玖・役割
翌朝のことである。
警視庁のソファに弥生と拓蔵が座っていた。
「すまんな、朝早くから」
湖西主任がコーヒーを片手に、弥生と拓蔵に声をかける。
「まったくじゃよ。それで母親の容態はどうなんじゃ?」
「いまいち理解出来んがな、火傷やらの外傷が多少はあったが、命に別状はなかったよ。ただ、やはり薬をしていた事は間違いないようじゃな」
湖西主任の言葉に弥生は首を傾げる。
「皐月ちゃんがドアを壊さなければ、二人ともあのままお陀仏じゃったろうな。まぁ、それがあの妖怪が伝えたかった事じゃろうし」
湖西主任はそう言いながら、拓蔵たちと向かい合わせに座った。
「それと穐原といったかの? 彼が李夢さんから手袋と薬を受け取ったのを供述してくれたよ。まったく、わしらを少しは信用してほしいもんじゃな」
「穐原さん、なんて?」
「児童虐待が減らないのは、あんたら警察や行政が被害にあってからじゃないと動かないから、減らないんだろうってな」
湖西主任がそう言うと
「わしが子供の頃は、近所の人が当たり前に怒ったりしておったからな。今じゃそんなのがないじゃろ?」
「どんな形であれ、人は繋がっておったからな。今じゃ、隣の人は何する人ぞというより、家の人間は何する人ぞの時代じゃからな」
拓蔵と湖西主任の会話を聞きながら、弥生は背後に気配を感じた。
「あれ、弥生さん?」
声をかけたのはほかでもない穐原である。
その隣に阿弥陀警部が立っている。
「この度は事件に協力していただき、ありがとうございました」
阿弥陀警部がそう云うや、穐原は思いつめた表情を浮かべた。
「どうかしたんですか?」
「あの、李夢ちゃんは大丈夫なんでしょうか?」
穐原がそう尋ねると、
「ええ。李夢さんは無事じゃったよ。ただ、精密検査なんかしないといけんから、すぐには会えんがな」
湖西主任がそう言うと、穐原はホッと胸を撫で下ろした。
「それで、実は皆さんに相談があって――」
穐原がそう言うと、その場にいた四人は驚いた声を挙げた。
病室で眠っている李夢の頬を瑠璃がやさしく撫でている。
「露世に漂いし、生命の魂よ。このものの傷を癒したまえ」
そう瑠璃が言うや、傷付いた李夢の傷は徐々に消えていく。
「これで体の傷はなくなりましたが、心の傷はおそらく癒えないでしょうね」
瑠璃が病室にいる皐月と浅葱に声をかける。
「でも、どうしてあの時、アパートに李夢ちゃんと母親以外の人がいなかったのかしら?」
「多分、火事が起きたのを誰かが教えたんでしょうね。だからみんな逃げ延びていた」
皐月の質問に浅葱は答えながら、一辺を見据えた。
「そうでしょ? 大禿」
浅葱の視線の先には小さな女の子が立っていた。
その容姿は十歳ほどの少女であり、服装は紅い木綿の着物である。
髪型はおかっぱ頭でまるい印象がある。
「李夢の境遇が自分と同じだったからほっとけなかったという、あなたの気持ちもわかるけどね? 下手をしたら、彼女を殺すところだったのよ」
浅葱はそう言いながら、大禿に言い寄る。
「浅葱、そのへんにしたら? あんたと違って、彼女は人に姿を見せられないのよ」
皐月がそう言うと、
「だったら、どうして頼ろうとしないのよ。同じ遊女でしょ? 姉女郎に甘えたっていいじゃない? そりゃすぐに赦せとはいわないけど」
浅葱がそう言うと、大禿は李夢に近付き、髪を撫でた。
「浅葱、大禿はどうして妖怪になったの?」
「大禿がまだ人間だった頃、姉女郎が鉄漿、つまりお歯黒をしていた時に、うまくそれがつけられなくて、癇癪回しの八つ当たりに、鉄漿を禿の口の中に入れたの。禿はその熱さに悶絶し、絶命した」
「つまり、李夢さんを庇った理由は」
瑠璃が大禿を見ながら言う。
「親の身勝手な虐待が、かつての自分の姿とダブったんでしょうね」
浅葱はそう云うや、
「やっぱり、李夢さんを火事から護ったのは」
「妖怪だからといって、人を護る妖怪もいます。ただ、大禿は李夢さんだけを護りたかったようですけどね」
瑠璃がそう言うと、皐月は首を傾げた。
「李夢にとって、もっとも危険な存在は何ですか?」
「えっと、母親……」
皐月は瑠璃の問いかけにハッとする。
「それじゃ、母親が助かったのって」
「子供にとって、どんな形であっても、母親は彼女だけだったということですね。これに懲りて、改心してくださると、地蔵菩薩としてはありがたいんですけどね」
瑠璃はそう言いながら、空を眺めた。
虐待によって死んだ子供の数は厚生省の発表によれば、平成20年(二〇〇八年)において、64例67人の児童が虐待死しているとされている。
そのうち、最も多いのが0歳児といわれている。
また、加害者の多くは実の母親であり、望まない妊娠が多くを占めていた。
瑠璃は昔、自分はどうして拓蔵を好きになり、その間に三姉妹の母親である遼子を産んだのだろうかと後悔した事がある。
だが、地獄で地獄裁判の仕事をしながらも、その暇、拓蔵と遼子が楽しそうに暮らし、遼子が健介と結婚し、三姉妹が生まれていく。
そんな幸せそうにしている姿が強く印象に残っていた。
夫である拓蔵や自分と同じ十王、そしてそれを知るもの以外は、自分が皐月たち三姉妹の祖母である事は知らない。
「皐月、今回は閻獄を私に言い渡させてくれませんか?」
瑠璃はそう言うと、スッとお札を取り出した。
「閻獄第一条四項において、わが子を痛めつけ殺そうとし、剰え、自分の利益のために利用した赤口華蓮を『等活地獄・多苦処』へと連行する」
条例を言い渡すと、お札は消え、別の病院で眠っている華蓮の額に付くや、燃え尽きた。
皐月は条例を言っていた瑠璃の表情を見ながら、歯痒く感じていた。
等活地獄は八大地獄の中でもっとも軽い場所である。
だからこそ瑠璃にとっては、それ以上の無間地獄に落としたかったのだ。
子供を殺すことは確かに大罪ある。
しかし仏教における、最も重い罪とされる『五逆』において、子供を殺すことは入れられていない。
瑠璃にとってもそれが歯痒かった。
神とはいえ、禁忌とされている人との繋がりである。
それだけでも大罪だが瑠璃はその事を後悔してはいない。
自分が苦しい思いをして産んだ子供を、簡単に殺せてしまう人間の思考が理解出来ない。
それが彼女は歯痒かった。