第35話 ありがとう
ヒウノは湖で出会った老人から借り受けた飛行機械を操縦し、海を進み始めた。計器や操縦桿、ペダルのどれも見覚えのある構造だった。操縦方法で困ることはなさそうだ。照準器と見慣れない装置は、おそらく老人が語った『物騒なもの』なのだろう。
砂の海である戒砂と実際の海とでは、やはり勝手が異なる。海水に浮いている感じ、波による揺れ、そして沈むことへの恐れ。「海」の違いに少し緊張する。夜の海の静けさとどこまでも広がる闇。今にも呑み込まれそうに感じた。
「リト、怖くない?」
後部席に座る少女へ、伝声管ごしに少年の声が届いた。
「うん。平気よ」
短く、ややこもった声が返ってくる。「そう」少年も短く返した。おたがいに、聞きたいこと、話したいことがたくさんある。ここでなら、誰の目も気にせずに話せるはずだった。しかし、ふたりはそうしなかった。操縦席と後部席はさほど離れていない。その気になれば、直接声が届く。近すぎず遠すぎない伝声管をとおしての会話。この距離が、今のふたりにはちょうどよかった。
波は穏やかだった。ときおり吹く風は弱く、冷気を帯びている。
しばらく進むと、少年は辺りの明るさに気がついた。海面に反射する光の眩しさにまぶたを少し閉じる。見上げると、雲が過ぎ去ったのか、真円の月が顔をのぞかせていた。その美しさに感嘆の息をもらす。
ふと、視界の端に人影を認めた。いつの間にか、少女が船体を伝ってそばに来ていた。飛行機械の速度はそれなりに出ている。ヒウノは落ち着いて、少女がバランスを崩さないよう注意しながら速度を緩めた。
「――いい?」
「うん、いいよ」
ヒウノは頷いて、少しだけ身を乗り出した。彼女が入れるだけの隙間を作る。「ありがとう」少年の背から、リトの声とともに体温が伝わってきた。
「夜の海は怖いね。操縦桿を握る手が震えているんだ。海に出てから、ずっと」
「……うん。とても怖いわ。でも、こうしていると、少しだけ怖くない」
そう言ってリトはヒウノに体を預け、瞳を閉じた。
少年は待つことにした。少女が口を開くそのときまで、自分からはなにも聞かずにおこう、と。
少女には迷いがあった。なにを、どこまで話せば、ここまで一緒に来てくれた少年に報いることができるのだろう。知ってしまえば、彼をもっと困らせるかもしれない。もう、ともに歩んでくれないかもしれない。そう思うと、ひとつの言葉さえ絞り出せなかった。
そのとき、飛行機械の駆動音が止んだ。
「リト、空を見て」
出し抜けに少年に声をかけられ、少女は困惑した。少年は彼女のほうへと向き直り、構わず続ける。
「君と出会った夜もこうだったよ」
その声と表情の明るさが、リトにはとても眩しい。あまりに眩しすぎて、少年の顔を正面から見られなかった。「ほら」と促され、リトはゆっくりと空を見上げた。
「きれい……。本当に……」
夜空を見上げる機会なんていくらでもあったはずだ。もっと近い位置から、何度も月を見ていた。けれど、なぜ今夜の月は、こんなにもきれいに見えるのだろう。少女は目頭が熱くなるのを感じた。この感情を抑える必要なんてない。頬をつたう涙を拭わずに、少女はまっすぐにヒウノを見た。
「ありがとう。あの森でわたしと出会ってくれて、今日まで一緒にいてくれて、本当にありがとう……」
少年は微笑んで、わずかに首を縦に振る。
「きっと、あと少ししたら話せる勇気が出ると思うの。ぜんぶ。それまで、待っていてくれる……?」
「待つよ。君が話せるようになるそのときを、僕は必ず待つ。だからね――」
ヒウノは少女の両手を取って力を込めた。
「大変なこともあるけれど、この旅を続けたいんだ。君と、一緒に」
少女は、とてもではないが、込み上げてくる感情を抑えられそうになかった。ひどい顔をしているだろう自分を見られたくなくて、リトはたまらずヒウノの胸に顔を埋めた。肩を震わせながら何度も何度も繰り返した。「ありがとう」と。
第35話 終
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