伍・王様
「お帰り――って、どうしたの? その頭」
神社に帰って来た皐月を見るや、弥生が驚いた声を挙げた。
皐月の顔は、浮浪者たちに襲われた時に比べて、すっかりと腫れが引いており、青痣はあれど、普段と大差ないほどに回復している。だが、髪の毛についた血はこびりついており、赤くなっていた。
「んっ、ちょっと帰りに襲われた」
なんとも楽観的に説明するので、弥生は首を傾げる。
「シャワー出来る?」
「ええ、沸いてるけど」
そう言われ、皐月は靴を脱ぎ、一度自分の部屋に戻って、着替えを取りに行くや、風呂場へと行った。
それから数十分後、風呂から上がってきた皐月が居間へと顔を出す。
「皐月、ちょっと座りなさい」
拓蔵に声をかけられ、皐月は正座する。
「今までどこに行っていた?」
「お、大宮巡査のところ――です」
拓蔵の質問に皐月は素直に答えた。
「知り合いとはいえ、未成年があまり夜回りするのは関心出来んな。話を聞けば、帰りに襲われたそうじゃないか?」
拓蔵は怒ってはいたが、それ以上に、皐月が襲われた事が心配なのだ。
「うん。最初死ぬかと思ったけど、やり返した」
あっさり言う皐月に拓蔵は持っていたお猪口を手から零した。
「それに、どうやら私を襲うようにって、命令されてたみたい」
「皐月? あんた、なんか恨まれるようなことした?」
弥生にそう訊かれ、皐月は首を横に振った。
「相手はホームレスみたいで、顔も知らない人たちばかりだった。それに、その人たち、“ロワ”って人から命令されたって」
皐月の説明に、拓蔵と弥生は首を傾げる。
「“ロワ”? なにそれ、外人?」
「ううん。なんかホームレスを匿ってる人みたいで、浅葱橋の近くに、ホームレスが集まってる公園あるでしょ? 明日にでも文句に言いに行こうかなって」
皐月はそう言うと、拓蔵は少し考え、
「“ロワ”……か。皐月、明日わしも一緒に行ってもいいか?」
そう言われ、皐月は首を傾げるが、特に断る理由もないため、同意した。
数時間前、午後四時。三姉妹の住んでいる町から、五駅ほど離れた場所にあるデパートの玩具売り場に穐原の姿があった。
穐原は階段近くに設けられている休憩用の長椅子に座った。
フィギュアや、ガチャガチャの景品が入った紙袋を横に置き、背負っていたリュックを脱ぐや、それからペットボトルを取り出し、口にした時だった。
「あれ?」と、穐原は目の前にいる女の子に目をやった。
女の子は先日の日曜日に駅で見た李夢である。
その李夢は誰かを探しているわけでもなく、ジッと少女向けの玩具を見ていた。
穐原は立ち上がり、李夢に近付くや、
「李夢ちゃん、何してるの?」
そう声をかけるが、李夢は穐原を見るや、キョトンとした表情浮かべた。
それもそうである。穐原は知っていても、李夢本人は穐原の事を知らない。
しかも、傍から見れば、小さな女の子が見知らぬ大人から声をかけられている以外のなにものでもなかった。
「お母さんはどうしたの?」
穐原は腰を低くし、李夢と同じ視線になり、母親の事を尋ねた。
「…………っ」
穐原の問いかけに、李夢は反応を見せない。
「どこかではぐれちゃったのかな?」
穐原はふと、李夢の足元を見た。黄色いサンダルが目に入り、ホッと息を吐く。
だが、手首のところを見ると、ちょうど裾の中が見え、顔を歪めた。
明らかに“虐待”を受けたような傷跡があったのだ。
「李夢ちゃん、のど渇いてない? お兄さんがジュース買ってあげようか?」
そう誘うと、李夢は首を横に振った。
おそらく母親にきつく言われているのだろう。と、穐原は考える。
そういうわけで、しつこく誘うのは逆効果である。
さっきから李夢はジッと展示されているアニメキャラの商品を見ている。
「李夢ちゃん、どのキャラクターが好きなんだい?」
穐原にそう言われ、李夢はゆっくりとそのキャラクターを指差した。
「それか、ちょっと待ってて――」
そう言うや、穐原は長椅子に戻り、置いていたリュックからスケッチブックと筆記道具を取り出す。
――そして数分ほどして、李夢が指差したキャラクターの絵を仕上げた。
その紙を破りとり、「李夢ちゃん、はいこれ」といって、李夢に渡した。
李夢は最初こそ、不思議そうに穐原とイラストを交互に見やっていたが、次第に笑みを浮かべていた。
「李夢っ! 何でこんなところにいるの?」
李夢の母親がのぼりのエレベーターから降りてくるや――
パンッと、李夢の頬を叩いた。
「まったく、人の目を盗んで、なんて悪い子なんでしょうね? こっちはあんたを探してやる暇なんてないのよ?」
ヒステリックな声を挙げ、李夢の母親は、李夢の手を掴むや、その場から離れようとする。
「ちょっとあんた、今のはないんじゃないのか? 李夢ちゃん、ジッとここで待ってたんだぞ?」
穐原がそう言うと、
「あなたね? うちの李夢に変な事してたのは」
そう言われ、穐原は顔を歪めた。
「なに言って、俺は何もして」
「ほら、あんたみたいなオタクは、そうやって誰も弁護しない言い訳を言うのよ」
その言葉に穐原はカッとなるが、
「俺は、李夢ちゃんがあのアニメのキャラクターが好きなのかを尋ねてただけで」
と、感情を押し殺し、懸命に説明する。
「そんなの口百弁、いくらでもいえるでしょ? だいたいねぇ? 大の大人がアニメ好きとか、現実を見なさい」
李夢の母親は、手を繋いでいた李夢が持っている紙に気付く。
「どうしたの? それ」
そう尋ねるが、李夢は答えない。
「もう二度と、近付かないでください」
李夢の母親は無理矢理絵を取るや、自動販売機の横にあるゴミ入れに棄てた。
「あっ」
李夢が小さく声を挙げたが、それは誰にも聞こえず、母親の手に引っ張られ、エレベーターを下っていった。
穐原は呆然としながら、母娘を見る。
そして、ハッと我にかえるや、ゴミ箱に棄てられた自分の絵よりも、李夢が気になっていた。
翌日、夏休みということもあり、平日ではあるが、浅葱橋には人が行き交っている。
その近くに『山間公園』という、小さいながらも緑豊かな公園がある。
皐月と拓蔵は、昨夜皐月を襲う事を命じたという、“ロワ”という人物に会いにきていた。
「ここはかわらんなぁ」
拓蔵がそう言うと、
「もしかして、知ってるの?」
皐月にそう訊かれ、拓蔵は頷いた。
「少しばっかりな――」
拓蔵が曖昧に返事をした時である。公園の反対側から、三輪自転車が皐月たちのほうへとやってきた。
自転車は皐月たちの目の前で停まり、帽子を被った初老の男性が自転車から降りて、二人を見るや、皐月よりも拓蔵を見て驚いていた。
「まだ生きとったのか?」
男性が拓蔵にそう言うと、
「そういうあんたこそ、こんなところに住んでてまだ生きとったんかね?」
二人の会話に皐月は首を傾げる。
そんな皐月に、老人は気付き、挨拶する。
「そうじゃ、王ちゃんや、この子は皐月といってな、わしの孫なんじゃよ」
「なんじゃ、久し振りに会ったら、孫自慢か?」
老人がそう言うと、拓蔵は少し顔を険しくし、
「実はな、あんたに聞きたい事があって来たんじゃよ。昨夜、皐月は知り合いが入院している病院から帰っている時、何者かに襲われたんじゃがな、どうもあんたが匿ってるホームレスと、襲った本人が言っておったそうなんじゃ」
そう言われ、老人は顔を歪める。
「それはいつだい?」
「えっと、病院から少しはなれたところですから、大体8時30分くらいかと」
「それくらいの時間だと、みんな寝ていることが多いね。活発に動くとすれば十二時を回ったくらいだろうし」
その言葉に、皐月は再び首を傾げた。
「ホームレスはコンビニや、レストランから賞味期限などで出た残飯を目的にして、徘徊するからね。その時間だとまだお店は開いてるだろ? それに、いつでもあるわけじゃないから、あまり早い時間から行動するってのもないんだよ」
そう言われ、なるほどと、皐月は理解する。
「しかし、あんたから金を出されてともいっておったそうなんじゃよ」
拓蔵がそういうや、老人はクククと笑った。
「人にやる金があるくらいなら、こんな質素な生活はしとらんよ」
老人は笑いながら、皐月と拓蔵を見た。
「久しぶりに会ったんじゃ、ちょっとうちによっていかんか?」
老人にそう誘われ、皐月は拓蔵を見た。
「皐月、この老耄爺が、ただの浮浪者だと思わんほうがいいぞ。それに、どうして皆から“ロワ”と呼ばれているかもわかるしな」
拓蔵にそう言われ、皐月は三度首を傾げた。
老人のダンボールハウスの中を覗いた皐月は、その光景に唖然としていた。
畳三畳ほどあるその広さに、敷布団がひとつ。その近くには携帯ラジカセと、小さなコタツテーブルが置かれている。
奥のほうを覗くと、小さな二段式冷蔵庫があった。
話を聞けば、それらすべて、老人が趣味で直したものだと、本人が説明した。
「そうじゃ、ちょっと酒持ってきたんじゃが、少しばかり肴を繕ってくれんかの?」
拓蔵にそう言われた老人は、ダンボールハウスの中に入り、冷蔵庫を漁る。
「うーん、チーかまがあるが、それでもいいか?」
「客にそのまま食わせるのか? 帝國ホテルでコック長をしとった人間が」
「帝國ホテル?」
皐月が老人に尋ねると、「昔ちょっと働いてたんじゃよ」と老人は答えた。
「皐月、ホテルの最高客室はなんと言うか知っとるか?」
そう訊かれ、皐月は少しばかり考えると、
「ロイヤルだっけ?」
「まぁ、場所々で言い方は違うが、元の語源はフランス語で王室という意味なんじゃよ」
老人が冷蔵庫から、チーかまと、細かく切られた野菜を、ガスコンロで炒めている。
「帝國ホテルで働いておったからな、それによく皆が持ってきた材料で、料理をしている事から、王様という意味の“ロワ”という別称で呼ばれておるんじゃよ」
拓蔵は持参した酒を飲みながら、そう言うと、
「それじゃ、爺様はこの人の本名知ってるの?」
皐月はそう言うが、拓蔵は首を横に振った。
「わしはこの爺さんの本名は知らんが、料理の腕は瑠璃さんに負けず劣らずじゃよ。なんせ、料理を教えたのはこの人なんじゃからな」
そうこう話しているうちに、料理が出来上がり、それを食べると、皐月と拓蔵は舌鼓を打った。