肆・強請
「引越し前だった?」
阿弥陀警部と大宮巡査が、遺体が発見されたアパートの住民に聞き込みをしていた時である。
「ええ、今週の終わりくらいに引っ越すといってましたよ」
話しているのは被害者の隣部屋に住む、四十代の男性である。
「失礼ですが、被害者が殺された時間、あなたはどこに?」
「会社にいましたよ。残業がありましたからね。あ、アリバイですか? アリバイは会社のタイムシートに記入されていると思いますし、私が働いているところって、ここからだと電車で三十分以上はかかるんですよ」
詳しく調べると、確かに男性は三守が殺された日は会社で残業しており、帰ってきたのは今日の午前様である。
被害者の身元は三守怜子に間違いなく、殺された時間は、午前十一時から十二時の間と判明した。
その時間内、アパートに住んでいる住民に聞き込みをしているのだが――
「睡眠薬ですかね?」
大宮巡査が車の運転中、そう話をする。
「でも、薬物反応は出ていなかったし、死因は胸を一刺しされた出血多量によるショック死と判明してるでしょ?」
遺体の顔の皮が剥がされているため、そちらに目が行ってしまうが、死因は胸を刃渡り十五糎の包丁で一突きされていると考えられている。
「つまり、犯人は被害者を殺した後、顔の皮を剥いだってことですか?」
なんともまぁ狂ったことをと大宮巡査は続けた。
「被害者は誰かに恨まれてたんですかね?」
「あんなことをするくらいですから、よほどでしょう」
ふと、助手席に座っていた阿弥陀警部は、目の前で歩道を歩いている人影に目をやった。
人影は腰まで伸びた黒髪に、赤い雨合羽を着ている。
こんな晴れた日に?と阿弥陀警部は首を傾げながら、「大宮くん、ちょっと車をゆっくりにしてもらっていいですかね?」
そう言われ、大宮巡査は首を傾げたが、言われた通り、車をゆっくりと走らせる。
車は人影と並行し、過ぎ去っていく。
そして、阿弥陀警部はカーミラーで人影を確認すると、「大宮くん、ちょっと停めてください」
そう言われ、大宮巡査は車を停めた。
「すみません。ちょっといいですかな?」
阿弥陀警部は車窓を開けると、そこから顔を覗かせ、女性を呼び止める。
「えっと、なんでしょうか?」
女性は不安そうな表情を浮かべながら尋ねた。
「いやいや、決して怪しいものじゃないですよ。わたし、警視庁の阿弥陀と申しましてね。ちょっとあなたを見てたら気になったので」
阿弥陀警部が笑いながら警察手帳を取り出して言う。
女性は「はぁ」と首を傾げる。
「失礼ですけど、お名前は?」
「宝靜暦ですけど――」
女性――宝靜暦がそう言うと、阿弥陀警部は身分証明書を見せてくださいと言った。
宝靜は自分のバッグから赤い手帳を取り出し、それを阿弥陀警部に渡すと、「拝借します」
と言って、阿弥陀警部はその手帳を見た。
『身体障害者手帳』と書かれた手帳の裏には女性の顔写真が貼られている。
その写真に写った宝静は、マスクをつけていなかったが、普通の人よりも明らかに何かが違っていた。
阿弥陀警部は少しばかり躊躇いながらも、「すみませんが、そのマスクを外してくれませんかね?」
そう言われ宝靜は少しばかり躊躇ったが、やがて覚悟し、耳にかけた紐に手をやると、ゆっくりとマスクを外した。
そして、曝された素顔を見て、阿弥陀警部と大宮巡査は絶句した。
「もういいですか?」
宝靜がそう言うと、阿弥陀警部は我にかえるや、「え、ええ。すみません。無理なことをさせてしまって」
そう言うと、阿弥陀警部は宝靜に手帳を返す。
「いえ、この前も同じことをされましたし、普段からこんなマスクをしてますので、よくおばけだってからかわれて、もう慣れてるんです。この前だって……」
宝靜は少しばかり顔を俯かせたまま、マスクを付け直した。
そして阿弥陀警部と大宮巡査に会釈すると、そのまま歩き始めていった。
「あ、阿弥陀警部?」
「顔が半分まで隠れたマスクでしたから、一見では怪しいと思ったんですけど、ちょっと失礼なことをしてしまいましたね」
「ちょっとどころじゃないと思いますよ。でも、あの女性、いったいどうしてあんな風になったんでしょうか?」
「大宮くん。ちょっとあの女性について調べたほうがいいかもしれませんね」
そう言われ、大宮巡査は首を傾げる。
「すこし気になるんですよね」
阿弥陀警部はそれ以上何も言わなかった。
「信乃やぁ、信乃ちゃんやぁい」
信乃の祖父である鳴狗寺の和尚が、母屋の中を探し歩いている。
「おう、小坊主や、信乃は知らんかえ?」
厨房で食事の準備をしていた修行僧に和尚は信乃の行方を尋ねた。
「信乃ちゃんでしたら、自分の部屋にいるんじゃないんですか?」
「そう思ったんじゃがな、部屋におらんのじゃよ。どこかに行くとは思えんし、携帯にもでらんからなぁ」
和尚が呆れた表情を浮かべる。
「ああ、確か駅前の本屋で新刊が出たから、それを買いに行ったんじゃないんですかね?」
台所に入ってきた別の修行僧がそう言うと、「新刊?」
と、和尚は尋ねた。
「ほら、最近TVでドラマ化されたまんがの新刊ですよ」
そう言われ、和尚は首を傾げた。
「中学二年にもなって漫画か? 来年は受験生じゃぞ?」
「いやいや、和尚さま。最近のまんがは侮れませんよ。私も読みましたけど、けっこういいものでしたよ」
そう言われ、和尚は少しばかり読んでみようかと思った。
――その信乃は修行僧の言う通り、福祠駅の近くにある書店の前で、先ほど買ったマンガ本が入った紙袋を手に持って、家路に付こうとした時だった。
「やーい、化け物!!」
目の前から子供の声が聞こえ、信乃はそちらを見やった。
「やーい、口裂け女! 口裂け女っ!!」
小学生くらいの男子二人が、からかうように女性に声をかけている
女性は反論せず無視していた。
「そのマスクの下って、口が耳まで裂けてるんだろ? ほら、裂けてねぇんなら証拠見せろよ」
女性の表情は平穏であったが、体が震えている。
それに見かねてか、信乃は徐に口笛を吹いた。
すると、周りから犬の唸り声が聞こえ始め、二匹の大型犬が小学生の前に、ゆっくりと歩み寄ってくる。
「な、なんだよ。こ、こっち来るなよ」
小学生が後退りしていくと、「ウワァオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオンッ!!」
と、二匹の犬は大声で吠えた。
小学生二人組はその咆哮に驚き、涙を浮かべながら、一目散に逃げていった。
女性は獰猛な二匹の犬が近くにいても、あまり驚きはしなかった。
「口裂け女は犬が嫌いって云うけどね?」
信乃はそう言いながら、女性に近付く。
「あ、あなたは?」
女性――宝靜がそう尋ねたが、信乃は大型犬の一匹に近付いた。
「あ、あなた、あぶないわよ」
宝靜が止めにはいったが、「大丈夫。この子達は怖くなんてないから」
そう言いながら、信乃はゆっくりと犬に手を差し伸べた。
「くぅーん」
と、力のない鳴き声が聞こえた。
その声を発しているのはほかでもない、さきほど唸り声を挙げた二匹の大型犬である。
その二匹は頻りに尻尾を振っている。
「ごめんなさいね。ほら、飼い主のところに帰りなさい」
そう言うと、信乃が口笛を吹くと、二匹の犬はまるで何こともなかったかのように、飼い主の元へと帰っていった。
「も、もしかしてあなた……あの子達を操ったの?」
宝靜がそう尋ねると、「私きれい?とか言って、脅してしまえばいいのに…… 黙ってると余計付け込むわよ、ああいう何も考えてないバカは」
「もう慣れちゃったから、云うのも面倒になっちゃってね」
宝靜は諦めた様子でそう言うと、信乃は少しばかり表情を曇らせた。
「どうかしたの?」
「あなた、ここ最近、子犬を失ってない?」
そう尋ねられ、宝靜は少しばかり驚いたが、答えるように頷いた。
「そう。でも、その子、あなたのこと好きだったって云ってるわよ」
信乃はそう言うと、鳴狗寺へと帰っていった。
そんな信乃を宝静は驚いた表情で見送っていた。