捌・煙草
弥生と葉月がアリバイを作ってくれたおかげで、皐月は拓蔵から折檻されることはなかった。
昼になるくらいの午前十一時、自分の部屋で横になっていた皐月は、ふと何かを思い出し、遊火を呼んだ。
「何のご用ですか?」
「確か遊火って、爺様には、ある事件で助けてもらったのよね?」
「えっ? あ、はい。確かに私は七年前、拓蔵さまから助けてもらった礼がありますから」
遊火がそう言うや、皐月は体を起こし、「その時のこと話してくれない? 漠然としか思い出せないから」
そう云われ、遊火は説明した。
今から七年前、稲妻神社の近くに小さなお寺があった。
遊火はそのお寺近くによく浮遊しており、そこで一人の小坊主を見かけたという。
その小坊主、名を長谷部与一といい、大変優秀で、住職のことはよく聞くし、覚えもよかった。
遊火はそんな与一が墓場の掃除をしている時、よく話を聞いていたのだった。
与一は、遊火が妖怪である事には気付いていなかったという。
修行を積めば見えるという訳ではないが、与一はその資質があったのだと遊火は思ったと説明する。
そんな不思議な関係が続いた、ある冷たい冬の日であった。
与一が暮らしていたお寺で火災が置き、寺は全焼したのである。
火元の原因は台所にあり、火災があったと思われる時間、与一が台所で調理をしていたと住職の妻――緋野重摩が証言したという。
当然の事ながら、与一は無実だと訴えるが、誰一人、重摩が嘘をついていること事態に疑問を持たなかった。
というよりかは持とうとさえしなかったのだ。
重摩は器量よく、気配りも出来て、与一を除いた誰一人、本当に彼女を疑う人間はいなかった。
火災が起きた時間、疑われていた与一が買い物に出かけていたのを遊火は知っていたのだが、それを証言する術はない。
だからこそ与一を励まし、必ず無実を証明してあげると約束したという。
拓蔵と初めて会ったのも、その事件がきっかけであった。
通報を受けた警察の中に拓蔵がおり、住職たちから事情聴取をし、現場を見るや、台所に焼死体が発見される。
調べたところ、火災の原因はガス爆発によるもので、その引き金となったのは焼死体の男がその場でタバコを吸った事だとわかった。
それと、なにやら変な臭いがしたとも言っていたという。
住職たちは発見された死体が寺で修行していた坊主である事を知り、驚きを隠せないでいたのと同時に、その坊主がタバコを吸っていたことを知らなかったという。
重摩からその事を尋ねると、坊主は台所でタバコを隠れて吸っていたことを知っていたと同時に、あろうことか重摩と不倫関係にあったという。
「つまり、遊火が見えていた与一は、よく厨房に出入りしていた。それを重摩が、アリバイ工作に利用したってこと? でも、どうしてそんなことする必要があるのよ?」
「後々拓蔵さまから聞きましたが、まず事件には目撃証言などが必要になりますよね? その証言に信憑性があればあるほど、その証言は有効になります。ですが、今回厨房を誰が出入りしていたのかではなく、それを誰が見ていたのかという点にあるんだそうです」
遊火の言葉に皐月は首を傾げる。
「一緒じゃないの?」
「私も最初そう思いましたが、厨房の入口付近には誰もいなかったそうなんです。むしろ火災があった時間、確かに寺に人はいましたが、何人かは本堂で修行をしていたということらしいんですよ。妻はその時母屋にいたと説明してましたし、私が見えていた与一は買い物に行っていた」
「それって、言い返せば『亡くなった坊主以外、火を点けることはできない』ってことじゃない」
皐月はそういうが、少しばかり疑問が出来た。
「でも、火災があった時、本堂で修行をしていたのよね? それって自由参加?」
「私が見えていた与一は、買い物に行っていましたし、私もそれについていってましたから、詳しくは」
遊火は表情を曇らせる。
「いや、遊火が悪いわけじゃないのよ。ガス爆発ってことは、当然部屋の中にガスがもれていないと起きないでしょ? だけど、タバコを吸っていたのなら、換気扇を回すはすじゃない。つまり、原因がガス爆発によるものだったとしても、一番大きく燃えているのは焼死体と換気扇付近だと思うんだけど?」
皐月がそう訊ねると、遊火は少しばかり思い出すように頭を抱えた。
「それにどうして与一を買い物に行かせたかよ。自分に得のあるアリバイ工作なら、一緒に行動していたってのが最善じゃない? だけど買い物に行かせたってことは、その店か家に行っていたというアリバイが出来るじゃない?」
「言われてみれば、確かに」
と遊火は感心する。
「それにタバコなんて、隠れて吸うものでもないんだけどね」
皐月がそういうや、遊火はキョトンとした表情で聞き返した。
「ええ。信乃のお爺さんが住職なのに、凄いヘビースモーカーだったからね。四年前、ユズが襲われた事件が起きる前までは、よく遊びに行ってたから、今でも覚えてるのよ」
仏教では『不飲酒戒』という教えがあるが、信乃の祖父は仏教の人間でありながら、拓蔵に負けず劣らずの酒豪である。
もちろん修行中は一切口にはしていない。
また仏教において、煙草は禁じられていない。
その理由として、お釈迦様が存在していたとされていた頃、インドには煙草という概念がなかったためという説がある。
――が、当然未成年による飲酒喫煙は法律で禁止されている。
遊火の話では、亡くなった坊主は二十歳を過ぎており、法によって罰せられる事はまずない。
話を『不飲酒戒』に戻すが、この戒は、お酒だけではなく、麻薬など、人の精神を錯乱させるもの全般に適応されるという説がある。
この説でも、煙草にお酒や麻薬ほどの精神を錯乱させる効果があるのかといえば難しいところだが、結局のところ、酒も煙草も程度に楽しむものである。
「重摩が犯人。亡くなった坊主は煙草を吸うためにライターに火を点けた。それがきっかけとなって爆発が起きた……そう爺様は考えての推理だったんでしょうね」
「恐らくそうだと思います。ただ、その女性は本当に素敵な人だったので、最初、私もその人が犯人だとは思っていませんでしたけど」
「それって、どういうこと?」
話を思い出した皐月は、重摩を誰一人疑わなかったことは、その人物の人柄によるものだと思い始めた。
「爺様は重摩をただ殺人容疑として連行したんじゃなくて、何かをあぶりだそうとしていた。ガスの元栓は台所に入れる人間全員に出来ることだし、殺された坊主が隠れて煙草を吸っていたことなんて、知ってる人間がいても不思議じゃない」
皐月は自分の知識の奥底にある何かを頭の中で手探りする。
事件が起きた日、与一は買い物に行っていたが、その目撃証言があるため、アリバイはある。
そして連行された重摩には人徳というアリバイしかなかった。
「結局はガスが漏れての火災で、坊主を狙っての事なのかはわからないそうです」
「つまり、そのことに関して、重摩は黙秘してるってこと?」
遊火は答えるように頷く。
「はい。焼死体には殺傷はなかったそうですから」
それじゃ何を理由に殺されたのかは結局闇の中である。
そもそも拓蔵は当時公安部に所属しており、事件は刑事部の仕事におけるため、それ以上は関わろうとはしなかった。
「それにしても、どうして昔の話なんて聞こうと思ったんですか?」
「いや、遊火は爺さまに助けてもらったから私たちのところにいるのよね? でも話を聞いてると」
「誰も見えなくなったんです。私のことが……」
「誰も?」
「皐月さまは私がそこにいると信じれば、必ず答えてくれると葉月さまから云われて、見えるようになったんですよね。その逆もまた然りなんです」
遊火はそれ以上そのことに関しては何も云わなかったが、皐月には痛いほどわかった。
与一が何らかの原因で、遊火が見えなくなり、遊火は居場所が無くなっていたのだ。
以前、沢口兄弟によって助けてもらっていた窮奇に共通するものがあった。
どこにでもいける妖怪や幽霊は、逆に言えば、居場所を捜し求めているともいえる。
「ただ、拓蔵さまと一緒に女性がいたんですけど、それが誰なのか」
遊火は思い出すように云うが、それ以上は思い出せないでいた。
「皐月、起きてる? 昼飯出来たんだけど?」
弥生が襖越しから声をかける。気付けば午後十二時を過ぎていた。
――皐月と遊火は話を切り上げ、居間へと下りた。
この話は今回の話に重要な部分となります。