弐・魔女の一撃
魔女の一撃;ぎっくり腰の別称。(独: Hexenschuss)
巫女装束を纏った弥生は、稲妻神社の職員巫女たちと一緒に境内を掃除していた。
「ふぅ」と背筋を伸ばしながら、巫女の何人かが額の汗を拭っている。
「それじゃ、後は倉庫の整理するから、みんな来てください」
パンパンと柏手を打ちながら、巫女の総指揮を勤める棗芭翠がそう言うや、他の巫女たちが母屋の裏にある倉庫へと移動する。
倉庫の中には、神社の行事に使う道具や、破魔矢を作るた目に必要な矢竹や、矢羽を作るための鷹の羽根が保管されており、薄暗い小屋の中に四、五人入っては、道具が入れられた箱を外に出していく。
「弥生ちゃん、ちょっとこっちきて」
奥のほうから職員巫女である瑚米香澄が弥生を呼ぶ声が聞こえ、弥生はそちらへと歩み寄った。
「なんですか? 香澄さん」
「ちょっと、この箱運びたいんだけど、そっち持ってくれない?」
そう言われ、弥生は香澄と向かい合わせになり、箱を持とうとすると、「うわ、重っ」と口に出した。
「それじゃ、いくよ。いっせーっ、の、が、せっ!」
掛け声とともに二人が同時に箱を持ち上げると、ズシンと箱の重みが全身に圧し掛かった。
「これ、いったい何が入ってるんですかね?」
弥生がそう尋ねると「わからないけど、多分神楽太鼓とかじゃないかしら?」
香澄が苦しそうに答える。
それにしても重たいと、弥生は愚痴を零した。
外に出ると、箱をゆっくりと地面に置いた。、
「箱の中はっと…… あ、やっぱり神楽太鼓だわ」
箱の中身を見るや、香澄は肩を落とした。
箱の中には大小様々な太鼓や、神楽鈴、扇が入れられている。
稲妻神社での神楽は、巫女神楽と云われるもので、この中に入っている道具以外に、榊や笹、幣を使うのだが、先の二つは季節によって使う時期が違い、幣に関しては神楽をする前日に巫女の手によって作られる。
「矢竹の分別と、道具の手入れ。来月には五穀豊穣の願懸けにくる農家の人がくるから、間違いのないようにね」
翠がそう言うと、箱の中から道具を取り出し、職員たちが道具の数を照らし合わせたり、神楽に使われる楽器の手入れを始めた。
「そういえばこの前、神社にお参りに来たカップルがいたんですけど、一週間後にはわかれたそうですよ」
職員の一人がそう話す。
もともとこの稲妻神社には、御神籤をひく場所はあっても、お守りを売っている場所はない。
それでもこうやって職員を養っていけるのは、五穀豊穣や、神前結婚式などで臨時の収入が出来るからである。
祭っているのは稲荷神である倉稲魂神であるが、もうひとつ祭っている大黒天は田の神としてではなく、元々印度神であった大黒が、日本に仏教の神としてきたさい、同じ読み方が出来る大国主(大黒=大国ということから)がもつ縁結びの力を得ているため、カップルがお参りに来ることも多い。
ただし、人の縁には良し悪しがあり、そのカップルが分かれたのも、また縁ということである。
そんなことをしながら、朝十時くらいから始めた神社の掃除が終わったのは、午後三時を過ぎた頃であった。
「弥生ちゃん、どうかしたの?」
職員巫女たちが社務所に戻ろうとしていた時、軒下で腰をおろしている弥生に香澄が声をかける。
「か、香澄さん、ちょっと手を貸してくれない?」
そう言われ、香澄は首を傾げた。
「ちょっと、久しぶりに体動かしたから、腰が……」
弥生は苦しそうな表情を浮かべながら、手を差し伸べる。
「少しは体動かしたほうがいいわよ。若いからって体を動かしてないと、お婆さんみたいになるから」
そうは言うが、香澄は弥生よりも倍は生きている。
「あ、香澄さん、ちょっと、ゆっくり……」
弥生がそう言うや前に、香澄が力いっぱい弥生の手を引っ張ると――
ゴキッと、何かが折れる音が聞こえ、弥生は力なくうつ伏せに倒れた。
「あ、あぁ……」
「あ、ごめん」
香澄が謝りをいうが、あまりの痛みにそれどころではない弥生であった。
「それでぎっくり腰になっちゃったわけだ」
居間の卓袱台に頬杖をつきながら、皐月が呆れた表情で、うつ伏せになっている弥生に尋ねた。
福詞中学校が夏休み中の授業日だったため、皐月は制服のままであった。
「ごめんなさいね、私が急に引っ張っちゃったから」
香澄はそう言いながら、厨房の冷蔵庫に入っている湿布薬を持ってきた。
そして、うつ伏せになった弥生のシャツを捲り、腰のところに湿布薬を貼った。
「別に香澄さんのせいじゃないですよ。普段から運動しない姉さんが悪いんですから」
「あんた、来月の小遣い減らすから」
弥生が呻き声を挙げながら、皐月に言った。
「それじゃ、私は帰るから」
香澄が居間の隅に置いていたバックを肩にかけ、居間を出ようとする。
「すみません、香澄さん。職務時間終わってるのに」
皐月がそう謝ると、香澄は笑いながら、
「いいのよ。あ、そうだ」
何かを思い出したのか、香澄はバックからチケットを取り出し、皐月に手渡した。
「これ、私の知り合いからもらった温泉スパの無料招待チケット。そこに腰痛に効くお風呂もあるから、行ってみるといいわよ」
「まぁ、体が動けるようになったら行ってみます」
弥生がそう言うと、香澄はクスッと笑いながら、
「そうそう、そこにすごい腕のいいマッサージ師がいるらしいわよ」
そう告げると、香澄は神社を後にした。
「えーと、有効期限は今度の土曜日までかぁ」
皐月は受け取ったチケットを見ながら呟くと、鳩時計が五回鳴った――午後五時である。
「姉さん、夕食どうする?」
「あ、あんたねぇ…… この状態で料理作れとか酷なこと云わないでよ?」
そう言いながら、こういう時に瑠璃さん来てくれないかなぁと、弥生は思った。
とある喫茶店の隅に置かれたテーブルに、拓蔵と瑠璃が向かい合わせで座っている。
拓蔵は険しい表情を浮かべながら、コーヒーを飲んでおり、瑠璃は怯えた表情を浮かべながら、一言口に出そうとすると、拓蔵の鋭い眼光に戦き、口を出せないでいた。
立場上、瑠璃のほうが上なのだが、瑠璃の幼い容姿は傍から見れば、厳格な祖父が孫に説教をしている状況に他ならない。
「別に、瑠璃さんの責任じゃないでしょ?」
「そ、そうですけど。でも、無間地獄から抜け出すこと自体が異例ですし、皐月が襲われたのだって」
皐月が鴉天狗に襲われてから、四日経っている。
「それにあの子の力になっているはずの毘羯羅が行方不明になって」
「まぁ、瑠璃さんがもつ治癒能力をあの子は血筋として持っていたから、大事には至らんたったがな……」
そう言いながら、拓蔵は険しい表情を浮かべた。
「しかし…… どうしてその鴉天狗は皐月を殺さなかったんじゃろうな?」
そう言われ、瑠璃は顔を俯かせる。
「アレだけ体中に切り傷を負わせておいて、致命傷になった傷はひとつもない」
「言われてみれば確かにそうですね。私の真言を教えているとはいえ、海雪の報告ではまったくもって扱えていないようですし、鴉天狗にとっては赤子の首を捻るも同然でしょう」
瑠璃の言葉に、拓蔵は考え込む。
「閻魔さま」
海雪が因達羅とともに、拓蔵と瑠璃の近くに歩み寄る。
「何かわかりましたか?」
「いえ、鴉天狗に関することは何も…… 私の部下である夜叉も他の十二神将と一緒に探させてはいますけど」
因達羅が申し訳ないように言う。
「七千もの夜叉を使ってもわからんとなると、こちらにいるかどうかもわからんな」
「やはり、拓蔵さまもそう思われますか?」
「どういうことですか? 拓蔵」
瑠璃がそう訊くと、
「あんたたちが血眼になって探していて見つからないとすると、こっちにいるかどうかも怪しいだろ?」
「力を消すことも出来る。もしくは人間に成りすましているということですか?」
因達羅がそう尋ねると、拓蔵は頷いた。
「そうなると、かなり厄介ですね。力を察知されないほどに溶け込んでいたとしたら、こちらも迂闊には手を出すことが出来ない」
瑠璃は少しばかり考えると、
「因達羅、摩虎羅に連絡を入れ、彼に調べてくれるようお願いできないか聞いてくれませんか?」
そう云われ、因達羅は少し戸惑った表情を浮かべたが、
「わかりました。すぐに二人を探し出し、協力してくれるか訊いてみます」
そう言うや、因達羅はスーッと姿を消した。
拓蔵は瑠璃と海雪を見ながら、
「摩虎羅も大変じゃな。従者とはいえ、あんな男と一緒に、こっちでずっと探偵業をやっとるんじゃから」
「彼にとっては、暇潰しなんでしょうけどね。それに、出来れば私は会いたくないんですけど。仕事ですから仕方ないですよ」
瑠璃は頬を膨らませながら、アイスコーヒーに角砂糖を4つ入れた。
「え、閻魔さま? 入れすぎじゃ」
海雪が驚いた表情でそう言うと、
「なぁに、大丈夫じゃよ。それに皐月の甘党もそうじゃが、遼子も同じじゃったな」
拓蔵が笑いながら言う。
「まぁ、一応似てるってことですか?」
海雪は呆れながら瑠璃を見る。
そして、何かを思い出すかのように目を細めた。
「海雪、どうかしましたか?」
瑠璃にそう尋ねられ、海雪はハッとした表情を浮かべると、頭を振った。