漆・鳴き声
夜中の土砂降りがすっかり晴れた朝方、薄暗い本殿にふたつの影があった。
そのひとつは皐月であり、坐禅を組んでいる。
もうひとつの影は拓蔵で、警策を持ったまま皐月のうしろをゆっくりと左右に歩いていた。
神社なので、本来お寺の修行をイメージさせる坐禅をするのはいかんせん可笑しいと思うが、精神を集中させるという意味では別にどこだろうと構わないというのが拓蔵の考えであった。
皐月が少し体を動かす(とはいえ普通の人から見れば動いた素振りすらないが)と、拓蔵はその警策を皐月の肩に当て、そして力強く叩き付けた。
ビシンという耳を劈く音が本殿に響きわたる。
「っつぅぅっ」
何回もされている事とはいえ、やはりこの痛みは慣れるものではない。
「どうした皐月、昨夜から気が乱れておるぞ?」
拓蔵にそう云われるが、心当たりが多過ぎる。
昨夜寝る前、阿弥陀から連絡が入り、先の被害者である間宮理恵の夫、間宮雄太が変死体で発見された事と、殺人の疑いがある女性二人は間宮雄太が殺された時間にはホテルにおり、出て行った形跡がない。
つまりその二人には徹底的なアリバイがあった。
もう一つ、間宮理恵の遺体の傍には姑獲鳥のものと思われる羽根が見付かっている。
だが田原医師の病院周辺を探してみたが、似たような羽根は見付かっていない。
そして皐月が一番気にしていたのは、子安神社の神主である咲川から訊かれた自分たちの両親に関することだった。
「今日の昼過ぎに阿弥陀くんたちが来るかもしれんから、無駄な迷いは捨てた方がいいぞ」
拓蔵はそう云うや、襟元を整え、本殿を出ようとしたところを皐月は呼び止めた。
「ねぇ、爺様? 私たちのお父さんとお母さんは……」
言葉を言い切るよりも先に、警策を床に叩き付ける音がけたたましく本殿に響き渡った。
その音に驚き少しばかり顔を俯けた皐月は、恐る恐る顔を上げ拓蔵を見遣るや、ゾクッと背筋に悪寒が走ったのを感じた。
拓蔵の表情はいつもの、飄々《ひょうひょう》としたものとは思えず、譬えるなら阿修羅のように恐ろしい形相と化していた。
「何度云えばわかる? お前たちの両親は事故で亡くなったといったはずだ」
「だ、だけど、それじゃぁっ! それじゃ、どうして私たち姉妹はお母さんやお父さんのことをひとつも……」
まるで聞く耳を持たないといった感じに、拓蔵はふたたび警策を床に叩き付けた。
「何度も言わすなぁっ! お前たちはショックで二人のことを思いだせんだけだ」
「何それ? 理由になって――」
皐月が叫ぶよりも先に拓蔵は皐月の眼前に顔を覗かせていた。
その余りの速さに皐月の目は追いつく事が出来ず、それどころか何時の間にといった感じだった。
そして皐月の頬に衝撃が走り、気が付いた時には本殿にある大黒像の下に転がっていた。
本殿には皐月しかおらず、打ち付けた背中の痛みを感じながら、不意に飾られている稲荷神の掛け軸を見るや、なにか得体の知れない視線にゾッとし、ふらふらと本殿を出た。
阿弥陀と大宮は稲妻神社にやって来るや、すぐに葉月に写真を見せた。
葉月の能力によって殺された間宮雄太の近くには一人の女性しかおらず、そのものが犯人だと特定出来た。そしてそのまま警察の調べによって、吉田美和子が犯人と見て取調べを行うと、彼女は犯行を認め任意同行した。
凶器はホテルの部屋で見つかり、ホテルのチェックインで偽名を使っていた事も明らかにされた。
あまりにテンポのよいスピード解決に三姉妹はもちろん、拓蔵と阿弥陀はまるで仕組まれている感がして否めなかった。
「ど、どうしたんですか皆さん? 事件は無事に解決したんですよ?」
大宮があたふたとそう云う。
「大宮くん? 可笑しいとは思わんかね? たしかに任意同行していった吉田美和子は間宮雄太の犯行に関しての供述をしてはいるが、最初に殺された妻の間宮理恵に関しては何も云ってないんでしょ?」
阿弥陀が云うように、連行された吉田美和子の供述には不自然な点が多い。
夫婦殺害を目的にしていたとしたら、その妻を殺したのも同一人物という可能性がある。
しかし先日葉月が感じたものは腹の中の胎児が自ら出て行ったようなものだった。
ましてやその時間帯に対して女性は実家にいたと供述しているし、それを裏付けるように第三者の他人が女性を見ていると云っているためアリバイが成立している。
「それで、その女性はどう云ってるんかな?」
「たしかに間宮雄太を殺したのは自分だと――」
阿弥陀の言葉を待たず、スッと皐月は立ち上がる。
「――どうした?」
拓蔵がそう尋ねると、「えっと……ちょっとトイレ……」
そう言いながら皐月はお腹を摩っていた。「そうか……」
一言云うや、拓蔵は阿弥陀と話を進めていた。
皐月が腹部に違和感を感じ始めたのは間宮理恵が殺された頃からだ。
そしてどういうわけか間宮理恵の話を聞くと、まるで反応するようにお腹の中から違和感を感じていた。
――これって……どういうこと?
皐月が自分のお腹を戦くように見つめた時だった。
「それでは私たちはこれで――」
居間の方で阿弥陀が別れの挨拶しているのが聞こえる。
「今回も捜査のご協力ありがとうございました」
そう云うや、阿弥陀たちは玄関の方へと去っていく。
途端、皐月は腹部に今まで感じた事がないほどの激痛が走った。
あまりの痛みに、皐月は耐え切れなくなりその場に崩れそうになる。
例えるなら、そうだ。出産の時に感じる死の境界線。
その痛みで、皐月は何かに気付く――。
――間宮理恵はたしかに誰かに殺された。だけどそれはどうやって? 刺殺だったとしたら中の子供は? 刺した場所が運悪く子宮を貫いていたら? 子供はさらわれたんじゃなくて、もとからいなかったんじゃ?
皐月はふと悟帖ヶ山で確認したかった事を思い出した。
「阿弥陀警部っ! 間宮理恵が殺された現場は隈なく探したんですか?」
「えっ? えっと、はい。鑑識の話だと……それがどうかしましたか?」
「杜若というのは野草なんです。つまり、間宮理恵は腰を屈ませないと触れる事なんて出来ない。妊婦が屈むってのはそれだけでも相当疲れるみたいで、その場に杜若があるからっていくらなんでも触ろうとは思わない!」
「つまり間宮理恵は殺された後、帝王切開されたというのか?」
「それに……間宮理恵の胎内に子供はもう――」
皐月がその先を言おうとした時だった。
突然、神社の大鈴が鳴る音がした。耳の悪い皐月でもその音が聞こえるほどの大きな音だ。
「誰か参拝客でも来たのかしら?」
弥生がそそくさと様子を疑いに出た。
――一、ニ分ほどして弥生が戻ってくるや、「皐月、あんたにお客さん……なんか返してほしいって」
その言葉に皐月は首をかしげた。
「とにかくすぐに出て。なんかすごい怒ってるみたいだし」
言われるがまま皐月は境内に出ると、その客人を探すが、夕暮れになっていくにつれ、周りは薄暗くなっている。
「弥生姉さん、客なんてどこにも――」
そう弥生を呼ぼうとした時だった。
皐月の上空だけが異様なほどに真っ暗になるや、途端に腹部に痛みが走った。
その痛みに耐え切れずその場に跪く。
皐月はゆっくりと上空を見上げるや、そこにいたのは“人”だった。
その形状は両腕が羽根のようで、鳥といってもいい。
「――皐月っ!」
異常を感じて外に飛び出してきた弥生を見つけると、鳥人間は片腕を振るうや羽根が投げ付けられ、弥生を衣服もろとも壁に磔にされた。
「な、なによ? これぇ」
じたばたと足掻くが、羽根に強力な妖気が纏われており身動きが取れないでいる。
「――弥生姉さん!」
皐月が弥生に近付こうとした時だった。
「かえして――」
鳥人間が皐月にそう告げた。
「かえしてって、なにを? 私はあなたにものを借りた覚えは――」
「くぅかぁえぇしぃてぇえええええええええええっ!!」
怒声をあげるや、鳥人間は皐月に襲い掛かった。
「だからぁっ! ものを借りた覚えは」
皐月は痛みが走る腹部を庇いながら、襲い掛かる羽根の群れを避け続ける。
「――――っ!」
その痛みが激しくなり、耐えられなくなった皐月は転倒し、その衝撃で嘔吐する。
「かえして……私の子供……わたしの……」
鳥人間はふらふらと飛びながら皐月に近付いていく。
「皐月っ! あんたこの人に恨みでも買ってるんじゃないの?」
「買ってるわけないでしょ? でもなに? 子供って……」
皐月がそう云った時だった。腹部に走っていた痛みが和らぎ、間一髪皐月は体勢を整えて鳥人間から間合いを離した。
しかし再び痛みが走り、耐え切れずに屈むや、羽根の群れはまるで避けるように逸れていく。
まるでお腹に感じる違和感が自分を守っている事に気付き、皐月は腹部の痛みが何を意味していたのかを知る。
いや、もしかしたら最初から教えていたのかもしれない。
「皐月お姉ちゃん! これっ!」
拝殿の方から葉月が大声で叫ぶや、二本の竹刀を空へと放り投げた。
鳥人間の狙いが皐月から葉月へと移り、羽根の大群を葉月へと仕向けた。
その群れに隙間はなく、避けきれないとわかるや葉月は思わず目を瞑った。
「吾神殿に祭られし大黒の業よ! 今ばかり我に剛の許しを!――護形・護光の袋」
葉月の眼前には二本の刀を×字に構えた皐月が立っており、二人の周りには柔らかな光がまるで袋の様に二人を降り注ぐ羽根から護っていた。
「――皐月お姉ちゃん」
「葉月、危ないから爺様のところに逃げて」
葉月はそう云われるや、素直に拓蔵の下へと逃げていく。
それを見るや皐月は鳥人間を睨みつけ、「あんたは私が子供を奪った。そう思ってるだろうけど…… そもそも! あんたの子供なんて知らない!」
ゆっくりと剣先を鳥人間に向け言い放った。――その言葉に鳥人間は怒号をあげる。
「間宮理恵が殺された時、彼女は杜若に触れようとした。だけど今さっきまでその痛みを体験した私なら理解出来る! 殺された間宮理恵は死ぬ間際に杜若に触れている」
そう云うや、鳥人間は含み笑いを浮かべる。
「人間が子を孕み産むまでの期間は精々九ヶ月前後。十ヶ月なんて掛かっていなかった」
「ちょっと待ってください。たしか、田原医師から間宮理恵の妊娠期間は十ヶ月だと。その事はその場にいた皐月さんだって――」
「通院した形跡は?」
「――え?」
「間宮理恵が妊娠十ヶ月の間、田原先生のところに通院したのかって訊いてるんです。いくらなんでも十ヶ月も子を孕んでいたら田原先生はおろか当の本人だって違和感を感じる――この子は生きてるのかって……」
皐月はあの晩に見た赤く爛れた赤ん坊を思い出していた。
「間宮理恵は中にいた子供が死んでいた事に気付いていた……。だから子安神社に行って子安神にお参りに行っていた」
「嘘よ……理恵のお腹をかっ裂いて! 中を見た! その子は元気に動いてたわ」
鳥人間は目の視点をあわせずに話す。
「間宮雄太がどれだけ酷い男だったとしても、それはあんた達が決める事でしょ?」
「あんたになにがわかるのよ? 捨てられた女の!」
「ええ! 全然っわかんないわよぉ! そんなことをしてまで子供を得ようとする気持ちなんてっ!」
皐月は怒号をあげ、鳥人間を睨みつけた。
「あんたのその歪な形状は『姑獲鳥』といって、他人の赤子を奪う妖怪。でもそれは生まれてきた子供に対してで、決して胎児を奪う事はない! あんたのやった事は難産で子を抱けずに姑獲鳥と化した母親たちに対しての、そして間宮理恵に対しての冒涜なのよ!」
皐月はうっすらと涙を流した。
死んだ妊婦をそのまま埋葬すると“姑獲鳥”へと変貌してしまうため、呪いとして帝王切開をし、まだ“人間としてなっていない”胎児を取り出し、その胎児を抱かせながら埋葬する。
「それがなぁに? 私の恋人を奪おうとする女狐どもが雄太の子を孕めば殺すのが当たり前でしょ? だって彼は私のもの! 私のものなんだからぁ!」
鳥人間はそう叫ぶや羽根を大きく広げ、皐月を覆い隠す。
「二刀・穢死魔」
皐月は、静かに刀を振るった。
「ぎがぁ?」
途端、姑獲鳥の表情が崩れる。
「私はまだ、本気で男性を好きになった事がないから深くは考えられないけど、あんたの気持ちがわからないわけじゃない。……でもね――」
皐月は血に染まった二本の刀を振るい、血払いをする。
「大切な人をものだと云ってる時点で、あんたはその人を必要としてない」
「な、何を?」
鳥人間の骸はふたつに分かれ、左右に倒れ落ちた。
「閻獄第二条三項において、人のものを奪い、剰さえ苦しめ殺したものは『黒縄地獄・畏鷲処』へと連行する」
そう皐月が言うや、どこからともなくお札が落ちてきては、鳥人間の額についた。
「――待って、ねぇ? 待って!」
鳥人間が赦しを請うが、皐月は見向きもしなかった。
その表情は禍々しく――まるで鬼女のようであった。
漆と捌をひとつにまとめました。