参・定説
三姉妹が実家である稲妻神社に戻ったのは、ちょうど夜七時を回った頃だった。
玄関の引き戸を開けると、ほんのりとした甘い匂いがし、三姉妹は首を傾げる。
この神社の神主であり、三姉妹の祖父でもある拓蔵が、厨房で料理をしているのだろうと、一瞬思ったが、
「爺様って、確か料理駄目じゃなかった?」
皐月が生唾を飲み込み、そう言うと、弥生も生唾を飲み込むや、頷いた。
「葉月がヨダレ垂らすくらいだからね。ほら、拭きなさいな」
葉月がダラダラとヨダレを垂らしている。
これは美味しい匂いがした時ならば、誰だって起こりうることなのだが、弥生と皐月も、葉月と同様、ヨダレの分泌量が半端ではなかった。
原因を確認するため、三姉妹は匂いがする居間の方に行くと、長方形の卓袱台の上に、酒の肴が置かれており、拓蔵が酒を飲んでいた。
その隅には徳利が二本置かれている。
「瑠璃さんや、もう一本作れんかの?」
拓蔵がそういうや、「少しはおさえたらどうです? 最近飲み過ぎだって、弥生が云ってましたよ」
厨房の方から、瑠璃の声が聞こえ、三姉妹は首を傾げると同時に、匂いの原因が何なのかを理解した。
皐月と葉月は、一度自分の部屋に戻り、残った弥生が厨房を覗くと、
「あら、お帰りなさい」
瑠璃にそう言われ、弥生は少し躊躇い、会釈する。
「今日は一段と暑かったでしょ? もうちょっとで肉じゃができますから」
(匂いの原因はそれか)と、弥生は思った。
小さな鍋の中には、大きく切られたジャガイモやニンジン、タマネギが入れられている。
甘い匂いは、醤油や酒、味醂、そして砂糖を混ぜているからだった。
瑠璃の姿を翌々見てみると、普段は髪をお団子に纏めたヘアスタイルなのだが、それをほどき、髪を頭のうしろに掻きあげ、髪留めで止めているため、髪がうしろに跳ねている。
さらには割烹着を着ているため、傍から見ると、小さな女の子が一生懸命料理をしている姿に他ならない。
「何か手伝いましょうか?」
弥生はそう言うが、まな板の上や、シンクなどを見ると、タマネギの食べられない皮の部分や、ジャガイモの皮が三角コーナーに捨てられていることに違和感を感じる。
瑠璃にニンジンの皮は?と尋ねようとすると、二つあるガスコンロのもうひとつには、金平牛蒡が作られていることに気付く。
なるほど、ニンジンの皮はそっちに使ったのかと、弥生は理解する。
「そうですね。それじゃ、味見してもらいましょうか? 弥生は最近便通がよくないと聞きましたからね」
そう言うと、瑠璃は小皿に肉じゃがの汁を注ぎ、それを弥生に渡す。
鼻を近付けなくても、肉じゃがの甘い匂いがしてくる。
弥生は溜まらず、口の中に溜まった唾を飲み込んだ。
一口啜ると、作りたてだというのに、熱くなく、それでいて暖かく心地のいい味わいだ。
一瞬にして、その日の疲れが癒されていく。
「瑠璃さん。今度、私にも作り方教えてくださいよ」
弥生がそう言うと、瑠璃はどこかホッとしたような表情を浮かべた。
「瑠璃さんや、酒の肴はないんかな?」
居間のほうから拓蔵が催促するように呼びかける。
「それだったら、金平牛蒡ができたので、持ってきますね
瑠璃はそう拓蔵に云うや、背伸びをして、食器棚から小皿をひとつ取り出し、その皿の中に金平牛蒡を盛り付ける。
そのやりとりは、我侭な亭主に呆れながらも、いやな顔ひとつ浮かべずに従っている妻のような感じであった。
それは瑠璃が、弥生に一瞬、困ったような表情を浮かべたと同時に、どこか幸せそうな表情でもあったからだ
実際、瑠璃と拓蔵は夫婦ではあるのだが、三姉妹はその事を知らない。
「葉月、それは何ですか?」
夕食を食べ終え、デザートにと作っていたわらびもちを食べている時の事だ。
葉月が食後に読もうと思い、自分の部屋から持ってきた一冊の本を見るや、瑠璃が首を傾げている。
その本のタイトルは『あかいくつ』である。
「たしかそれって、歌がなかった?」
皐月がそう言うと、
「『赤い靴 はいてた 女の子。異人さんにつれられて、行っちゃった』だっけ?」と歌いながら、弥生が聞き返す。
「赤い靴は、童謡と童話があり、童謡は日本が元になっていますね。童話は『人魚姫』や『マッチ売りの少女』で有名なアンデルセンなんですよ」
瑠璃がそう云うので、皐月は絵本の表示を見た。彼女に原作者の名前に『ハンス・クリスチャン・アンデルセン』と書かれている。
「それにしても、またどうしてそんなのを?」
瑠璃が首を傾げ、葉月に尋ねると、
「それが、今日の帰り、駅のベンチに女の子が座ってて――」
葉月が駅であったことを拓蔵と瑠璃に説明した。
「なるほど、たしかに違和感があるな」
「靴を忘れたことに対して首を横に振った。それは素直に忘れていないと解釈していいでしょうね。ただ、やはり年齢を考えると」
拓蔵と瑠璃は二人して考え込む。
「その李夢でしたっけ? どんな女の子でしたか?」
「えっと、身形は葉月の年がひとつ下くらいかしらね? ただ、なんか栄養がいきわたっていないのか、思った以上に小さかったけど」
「それになんか、母親の態度も可笑しかったわね」
皐月の言葉に疑問を持った瑠璃は、それを尋ねる。
「えっと、30代くらいの女性で、李夢ちゃんを見つけたとたん、むりやり手を引っ張って連れ帰ってたんです」
「なんか、怒鳴り声を挙げてたけど、李夢ちゃんはなんともない顔してたわね」
皐月と弥生の言葉を聞くや、瑠璃は一瞬寂しそうな表情を浮かべた。
「それで、その『あかいくつ』って、どんな話だっけ?」
弥生がそう言うと、葉月は絵本を手に取り、皆に読み聞かせた。
――物語の概要を説明するとこうである。
少女は病気の母親と二人だけで貧しく暮らしていた。
ある日、靴を持っていない少女は、足に怪我をしたところを靴屋の女主人に助けられ、赤い靴を作ってもらう。
その直後、看病も虚しく母親は死んでしまい、少女は母親の葬儀に、赤い靴を履いて出席し、それを見咎めた老婦人が、少女の境遇に同情し、彼女を養女にした。
裕福な老婦人のもとで育てられた少女は、町一番の美しい娘へと成長したある日、靴屋の店先に綺麗な赤い靴を見つけた少女は、老婦人の目を盗んで買ってしまう。
戒律上、無彩色の服装で出席しなければならない教会にも、その赤い靴を履いて行き、老婦人に窘められる。
それでも少女は赤い靴を履いて、協会へといく。老婦人が死の床についているときにさえ、少女はその靴を履いて舞踏会に出かけていた。
すると、不思議なことに少女の足が勝手に踊り続け、靴を脱ぐことも出来なくなってしまった。
少女は死ぬまで踊り続ける呪いをかけられたのだった。
少女は昼夜関係なしに踊り続けなくてはならなくなったため、亡くなった老婦人の葬儀にも出席できず、身も心も疲弊してしまい、とうとう呪いを免れるため、首斬り役人に依頼して両足首を切断してもらう。
すると切り離された両足と赤い靴は少女を置いて、踊りながら遠くへ去ってしまった。
「心を入れ替えた少女は、両足を失った体で、教会のボランティアに励む毎日を送った。ある日、眼前に天使が顕現し、罪が赦されたことを知った少女は、法悦のうちに、天へ召されていった」
本を読み終えた葉月が本を閉じ、皆の顔を見ると首を傾げる。
皆の表情がただ呆然としていたからだ。
「な、なんか改めて聞くと、すごい話よね? エクソシストだっけ? そういうのには頼まなかったのかしら?」
弥生がそう言うと、拓蔵が一口酒を飲むや、
「この話で重要なのは、欲に塗れて、目の前の小さな幸せを蔑ろにしてはいけないという話なんじゃよ」
「絵本には残酷に見えて、実は哲学的なことも含まれていますからね」
瑠璃は拓蔵の横に坐り、お茶を飲んでいる。
その仕草が自然であったため、三姉妹は気にもしなかった。
「でもさ、童謡の赤い靴もそんな感じだっけ?」
「これから話すのは、童謡における定説での話に置き換えて、まず、童話と類似しているところがあるとすれば、主人公の少女が、童話と同じく母子家庭であったこと。童謡での少女の母親は再婚していますが、ある理由によって、少女を育てることが出来ず、両親は少女をアメリカ人に預けた。ですが、少女は結核を患ってしまい、渡米することが出来なかった。少女は孤児院に預けられ、九つで亡くなった。そのことを少女の両親は知らず、渡米したものとばかり思っていた」
「つまり、自分の子供が死んだことを知らなかったってことですか?」
皐月がそう尋ねると、瑠璃は答えるように頷いた。
瑠璃は懐から煙管を取り出し、口に咥えるや、紫煙を噴出した。
すると、その煙は見る見るうちに少女の姿へと代わっていく。
「お呼びでしょうか? 閻魔さま」
少女――煙々羅は畳の上に正座をし、瑠璃の前で頭を下げる。
「先ほど、葉月が話していた家族を少し調べてくれませんか?」
そう言われ、煙々羅は「了解しました」と言うや、その言葉通り、煙にまかれるように消えた。
「何か気になることでもあるんですか?」
葉月が心配そうな表情を浮かべる。
「いえ、私の思い過ごしであってくれればいいんですけどね」
瑠璃の言葉に三姉妹は首を傾げた。
制約によって、歌詞の掲載は禁止されていますが、童謡『赤い靴』は1922年(大正11年)、野口雨情作詞・本居長世作曲で発表された童謡であり、著作権は切れています。