖西主任は三守怜子の検死結果が書かれた書類を読み耽る。
そしてひとつの項目に目をやった。
「おい、『手の甲に噛まれた傷あり』と書かれておるが、現場で遺体を見た時はそんなもんなかったぞ?」
「あ、はい。発見された時、被害者は包帯をしていましたから、すぐにわからなかったんです。検死の時に身につけているものを外しますので、その時にわかったんですよ」
それを聞くや、湖西主任は少し考え、「その傷痕、先に殺された子犬の牙と照合してみるか?」
湖西主任はそう呟くや、椅子から立ち上がり、部屋を出て行った。
暗い夜道を塾帰りの小学生の女の子が一人で歩いている。
塾が家からさほど離れていないのと、両親が共働きのため、女の子は一人で帰るはめになっていた。
周りは薄暗く、街灯の明かりも弱々しく心許ない。
女の子は周りを警戒しながら、防犯ベルをギュッと握り締め、足早に帰っていた時だった。
曲がり角を曲がった時、スーッと、女の子の目の前に女性が現れた。
女性は雨が降っていないのに、赤い雨合羽を着ており、顔に大きなマスクをしている。
女の子は驚きながらも、女性から逃げるようにその場から離れ、間をおくや、全速力で走り去った。
女性からだいぶ離れたと思い、女の子は立ち止まるや、肩で息をする。
ゆっくりとうしろを見て、女性が追ってきていないとわかるや、ホッとした。
そして、前を見るや――――
「ねぇ? わたし……きれい?」
先ほどの女性が女の子を見下ろしていた。
「ひぃっ!」
女の子は浮ついた悲鳴をあげた。
「ねぇ? わたし……きれい?」
女性は執拗に尋ねる。
「わ、わからない……」
「そんなわけないでしょ? 答えるだけでいいのよ? ねぇ…… わたし…… きれい?」
女の子はまるで無理矢理開けられたかのように
『きれい』――と答えてしまった。
女性はそれを聞くや、クスっと笑ったような雰囲気を漂わせながら、ゆっくりとマスクを取り始める。
女の子はその場から逃げようとしたが、恐怖で足が動かず、その場にへたりこんだ。
そして、曝け出された女性の素顔を見るや、悲鳴を挙げた時――
ドスという鈍い音と、ピチャッと何かが飛び散った音が、暗い路地に小さく響いた。
翌朝、顔の皮を剥がされた女の子の死体が、無造作に遺棄されているのが発見された。