陸・執念
現場検証をしている最中ポツポツと雨が降り始め、小一時間後には暴雨と化していた。
そんな中阿弥陀は口を押さえながら遺体を見下ろしていた。
長年の経験と死体を見続けているという職業病からか死体を見たとしても吐き気を催すことはまずない。
しかしそれでも口だけは抑えさせてくれと懇願したくもなっていた。
それもそうだろう。遺体の形状は見るに無残の他ないのだから。
「――っ!」
阿弥陀は人目を憚らずに舌打ちをし、何もここまでしなくてもという憤りを感じていた。
遺体が身につけていた上着から見つかった財布から先の被害者である間宮理恵の夫、間宮雄太と判明したが、身元が判明するものがなければ病院で報告を受けたさいに被害者の名前は出てこなかっただろう。
被害者の左肩近くの首下から腰までを赤い線がひかれ、その切り口から内臓が食み出ている。
さらに胃の中も切られており中のものを取り除かれていた。
被害者の死亡推定時刻を推測するさい、遺体の形状以外に胃の中にある食べ物の消化傾向により死亡推定時刻を割り出すことが出来る。
もちろんこれは被害者が何時食事をしたのかということを知る必要があるが、基本的に三時間もあれば胃の中の食べ物は消化されると言われている。
その事を知っていたとしても、これほどまでに非人間的な事が出来るのだろうか……
間宮理恵の件もそうだが犯人は何故このような殺害をしたのだろうか――と阿弥陀警部は考えていた。
「大宮くん、被害者が最後に連絡を取り合っていたのは何時頃かわかりますかね?」
阿弥陀はそう云いながら大宮を見遣るが、大宮は期待を裏切るように首を横に振った。
間宮雄太の携帯が見つかっていたのだが、キーロックされておりすぐには解明出来ない。
無論そのパスワードを知っている人間はもういない。
「被害者が今日何をしていたのかその聞き込み。ならびに勤めている会社と女性関係も」
「――はっ!」
阿弥陀の号令とともに警官たちが敬礼をし散らばった。
皐月が弥生に頼まれた買い物が牛乳とニンジンだったことから、夕食はシチューだった。
その食事を済ませるや、弥生は夕食の後片付け、葉月は卓袱台の上で宿題、神主である拓蔵は社務所で事務の整理をしている。
そんな中、遅く帰ってきた皐月は湯船に浸かりながら湯気で曇った天井を眺めていた。
皐月はどうして被害者が子安神社への山道で杜若に触れたのかを確認したかった。
杜若は野草なので屈まなければ触れる事は出来ない。屈むということは必然的にお腹を背中で覆い隠す形になる。
つまり帝王切開紛いな事をして殺したのなら、被害者を仰向けにする以外に方法はない。
どう殺したかはさておき、想像したくないものを想像したものだから、皐月は顔半分をお湯の中に沈めた。
姑獲鳥はたしかに子を奪う妖怪と云われている。
しかし子宮を裂いてまで子を奪うのだろうか……。
違和感を感じたお腹を診てもらうために病院へと行っていた丁度、阿弥陀が田原医師に被害者の事を訊ねに来ていた。
その時皐月は自分の口から“鬼子母神”の話をしている。
元々鬼女である鬼子母神がどうして安産の神となりえたのか、それは彼女が人間の子をさらっていた理由として自分の子に食べさせていた事にある。
その戒めとして釈迦が鬼子母神の子供一人をさらうと、彼女は慟哭し血眼になって子を捜したという。
その事から子をさらわれていた母親たちの気持ちが今の自分と同様だった事を知り、彼女は改心したと伝えられている。
余談であるが、釈迦が二度と彼女に子をさらわせない様に与えたものが柘榴と云われており、一説によると人肉に似た味とされている。
考えてみたら都合のいい話ではあるが、姑獲鳥も難産のために子を抱けなかった悲しさが権化としたものだと云われている。
そう考えながら皐月は、姑獲鳥が母親と父親の面影を知らない自分と重なっていた。
どちらも“母子”というものを知らないのだから――。
「皐月ぃっ! 携帯鳴ってるわよ」
脱衣所の方から弥生の“大きな声”が聞こえ、皐月は返事をしながら浴室を出た。
脱衣所を見るや、すでに弥生の姿はない。どうやら通り過ぎようとした時に電話が鳴ったようだ。
脱いだ衣服の下敷きになった携帯が騒がしく鳴り響いている。
「はい。もしもし……」
「あ、皐月ちゃん?」
声の主は田原医師だった。「先生? あ、そう云えば家に電話したって弥生姉さんから」
そう伝えると田原医師がまるで躊躇うような口調で話し始めた。
「皐月ちゃんがどうしてあの時、姑獲鳥を疑わなかったのか――憎悪によって妖怪となった人間を罰する事があなたたち姉妹の役目だって事は知ってるけど、でも皐月ちゃんは姑獲鳥自体を疑っていなかった。その理由を訊きたいの」
そう云われても、皐月自身どうしてそう思ったのかという確信が出来ていない。
ただあの夜、爛れた赤子を抱いた女性が“姑獲鳥”のように見えたことと、診療室にいた時外で鳥が羽ばたくような音が聞こえたことを説明しようと思ったが、皐月はその事を話さなかった。
「――それじゃ薬はちゃんと飲んで、体はちゃんと休ませること」
「はい、わかりました」
そう云うや電話は切れた。
皐月は音のしない携帯に耳を傾けながら、違和感を感じるお腹を摩っていた。
「すこし、太ったかな?」
短い針が午後十時を指した警視庁捜査本部。
その部屋に設けられている長テーブルの上には大量の書類が乗せられていた。
それらすべてが殺された間宮雄太の女性関係によるものなのだから――正直呆れる。
女性関係がよくなかったのは前々からわかっていたのだが、これほどだったとはと警官たちは口々に出していく。
間宮雄太が女性と付き合っていた時期なんて変わり変わりの入れ替えで、とても結婚していたとは思えない。
二股ならまだしも、五股なんてのもざらで、酷いものなら孕めた子をおろさせるなんて事もあった。
これでは女性関係の縺れによる犯行理由ならば、誰に殺されても可笑しくはない。
「これ全部のアリバイを調べるんですか?」
少なくとも二十人以上の関係を持っている間宮雄太を殺したのは一人だとしても、それら全員のアリバイを調べるのは苦難である。
しかも間宮雄太が殺された時間帯は今日の午後二時前後として、その周期でのアリバイがない事を確定しないと任意同行すら出来ない。
「打つ手はないですかねぇ?」
そう云いながらも阿弥陀は若い警官たちに発破をかける。
容疑者が二十人もいるとしたら捌ける方法として、その時間以前に被害者が殺された周辺にいたのかという事にある。いくらなんでも全員が同じ町にいるとは限らない。
「二十人全員の勤め先、ならびに学生でしたら学校も……」
そう云うと、警官たちは翌日明朝から各自のアリバイを調べる事にした。
その中で間宮雄太が殺された時間帯で同じ町にいた女性が二人ほど上がり、一人の名は西条祐子。もう一人は吉田美和子という女性であったが、彼女たちにはそれぞれ違うホテルに泊まっており、チェックアウトをしなければホテルに出られないためアリバイがあった。