拾・色香
「拓蔵?」
部屋で考え事をしていた拓蔵に瑠璃が声をかける。
「瑠璃さん。七年前の事件、覚えておるかの?」
「あの事件ですか? 人間がした事と考えると、火災が大きかったことからガス爆発によるものと考えていましたが、やはりそうなる以前の問題ですよね?」
瑠璃は当時の事件を警察側として知っているからこそ、拓蔵が何に疑問を持っているのかがわかった。
「やはり、ガス爆発は無理があるやなぁ? 大体臭いでガスが漏れていたり、ガソリンの臭いがしとるはすじゃろうからな」
「それに焼死体の形状も不可解でしたしね。あれだけ燃えていたのに、死体は黒焦げどころか、皮が焼け爛れただけだった」
寺と一緒に燃えていたのならば、死体は黒焦げになっているはずだ。
しかし発見された焼死体は、まるで熱にあてられたかのように、焼け爛れていたのである。
それが今回の焼死体と似ていた事が拓蔵にとって不可解だった。
「それに死因は全身火傷によるもの。火傷で済むわけがないじゃろうよ」
「それではあの時も、そして今回の事件も――妖怪の仕業?」
「葉月が霊視しようとした時、写真に弾かれておったからな、そう考えてもいいじゃろ」
しかし拓蔵はそれで納得いっているわけではなかった。
「阿弥陀くんから話を聞いたんじゃがなぁ、占い師に鑑定してもらったのは、その家の主人だったんじゃよ。占い師は結構美人らしくてなぁ、まぁいい女に騙されるのは、男の性じゃろうて」
それを聞くや、瑠璃は頬を膨らませ、拓蔵を睨みつけた。
容姿からして可愛らしく見えるが、拓蔵の妻だけあって、嫉妬の怨が感じられなくもない。
「あの事件、結局は証拠不十分で、緋野重摩は逮捕されなかったんでしたね」
「しかも誤認逮捕ってことで、結構娘たちには辛い思いさせてしまいましたしね」
拓蔵と瑠璃は表情を暗くし、はぁっと溜め息を吐いた。
「拓蔵は緋野重摩が妖怪だという事に気付いて、そのようなことをした」
「ですが、やはり彼女が殺せた証拠はなかったですからね。結局あの事件は藪の中」
「芥川龍之介の小説でしたっけ? 結局真相は誰も知らない薮の中」
瑠璃はゆっくりと天井を仰いだ。
芥川龍之介の短編小説である『薮の中』は、若い盗人に弓も馬も何もかも奪われたあげく、藪の中で木に縛られ、妻が手込めにされる様子をただ見ていただけの情けない男の話である。
語り部は妻の気丈さと若い盗人の男気を褒め称えて、話を締め括っている。
この情けない男を殺し、殺人事件に仕立てたのが『藪の中』である。
この作品では、藪の中で起こった殺人事件を七人の証言者が証言、告白するという形式でなりたっている。
捕らえられた盗人、清水寺で懺悔する男の妻、巫女の口を借りて現れた男の霊のそれぞれの当事者三人の証言は、藪の中で盗人が男を木に縛り付けて男の目の前で女を手込めにしたことは一致しており説得力はあるのだが、男の死因についてそれぞれ、「偶然」「他殺」「自殺」と見事に食い違っており、結局どれが真相なのか、誰が犯人だったのかは全て有耶無耶のままになっている。という作品である。
今なおこの作品の真相が研究されているが、真実に行き着いたものはいない。
そのことから、事が不十分や有耶無耶という、はっきりとしない物事を表した言葉として使用されている。
「まぁ、わかっていることとすれば、緋野重摩……飛縁魔は坊主と不倫関係だったことと、その色香に惑わされて、住職は己の身を焦がしたということなんじゃがな」
飛縁魔は外見は菩薩のように美しい女性でありながら、夜叉のように恐ろしく、この姿に魅入った男の心を迷わせて身を滅ぼし、家を失わせ、ついには命を失うと伝えられている。
今回の火災事件も、結局はそれによるものであった。
「ただひとついえることは、今の皐月や信乃が、飛縁魔に勝てるとは思えないことですね」
瑠璃は溜め息を吐く。皐月に自分の真言を伝え、そのご利益による力を与えたとしても、今の皐月では諸刃の剣であると、海雪から報されていた。
飛縁魔の名称は『火の閻魔』という。
即ち『火炎地獄の裁判官』を意味しており、同じ閻魔の別称を持っている地蔵菩薩だったことから、瑠璃はその力を知っての判断である。
「今回も証拠不十分。火災原因も占い師から助言を受けたことを実行してのことだったとしても、それを立証する事はできない。阿弥陀警部に逮捕ではなく、事情聴取にしたのは、自分が犯した過ちを味あわせたくなかったからですか?」
瑠璃がそう訊ねると、拓蔵は少しばかり考えるや、答えるように頷いた。
「結局、今回も逃がしてしまったということですか……しかも、今回は飛縁魔がひとりで考えての事とは思えない」
瑠璃が発した言葉の意味を拓蔵は問う。
「事件が起きたのは、皐月が目の前で大宮巡査が襲われたことで暴走し、精神が不安定になってから然程経っていない時に起きた。それって余りにも偶然過ぎませんか? まるでタイミングを見計らったように事件が起きている」
「それを知っておるのは、わしや弥生に葉月、瑠璃さんと脱衣婆以外だと、阿弥陀警部、佐々木刑事、湖西主任くらいじゃな」
拓蔵が言い切ると、瑠璃は険しい表情を浮かべた。
「いえ、今回の事件、裏で引いているものがいたとすれば、虚空蔵菩薩でしょうね。皐月を追い込んだのは虚空蔵菩薩でしたから。それに奴は六年前に起きた転落事故が皐月に原因があると云っていた」
その言葉に拓蔵は戸惑うが、結局のところ、転落事故も薮の中である。
しかしあの時、車を運転していた健介が見た車は、本当に実在していたのか。それは誰も知らないのだ。
瑠璃はこの六年間、五七日における地獄裁判出席、六道や賽の河原で弱い魂を救済していた最中、あの転落事故の真相を調べていたが、靄が罹ったかのようにわからないのだ。
四日後、阿弥陀警部から占い師は証拠不十分という理由から釈放されたとの連絡が入った。
留置期間は警察は四十八時間、検察側が二十四時間の計七十二時間――三日間とされている。
この時、勾留請求が行われ、裁判所がそれを認めれば、後十日は留置されるのだが、それが認められなかったのである。