伍・雨音
――子犬が殺された事件発生から三日ほど経っていた。
「もう信じない! あの天気予報、もう信じない!」
――と、稲妻神社の母屋玄関先で、葉月は愚痴を零していた。
その日の朝、TVの天気予報では『夕方から小雨が降るでしょう』と報じられており、葉月が福祠小学校の校門を出る時はまだ降っていなかったのだが、半分くらいを歩いた時、まるでバケツをひっくり返したかのような豪雨が降りはじめた。
そのため、足早に帰ってきた葉月の服は、シャツが肌に引っ付いて、下に来ている肌着が透けて見えるほどにびしょ濡れである。
『小雨』という予報から、傘を持っていかず、また学校から借りることもしなかった葉月はごらんの有様だった。
葉月は自分の部屋に戻る前、洗面所からバスタオルを取り、体を拭きながら部屋に戻った。
濡れた服を脱ぎ、裸になるや、もう一度体を拭き、洗濯籠の中に服とタオルを投げ捨て、箪笥から新しい着替えを取り出し着替える。
ランドセルの中身を見ると、案の定、ノートやら、教科書がびしょ濡れだった。
明日までに乾くかなぁと考える以前に、宿題どうしようとそちらの方が心配で、葉月は溜め息を吐いた。
家の中を歩くと、まだ誰も中にはいなかった。
弥生と皐月はまだ学校で、拓蔵は事務所で仕事をしている。
一応神主なのだから、神職をしているのだ。こういう時は邪魔してはいけないというのが、この家のルールであった。
また、社務所と母屋は渡り廊下で繋がっているのだが、昼食等の休憩以外は行き交い出来ないように、母屋側の扉が締め切られている。
あくまで母屋はプライペート空間であるからだ。
外は土砂降りで、遊びに行くことも出来ず、またノートやらが濡れているため宿題も出来ない。
葉月は一人、居間でTVを見ることにした。
小一時間くらいして、葉月がTVに没頭している中、どこかからガタッという音が鳴った。
葉月はビクッと肩を窄め、音がしたほうを見やる。
本堂と庭が見える縁側は雨戸が閉められており、それが風で揺れ、音が鳴った……と、葉月は最初そう思ったが、ガタガタガタ……と明らかに風が揺らしているものではない音がこだまする。
「だ、誰?」
葉月は不安そうな声でそう尋ねるが、誰も返事をしない。
「誰、誰かいるの?」
葉月はゆっくりと立ち上がり、雨戸に近付く。
そして雨戸を開けようとすると、開いた隙間から、小さな手がニュッと入ってきた。
「……!!」
葉月は絶句し、雨戸を無理矢理閉じようとする。
「いたいっ! いたいって! 葉月ちゃん、いたい!」
少女の悲鳴が聞こえ、葉月は閉じるのを止めた。
そして、ゆっくりと雨戸を開けると、そこには葉月と同じくらいの、白い髪をリボンで横に束ねた女の子が、挟まっていた手に息を吹きかけながら、葉月を睨みつけていた。
その手は痛々しく腫れ上がっている。
「は、浜路ちゃん?」
葉月は驚いた表情で言うと、すぐに傷の手当てをと救急箱を取りに行った。
「ひぃどいよぉ、葉月ちゃん。せっかくお使いで来たのにぃ」
縁側に座った浜路が涙目で訴える。
「お使い?」
と、葉月は首を傾げながら、聞き返す。
「うん。おじいちゃんから、お寺の庭で生ってる梅の実がいい具合に育ったから、梅干用にどうかって」
そう言いながら、浜路は持ってきたビニール袋の中身を広げて見せた。
その中には青く熟した梅の実が溢れんばかりに入っている。
「梅干はまだ去年のが残ってるんだけど、でも爺様だったら、梅干より梅酒を作りそうだけどね」
「そっちのほうがあってるんじゃない? おじいちゃんもそう言ってたし」
と、浜路は笑いながら言った。
「あ、葉月ちゃん、昨日ちょっと気になることがあったんだけど」
雨が止むまでの間、居間で寛いでいた浜路が、麦茶を持ってきた葉月にそう言う。
「気になること?」
「うん。ほら、この前公園で捨て犬の殺された事件があったでしょ? あれ、犯人わかったんだって」
浜路がそう言うと、葉月は身を乗り出す。
「それ、ほんとう?」
「うん。犯人は三守怜子っていう女の人。なんか近所でも有名な犬嫌いだったみたいだよ」
そうだとしても、犬を殺す理由にはならない。
「でも、子犬を殺した時、みんな目撃してるっていうしなぁ」
「塾帰りの子がでしょ? でも昨日、買い物の時、ちょうどその公園の前を通ったから、遊火にお願いして、事件当時と同じことしてもらったけど、人影が見えるくらいで、何をしているのかまでは全然見えなかった」
葉月がそう言うと、浜路がゆっくりと深呼吸する。
「もしさぁ、目撃される以前から、子犬が死んでいたとしたらどうする?」
そう言われ、葉月は少しばかり考えたが、答えが出なかった。
その質問があまりにも残酷に聞こえたからだ。
一思いに殺すのだって、想像したくないが、その死体を再び殺す。
そんな人外なことを犯人はしたのだろうかと……
「それにお姉ちゃんが変なこと言ってたんだよね」
「――信乃さんが?」
浜路の姉は信乃である。
信乃と皐月が仲違いしているため、信乃が神社に来ること自体ほとんどないが、和尚や浜路はよく神社に来ることが多い。
「うん。昨日本屋に行った帰り、大きなマスクをした女性が小学生にからかわれてたんだって」
「大きなマスク?」
葉月は一瞬、公園で会った女性――宝静暦のことを思い浮かべた。
浜路は麦茶を飲み干すと、コップを卓袱台の上に置き、縁側から出て行く。
長靴を履いた時、ふと何かを思い出すや、葉月を見やった。
「皐月さんって、中学校では剣道やってるの?」
そう訊かれ、葉月は首を横に振った。
「そうか」
と、浜路は残念そうに言う。それがどうかしたのかと葉月が尋ねると、「お姉ちゃんがね、皐月さんと神様の力とかそういうのなしで、勝負がしたいって」
浜路がそう言うと、葉月は不思議そうに首を傾げた。
その晩のことである。
稲妻神社の母屋にある居間では、阿弥陀警部と大宮巡査が鎮座していた。
用件は例によって例のごとくである。
写真に写った遺体は顔の皮が剥がされているため、筋肉が剥き出しになっている。
とてもじゃないが見せられないと、阿弥陀警部は写真を裏返して、葉月に渡した。
葉月はその写真を自分の目の前に置き、一、二度ほど深呼吸すると、目を瞑り、ゆっくりと写真を摩るように手を動かし始めた。
「どうですかね?」
阿弥陀警部が尋ねると、葉月はゆっくりと写真から手を離した。
一、二度ほど深呼吸し、ゆっくりと目を開いた。
「声が聞こえた」
「それはどんな感じでした? 男性? それとも女性ですか?」
「女性みたいだったけど、あまり聞き取れなかった」
葉月が不安そうに言う。
「殺された被害者の身元はわかってるんじゃろ?」
「え、ええ。被害者は三守怜子――」
被害者の名前が出るや、葉月はガタッと身を乗り出した。
「ちょ、ちょっとどうしたの?」
突然のことで隣にいた弥生が驚く。
「葉月、少し落ち着きなさい」
拓蔵にそう言われ、葉月はハッと我にかえるや、姿勢を正した。
「葉月? あんた、被害者のこと知ってるの?」
皐月が尋ねると、葉月は夕方、浜路から聴いた話を皆に説明した。
「浜路ちゃんがね……」
皐月は複雑な表情を浮かべる。
「確かに、その浜路という女の子が言っていた通り、殺された三守怜子は犬嫌いだったという証言を得ています。近所で犬の鳴き声が聞こえると、騒音を起こしていたそうですから、犬を飼っている近辺住民から嫌われていたそうですよ」
大宮巡査がそう説明すると、「それじゃ、子犬を殺したのも?」
「でも、子犬が殺された公園と被害者のアパートは結構離れていて、特に騒音で訴えられていたという接点はないんですよね」
阿弥陀警部がうーんと唸りながら考える。
「目撃者は塾帰りの小学生。しかもそのほとんどが赤いレインコートの大きなマスクをした女性」
「大きなマスクですか?」
大宮巡査がそう言うと、皐月はどうかしたんですか?と尋ねた。
「いや、昨日現場から警視庁に戻る時、歩道で大きなマスクをした女性に職務質問したんですよ」
大宮巡査はそう言いながら、阿弥陀警部を見やる。
「あぁ、ちょっと見た感じ不審でしたし、時期的にもインフルエンザや、花粉が流行ってるわけでもなかったんでね。いますごく後悔してますけど」
その言葉に、三姉妹と拓蔵は首を傾げた。
「その女性の人、何かあったんですか?」
「いやぁ、どう説明したらいいかなぁ」
阿弥陀警部はああでもない、こうでもないといろいろ考え込む。
「スッキリせんなぁ、いったい何を見とるんじゃ?」
拓蔵が苛立ちを見せる。
「えっと、皆さん、『口唇口蓋裂』って知ってますか?」
そう訊かれたが、誰も頷かなかった。
「先天性の障害で、口に異常があるものなんですけど、鼻の下…… つまり、上唇がくっついていない障害なんですよ」
「ただ、この障害は本人が生まれてから成長するにしたがって、手術するんですけど、小学生を最後に女性は手術をしていないんです」
その言葉に、葉月は「どうして?」と、聞き返した。
「引っ越してるんです。両親の離婚で」
「つまり、手術費が出せなくなったということか?」
拓蔵がそう訊くと、阿弥陀警部は頷いた。
「女性の上唇は歪んでいて、顎もあまり綺麗ではなかったですね。おそらくその顔を見せないように大きなマスクをしていたんでしょうな」
「先天性とはいえ、きちんと手術をすれば治る病気じゃろ? それに国から保険金が下りるはずじゃろうが」
拓蔵がそう言うと、大宮巡査が首を横に振った。
「それが、女性を引き取った父親は保険を払っていなかったらしくて、保険証も何もなかったそうなんです。風邪とかになっても、市販されている風邪薬でやり過ごしていたそうですから」
保険証があるとなしでは、病院で簡単な診察をしてもらっただけでも、保険が降りないため、金を取られてしまう。その額は、雲泥の差ともいえる。
「あとその人、宝静暦っていうんですけど、『身体障害者手帳』を持ってたんですね。まぁ、口唇口蓋裂とそれに伴った軽度の言語障害をもっていたらしいですから、手帳を持っていても可笑しくないんですけどね」
「なんか納得してませんね?」
「つまり、女性が成人し、働くようになるまで、形成手術をしていなかったということなんですよ」
「恐らく、その宝静暦がマスクをしていたのは、素顔を隠すのと同時に、コンプレックスを隠していたからではないかという見解です」
「それがいつしか、みんなから『口裂け女』ってからかわれるようになっていた……」
葉月は阿弥陀警部と大宮巡査の説明を聞きながら、ウトウトと頭を揺らす。
霊視をした疲れからか、いつしか葉月は弥生の膝枕で眠りこけていた。
「でも口裂け女って、整形手術に失敗し、それを苦に自殺した女性の霊だって話でしょ?」
弥生が呆れたように言う。
「確かに、今でも整形手術で体を壊した人は何人もいるそうですからね」
「お前たちはそんなことせんじゃろうな?」
拓蔵が鋭い目で睨みつける。
「し、しないって。ただ……私の場合は、耳が聞こえるようになるんだったら、話は別なんだろうけど」
皐月が不安そうに言った。
皐月の耳は普通の人よりも若干衰えている。
そのことを知っている拓蔵や弥生、阿弥陀警部と大宮巡査は何も言えなかった。
皐月はこのまま成長しても、自分の身形に関しては後悔しないだろう。
しかし、耳が聞こえないとなると、少なからず人に迷惑をかけてしまう。
そのことが皐月にとっては不安であり、それと同時に、いつしかすべての音が聞こえなくなるかもしれないという恐怖心があった。
外から聞こえてくる雨音が、皐月の心情をうたうかのように、なんとも寂しげだった。