玖・羽音
「それでは、円谷なおみを署まで連行します」
「はい。一応傷害事件ですから、それなりの処罰は受けてもらいますよ」
パトカーは警視庁へと走っていった。
「結局、爆弾は見つからなかったか」
阿弥陀警部は時計を見た。時間は午後十時を回っている。
イベントも終了し、結局爆破予告はデマだったとホッとした時だった。彼の携帯が鳴り響いている。
「っと、もしもし」
『あ、阿弥陀警部、お疲れ様です』
声の主は吉塚愛である。
「ああ、愛ちゃんお疲れ様です。どうかしたんですか?」
『今、通報がありまして、阿弥陀警部たちがいるイベント会場の近くに廃ビルがあるんです。そこに――』
月明かりのない闇世の中、その部屋には数名の警官と鑑識官が、部屋の捜索をしていた。
証明に照らされたその肉塊を見るや、湖西主任は顔を歪めていた。
「湖西主任―― こ、これって、ひ、ひと……ですよね?」
鑑識官の一人がそう尋ねる。いや、彼自身、目の前にある肉塊が人であることは理解していた。
しかし、この凄惨なる状況が理解出来なかったのだ。
「無数の膨れた痕に蕁麻疹…… スズメバチにでもやられたとみていいかもしれないな」
「ですが、いくら探しても蜂の巣なんてありませんよ。こんな風になるには、少なくとも百匹以上は飛んでいないと駄目なんじゃないんですか?」
「いや、蜂の毒針はミツバチを除いて、いくらでもさせますからね。でも、これは確かに数匹でやったにしては数が多すぎる」
その膨れ方は異常で、まるで空気を入れたかのように膨れ上がっている。
「こ、湖西主任! 遺体の身元が判明しました」
震えた声で、鑑識官が遺体のポケットに入っていた財布を湖西主任に渡した。
「『若杉璃音』?」
湖西主任が財布を見ていた時だった。
誰かが階段を上がっていく音が聞こえてきた。
「皆さん、ご苦労様です」
「阿弥陀か? そっちはどうじゃった?」
湖西主任がそう尋ねると、
「いや、こっちは無事にイベントが終わりましたよ。ところで遺体は」
「それより、西戸崎を呼んでくれんか? ちょっと困ったことになってしまってな」
「どうかしたんですか?」
阿弥陀警部は首を傾げながら尋ねる。
「仏さんの身元がわかったんじゃよ。若杉璃音、西戸崎が追っていた事件の容疑者じゃ」
「誰かに殺されたんですか?」
阿弥陀警部がそう言うと、湖西主任は怪訝な表情を浮かべた。
「人間の仕業かどうかは、みればわかるよ」
そう言われ、阿弥陀警部は若杉璃音の遺体を見た。
「これは―― いったいどうやって?」
「検死に回さんと、詳しいことはわからんが、人がやったことといえるか? 体中に虫刺されがあるから、蜂に刺されたと考えて、まず間違いないじゃろうが、それが何ヶ所とはいわんのじゃよ」
湖西主任がそう説明する中、阿弥陀警部は若杉璃音の遺体を調べる。
「こりゃ、一匹、二匹の仕業じゃないでしょうね。まるでスズメバチに群がったミツバチみたいじゃないですか?」
腫れた部分の隙間に、また刺された痕があり、そこが膨れ上がっている。
「湖西主任。そろそろ検死に回したいのですが」
「わかった。わしもすぐに行く」
そう言うや、湖西主任は阿弥陀警部の肩を叩き、
「若杉璃音の遺体から微かにじゃが人とは違う気配があった。何を目的にしておるかはしらんが、用心しておけ」
湖西主任は一言残すと、部屋を出て行った。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「若杉璃音が殺された?」
『市柿組』組長である市柿が、璃音を追っていた二人組に尋ねた。
「はい。廃ビルで発見しましたが、本人が出てこなかったので、一度ビルから離れたんです。それから二時間後、もう一度部屋に入りましたら…… 無残に殺されていました」
「それは可笑しいだろ! お前たちは誰かがビルに入ったのを見てるのか?」
そう言われたが、二人組は首を横に振った。
「いえ、いつビルから出てくるかわかりませんでしたから、入り口で見張っていましたが、誰かが出入りしたというのは見ていません」
「裏口からはどうだ? 窓からは?」
「窓はすべて閉鎖されていて、その上に板がはられていました。裏口のほうも見ましたが、人が通った形跡はありません」
報告を聞きながら、市柿は頬杖をつく。
「それで見つかったのか?」
「篠塚の家を捜索しましたが、何も見つかりませんでした」
「あれがないと、橋本から金を毟り取れんのだがな」
市柿は苛立ちを見せる。
「そうね? でももうかえされる必要も、要求する必要もないわよ」
扉の片隅に女性が立っている。
女性の姿は三十代と言ったところか、肩まで伸びた黒髪に、黒のスーツを着ている。
「な、ど、どこから入ってきた?」
市柿の側近や、二人組が女性に訊ねる。
「どこから? そんなの答えるわけないでしょ? 今から死ぬ人間なんかにはね?」
女性が指笛を吹くと、窓のほうから何かがガラスを叩く音がし始めた。
「いったいなんだ?」と二人組の一人が窓を開けると――
ドサッと、男が倒れ、カラスが男の目を啄ばんでいる。
「た、たすけ―― たす―― た……」
男が助けを求めるが、もう一羽のカラスが喉を啄ばみ、血飛沫が吹き上がった。
そしてまるで餌を食べるかのように、無数のカラスが男を啄ばんでいく。
「お、おい! そ、外を見ろ」
市柿が窓のほうを指差した。
暗闇の中に無数の光る目が浮かんでいたのだ。
その光は部屋の中に入り込み、夥しい数のカラスが市柿たちに襲い掛かった。
「く、くそ! おい! 窓を閉めろ!」
市柿にそう言われ、側近の男が開けられた窓を閉めた。
「い、いったい何なんだ?」
市柿は青褪めた表情で、女性を見る。
「人間が無駄なことを――」
その言葉に市柿は生唾を飲んだ。
女性の表情は歪んでおり、まるでこの世のものではないかといわんばかりに……
「い、市柿さま…… ま、窓に罅が」
男がそう言うと、市柿は窓のほうを見た。
窓ガラスに罅が入っており、それをカラスたちが嘴で突付いて出来たものだとは、誰一人思いたくはなかった。
窓は銃で撃っても、傷ひとつつかないほどの特殊な強化ガラスである。
それが高々カラスの嘴で傷をつけられているのだ。
「いったい、どういうことだ? お、俺は夢を見てるのか?」
震えた表情で市柿がその場に跪いた。
パリンというガラスが割れた音が聞こえ、その隙間からカラスが部屋の中に侵入する。
「くっ!」
側近の男が銃を取り出し、カラス目掛けて打ち込んだ。
しかし、外れてしまい、彼はカラスの群れに襲われ――絶命する。
市柿ともうひとりの男も、対抗するが、最早十匹、二十匹の問題ではなかった。
まるで町一帯のカラスが『市柿組』の事務所に入りこんでいた。
それは最早誰も助からない、地獄絵図そのものであった――
「く、くそっ…… たれ……」
市柿が虫の息で女性を睨みつける。
「さようなら…… 金を毟り取ることしか出来ない能無し人間」
女性はどこから出したのか、刀を市柿の頭に突き刺し、振り上げた。
メキメキと骨が砕ける音が部屋中に響き渡る。
女性は市柿の頭から刀を抜くと、市柿の頭を蹴り飛ばす。
カラスに啄ばまれたその首は、もはや骨しか繋がっておらず、砕けた頭は壁にぶつかり、粉々になった。
「さぁて、もっと**したい! もっと! もっと! きゃはは…… きゃはははは…… きゃはははははははは――」
女性は身悶え、狂女と云わんばかりに、歪んだ嘲笑を挙げた。
その顔は快楽に身を委ねたように、だらしなく涎を垂らしている。
――彼女の背中には、黒い羽が生えていた。