肆・懐胎
それから三日後、特別悪い訳でもなく気にはしていなかったものの、さすがに授業中も気になり出してきたし、それに気がいって気分が優れないため、皐月は神主の知り合いである田原医師に相談をするため病院へと訪れていた。
田原医師は産婦人科医であり、神主の娘であり三姉妹の母親である遼子が三姉妹を出産したさい、主治医としてその出産に携わっている。
「――で覚えとらんと? 若気の至りとかそんなんでもなくかぁ?」
のほほんとした口調で田原医師は訊いた。
「ですからする相手はいないんですって! 大体月役が来たのはここ一週間くらい前でしたし……そもそも! 男性と付き合った事なんて一回もないんですから!」
「知らない内になったって事かい?」
そう言われ皐月は少し考えるや頷いた。
診察室のベットに寝かせられお腹を晒している皐月に田原医師は手で摩りながら色々と質問をしていた。
田原医師は齢八十を疾うに超えており、長年の経験からか最新技術を使わなくとも触診だけで腹の違和感を調べることが出来る。
「別に可笑しな部分はないのよね」
老婆特有の、のほほんとした口調では有るが田原医師は真剣な表情で少しばかり考えていた。
「どうかしたんですか?」
「うーん月役が来ないって事は可能性としては生理不順になっているか、出来ているかのどちらかなんだけど――」
「取り敢えず一週間前に来てますけど?」
「あっ……皐月ちゃんはどちらでもないわよ。薬を飲めば『三日』くらいでよくなると思うけど……」
要するにどちらにも当てはまらないということなのだが、何やら物言いそうな表情で田原医師は机の引出しを見ていた。
「最近妙な事があったのよ。今日の皐月ちゃんと同じ感じの患者さんなんだけど」
「同じくらいって? 私と同い年って事ですか?」
「いいえ。年は二五で月役が三ヶ月ほど来るのが遅いからってうちに相談しに来たのよ」
「それくらいだったら出来てるって可能性が有ったって事じゃないんですか? ほら、よく三ヶ月目でわかるって云いますし」
皐月がそう尋ねると、田原医師は答えるように首を横に振った。
「それは大きな勘違い。子供を授かったのに気付かないだけで、整理が遅れているだけと思ったり、悪阻がきて始めて気付くってのがほとんどで……」
言葉を止めると、田原医師は頭を振った。
「それで、その彼女の診断結果はただの生理不順。恐らく彼女は出来たと勘違いして生理周期をつけなかったんでしょうね。もちろん医師としてはそれ以上患者の情報を言えないけど」
「それをその女性には言ったんですか?」
「ええ、でも彼女は聞き入れなかったわ」
「どういう……」
皐月がそう尋ねると田原医師は少しばかり俯くや、「皐月ちゃん? 想像妊娠って言葉聞いた事ある? 実際は妊娠していないのに恰もしているように錯覚してしまう事。もちろんこれはストレスや思い込みでなるものだし、第一個人々に生理の周期があるから……」
田原医師は目を伏せながら話す。
「でも、その人は妊娠してなかったんですよね?」
「ええ、精神安定剤を処方して、患者には気分が優れない時に飲むようにって伝えた……。そしたらね、それから一週間もしないうちに、その女性が病院に怒鳴り込んできたの……私の子を返してっ!! 私の子を返してっ!!って――――」
田原医師が話をしていると、診察室のドアが開いた。
「田原先生。警察の方が……」
若い女性の看護士がそう言うと、田原医師は一言、二言返事をする。
その直後にその警察官が診察室へと入ってきた。
「おや、皐月さん?」
案の定、その警官は阿弥陀であった。そのうしろでは大宮が看護士達に聞き込みをしている。
皐月は上げていたシャツを元に戻すと、小さく会釈した。
「それで、何か進展はあったんですか?」
皐月がそう尋ねると阿弥陀は苦笑いを浮かべた。
「いやいや面目ない。何せ殺された間宮理恵の交友関係を調べていると殺されるとは到底思えないんですよね……。あ、田原先生お願いしていた事わかりましたか?」
そう言われ、田原医師は部屋を出て行った。
「……で、どうしてここに? もしかして……」
「そんな訳ないですよ! いたって健康。三日くらい休めば“治る”って云われました」
「そうでしたか? イヤイヤ、失敬失敬」
釈然としない阿弥陀の言い回しに、皐月は怪訝な表情を浮かべながら睨みつける。
それから数十秒して、田原医師が診察室に戻ってきた。
「女性の腹部になかったものを見た結果、やはり臍帯がなかった事になりますね」
それを聞いて皐月と阿弥陀は互いの顔を見やった。
因みに臍帯とは、『臍の緒』を医学的にいった言葉なのだがそれに関してではない。「なかった? なかったってどうして?」
皐月が驚くのも当然である。被害者である間宮理恵が殺された大本の原因は奇怪な帝王切開のさいに起きた大量出血によるショック死だと、皐月と同じく阿弥陀も思っていた。
臍の緒というのは母親と胎内にいる子供を繋げるもので、それから母親が採取した栄養を子に行き渡らせて育てる。出産の際子についた臍の緒を切るのだが、本来自然に切れるものではない。
哺乳類特有ともいえるこの臍の緒は、人間でなら出産直後に鋏で切られ、猫や犬だと噛み切る事がほとんどである。
「その女性を診察していたのがうちですから。そもそも先月には既に生まれているはずなんですよ」
「たしか女性が妊娠していた時期って……十ヶ月?」
「十月十日という言葉がありますが、如何せん私の見聞では……」
そう言うと田原医師は皐月を見ていた。その視線に皐月は首を傾げる。
「妖怪の仕業って事ですか?」
阿弥陀がそう尋ねると、「そう考えると納得するんだけどね?」
田原医師はそう言いながらも釈然としていなかった。
「子を奪う妖怪……そんなのもいるんですか?」
「そもそも妖怪は悪戯をする方が多いですけど……子を奪う妖怪は――」
途端、皐月の表情が曇った。
あの晩自分の部屋で見た女性の胸に抱えられた嬰児はどんな風だった?
身か爛れていて骨と筋肉が剥き出しになっていた。
そしてその女性には異様な何かがあった。
「――姑獲鳥?」
そう口走ると、阿弥陀がどういう妖怪なのだと訊いてきた。
「姑獲鳥は難産で子を産んだものの、死んでしまった女性の妖なんです。一説によると子を奪い自分の子供にしてしまうとか……旅人に百キロはあると言われている赤ん坊を抱かせたまま殺したりとあるんですけど……ただ、悪い妖怪とは思えないんです……」
「――といいますと?」
阿弥陀警部の質問に田原医師が代わりに答えた。
「子を思う余りそのような事をしている。だから悪い妖怪とは思えないといいたいんですね?」
そう言われ、皐月は頷いた。
「私達姉妹は母と父のことを知りませんから……。逆に子の面影を探している姑獲鳥がどうしても悪い妖怪だなんて思えないし、思いたくないんです。それに八百万の中に鬼子母神という似たような神様もいますから――」
皐月が漏らした言葉を聞くや、田原医師は二人から視線を逸らす。
「――で、どういった姿で?」
「上半身裸で両腕がまるで鳥のような……」
それを聞いた途端、阿弥陀はあっと声を荒げた。
「と、鳥ですか?」
詰め寄ってきた阿弥陀に圧倒された皐月は頷くのが精一杯だった。
「殺された女性の近くに鳥の羽根らしきものがあったんですけど……どの鳥類にも当てはまらない羽根だったのでまさかとは思いましたが……」
「で、でも! その女性が発見された場所の近くには『玉依姫神』が祭られていて、姑獲鳥はあそこを嫌ってると聞きます……」
「――と言いますと?」
「どうしてなのかはわかりませんけど……多分、『玉依姫神』……つまり、子安神だからじゃないでしょうか? 子を抱く事すら出来なかった姑獲鳥にはそれが耐えられなかった」
皐月は俯きながら言った。
途端、診察室に大宮が入ってきた。
「け、けけけ警部?」
「どうしたんですか? そんなに慌てて……」
「さ、さっき無線で連絡があって……そ、そそそそそその!」
狼狽するように呂律が回っていない大宮に、阿弥陀は呆れながら、「いやだから落ち着きなさいって! ほら、ゆっくり深呼吸」
そう促され、大宮は一、二度ほど深呼吸した。
「で、どうしたんですか?」
「こ、殺されたんです……間宮理恵の夫である【間宮雄太】が変死体で……」
それを聞いて、阿弥陀の顔は信じられないといわんばかりの表情に変わった。
ふと皐月は窓の方を見た。小さく羽音が耳に入ったからだ。
窓を開けて外を覗いだが、そこには何もなかった。