第七十話 地図の外にも、帰る道がある
地図の端には、線が途切れる場所がある。
道がなくなったわけではない。紙がそこまでしか描かれていないだけだ。
地図の外にも、町がある。川があり、山があり、国境があり、知らない家がある。
そして、外へ出た人が戻ってくる道がある。
◇
夏の終わりまで、あと二か月。
第二集合所の壁へ。
新しい地図を掛けた。
これまでの生活地図より。
横に長い。
左端。
帰り火。
西門。
待避所。
旧石橋。
境見街道。
その先。
ヴァリス公国へ向かう領境の道。
右下。
川港。
灰河諸市同盟の北港へ続く川。
上。
セレナ森人領。
角狼の峠。
岩背猪が移った谷。
全部。
同じ大きさではない。
距離も。
完全には正しくない。
隊商の図。
役所の地図。
森番の記録。
旅人の話。
重ねて作った。
「ここ、空白」
ルナが地図の西端を指す。
「ヴァリスの奥」
「行った人が少ない」
「ラダさんは知ってる」
「公国の地図は、勝手に写せない」
「どうして?」
ラダが答えた。
「坑道と採石場は、国の財産だ」
「魔物の道は?」
「公国でも、全部は公開しない」
地図には。
描かない理由も書く。
知らない。
確認できない。
公開しない。
三つを。
同じ空白にしない。
「こっちは?」
ユリが灰河の南を指す。
「港町がいくつあるの?」
サイラが。
町の名を。
一つずつ書く。
北港。
白堤市。
三橋市。
南港市。
「同じ国?」
「同盟」
「王様はいない?」
「それぞれの町に評議会がある」
「喧嘩しない?」
「する」
「道は?」
「川がつなぐ」
「橋は?」
「町ごとに違う」
国が違えば。
土地の決め方。
道の守り方。
魔物を知らせる仕組み。
全部が違う。
でも。
水は高い方から低い方へ流れる。
火は。
空気がなければ弱くなる。
木は。
濡れ続ければ傷む。
違う国でも。
変わらないものがある。
変わらないと思ってはいけないものもある。
◇
テオたちの家は。
完成したあとも。
少しずつ変わっていた。
最初の一部屋。
動かせる仕切り。
雨水樋。
貯水桶。
その横へ。
土管を使った小さな洗い場。
試験窯で焼いた土管は。
全部が使えたわけではない。
十本。
焼いた。
三本、割れた。
二本、水を吸いすぎた。
一年の試験へ使えるのは。
五本。
「半分だけ」
ユリが言う。
「最初なら、十分」
マルナが答えた。
「次は、もっと良くなる」
割れた管は。
砕き。
次の土へ混ぜる。
失敗した形も。
記録へ残す。
家の壁には。
小さな焼き札。
五人の印。
川。
鍋。
三つの子どもの手。
そして。
屋根から桶へ落ちる水。
「三年前の空き地」
ミラが言う。
「ああ」
「家の印、描いたね」
「一緒に」
「忘れてない?」
「今回は」
「今回は?」
「前も忘れてない」
「声をかけずに部屋へ入る人だから」
「それは、もうしてない」
「最近は」
ミラが笑う。
◇
出発の準備も。
始まっていた。
俺は。
川港を経て、灰河の北港へ。
ミラは。
ヴァリス公国へ。
同じ日に。
帰り火を出る。
境見街道の分かれ道まで。
一緒。
そこから。
南と西。
「荷物、多くない?」
ミラが俺の袋を見る。
「図面板。縄。測量杖。着替え」
「鋸は?」
「北港にある」
「自分のがいいって言ってた」
「重い」
「ガルドさんが聞いたら怒る」
「必要な道具は現地で借りる」
「成長したね」
「何でミラが言う」
「前は全部、自分で持とうとしたから」
ミラの荷物。
火消し布。
厚い手袋。
小さな火皿。
着替え。
エナが縫った袋。
「そっちも多い」
「火の道具」
「公国にある」
「自分のがいい」
「同じじゃないか」
「火は違う」
「鋸も違う」
二人で。
荷物を減らす。
増やす。
また減らす。
「帰る札は?」
ルナが持ってきた。
二枚。
同じ大きさの木札。
俺の札。
釘。
ミラの札。
小さな火。
裏には。
出発日。
向かう場所。
戻る予定。
同行者。
知らせを送る場所。
「無事の印は?」
ルナが尋ねる。
「手紙へつける」
「何日ごと?」
「北港は十日」
俺が答える。
「ヴァリスは?」
「七日」
ミラが言う。
「遅れたら?」
「次の隊商」
「戻る日は?」
「冬の初め」
「何日?」
「まだ決まらない」
「分からないって書く?」
「ああ」
「でも、帰る?」
ミラと。
顔を見合わせる。
「帰る」
二人で答えた。
◇
出発の話をすると。
エナは。
驚かなかった。
「行っておいで」
それだけ。
「心配じゃない?」
ミラが尋ねる。
「心配ですよ」
「なら」
「心配だから、行かせないとは言いません」
エナは。
最初の家の柱へ手を置いた。
三年前。
長さの違う木を組み。
小さな屋根を支えた柱。
増築したあとも。
この柱だけは残してある。
「二人とも、大きくなりました」
「まだ子ども」
俺が言う。
「そうですね」
「知っていることだけは、大人みたいだけど」
口にして。
エナを見る。
俺は。
前の世界のことを。
誰にも全部は話していない。
エナにも。
ミラにも。
けれど。
昨日までのレオとは違うことを。
エナは、最初から責めなかった。
「知っていることが多くても」
エナが言う。
「今のあなたが、一人で大人になる必要はありません」
胸の奥へ。
言葉が落ちる。
「誰かへ聞きなさい」
「はい」
「分からないと言いなさい」
「はい」
「帰る場所を、忘れないで」
「はい」
今度は。
すぐ答えた。
◇
出発の前。
帰り火の当番を。
もう一度確認した。
水。
火。
道。
記録。
森。
俺とミラの名前は。
主担当にない。
「本当に大丈夫?」
ミラが尋ねる。
「心配?」
「少し」
「俺も」
北柵の木栓。
窯の灰。
見張り台。
雨水桶。
全部。
見に行きたくなる。
でも。
担当がいる。
「何かあったら、知らせる」
カイが言う。
「戻ってくるまで待たない」
「それでいい」
俺は答えた。
「勝手に直すぞ」
ベルンが言う。
「記録は残して」
「面倒だ」
「残して」
「分かった」
「本当に?」
「お前の分かったより信用できる」
三年前。
何度も言われた言葉。
今は。
ベルンが使う。
◇
夜。
俺とミラは。
新しい地図の前へ残った。
帰り火。
俺たちの家。
テオたちの家。
新しく来た人の仮宿。
空けてある防火地。
北柵。
窯。
見張り台。
そこから。
線が。
町の外へ伸びている。
「地図の外に行くと思ってた」
ミラが言う。
「描き足したから、外じゃなくなった」
「もっと先は空白」
「行ったら描く?」
「全部は描けない」
「見せられない場所もある」
「分からない場所も」
「でも」
ミラは。
帰り火へ指を置く。
「帰る場所は描ける」
「ああ」
「別々の道でも?」
「最後は、ここにつながる」
「本当に?」
「帰るって書いた」
「板に?」
「地図にも」
川港を経て北港へ向かう線。
ヴァリスへ向かう線。
どちらも。
帰り火から始まる。
片方だけの矢印にはしない。
行く道と。
戻る道。
二本。
細く描く。
「一緒に出るね」
ミラが言う。
「分かれ道まで」
「その先は?」
「別々」
「冬に?」
「ここで会う」
「遅れたら?」
「知らせる」
「帰る?」
「帰る」
同じ問い。
今度は。
迷わない。
地図の外にも。
帰る道がある。
見えないからといって。
ないわけではない。
ただ。
戻るためには。
出る前に。
どこへ知らせ。
誰が待ち。
何を目印に帰るのかを、残しておく。
最初に建てた家は。
三人が並んで眠れるだけだった。
そこから。
道ができ。
町が育ち。
国の違いを知り。
魔物の通る場所を知った。
俺たちは。
同じ家の中に。
別々の寝場所を持った。
そして今。
別々の道へ。
同じ帰る場所を持って出ていく。
地図は。
まだ完成していない。
帰り火も。
俺たちも。
空白は。
消された場所ではなく。
これから確かめる場所として残っている。
その空白へ次の線を引くために、俺たちは町の外へ出る準備を始めた。
◇
出発までの二か月は。
待つだけの時間ではなかった。
最初に。
知らせを送る試験をした。
俺は。
旧石橋から、川港へ向かう隊商に小さな板を預け、そこから北港行きの船便へ載せてもらう。
ミラは。
境見宿から戻るラダへ、ヴァリス式の火守札を預ける。
どちらも。
帰り火へ返事が戻るまでの日数を測る。
俺の板は。
六日で戻った。
ただし。
荷札と一緒に濡れ。
下の二行が読めなくなっていた。
ミラの札は。
九日。
公国の文字で書かれた返事は届いたが。
帰り火で読めるのはラダだけだった。
「無事って書いてある?」
ルナが尋ねる。
「試験札を受領。火守組合への道は通行可。同行予定は三人。途中で一泊」
ラダが訳す。
「ミラのことは?」
「これは試験札だ。まだ行っていない」
「本番で、ラダさんがいなかったら?」
返事が来ても。
読めなければ。
届いていないのと同じになる。
公国の文字。
王国の文字。
火の印。
道の印。
三つを並べた共通札を作る。
元の文章は消さない。
横へ。
帰り火での読み方を足す。
「灰河の返事は?」
俺の板を見る。
水で消えた文字。
「木へ刻む?」
カイが尋ねる。
「全部刻むと、書くのに時間がかかる」
「無事の印だけ、刻む」
ミラが言った。
丸の中に。
帰り火の小さな炎。
本人が無事で。
戻る予定が変わっていないとき。
手紙の端へ刻む。
予定が変わったときは。
炎の横へ。
日付。
場所。
理由。
「誰かが真似したら?」
リゼが尋ねる。
俺とミラは。
それぞれ別の小さな傷を。
印の中へ入れた。
俺は。
炎の下へ短い横線。
ミラは。
右側へ二つの点。
完全な証明にはならない。
でも。
途中で板が入れ替わったとき。
気づく手がかりになる。
◇
次に。
家を離れる訓練をした。
大げさに聞こえる。
けれど。
三年間。
朝には同じ家から仕事へ出て。
夜には、どちらかの音が仕切りの向こうにあった。
それが三か月なくなる。
「使わない部屋は、閉める?」
ミラが尋ねる。
「閉めきると湿る」
「週に一度、エナさんに開けてもらう?」
「高い窓は届かない」
「ルナへ頼む」
「勝手に入る?」
「掃除の札があるときだけ」
ミラの仕切りへ。
不在。
換気日。
入ってよい人。
三つの印。
俺の作業部屋へも。
道具の貸出札。
誰が。
何を。
いつ戻すか。
「自分が戻る前に、木槌がなくなってたら?」
ミラが笑う。
「ガルドさんが持っていく」
「俺の工房に置いた物を、俺が持っていって何が悪い」
外から声が返る。
「聞いてたのか」
「壁が薄い」
「仕切りは閉じてる」
「声は止めない壁なんだろ」
三年前に作った仕切りの説明を。
ガルドまで覚えていた。
◇
ガルドの工房では。
出発前の最後の仕事として。
俺一人で、雨戸を一枚作った。
「北港へ持っていく?」
ルナが尋ねる。
「持っていかない」
「じゃあ、何のため?」
「留守の間に使う」
南列の家。
冬前に。
古い雨戸を替える予定だった。
俺がいない三か月でも。
別の人が取りつけられるよう。
寸法。
木栓の位置。
上下の印。
全部を板へ残す。
最後に。
取りつける人の名前は書かない。
「誰がやるか、決まってない」
「戻るまで待てば?」
「待たなくていい」
口にすると。
少し寂しかった。
俺が直すはずだった家を。
別の人が直す。
でも。
そのために、教え方と記録を作ってきた。
「帰ったら、外れ方を見る」
ガルドが言う。
「外れる前提?」
「お前の最初の一枚だぞ」
「三年やってる」
「一人で、最初から最後まで作ったのは初めてだ」
「見てた」
「口は出してない」
「二回出した」
「二回で済んだ」
褒められているのかもしれない。
◇
ミラは。
出発前の最後の夜番を。
共同窯で過ごした。
俺は。
頼まれていないので。
線の外から見ていた。
「何しに来たの」
「見送り」
「まだ出発じゃない」
「最後の夜番」
「戻ったら、またする」
「三か月後」
ミラは。
窯の火口を見たまま。
「行くの、嫌になった?」
と尋ねた。
「少し」
「私も」
「じゃあ」
「でも、行く」
「俺も」
窯の火が。
強くなる。
ミラは。
俺へ確認せず。
火番の札を一つ下げた。
薪を止め。
空気口を狭める。
「今、弱める?」
「内側の色が変わった」
「ラダさんは?」
「向こうで見てる」
ラダは。
何も言わない。
ミラの判断で。
火は、ゆっくり落ち着いた。
俺がいなくても。
ミラは火を止める。
ミラがいなくても。
俺は道の水を見る。
同じ場所へ戻るために。
同じ仕事を持つ必要はない。
夜番が終わると。
ミラは火守札を自分で記録箱へ戻した。
「次はヴァリスで?」
「うん」
「帰ったら教えて」
「レオも、川の道を」
「全部は覚えられない」
「分からないところも書いて」
「分かった」
「レオの分かったは?」
「前より信用できる」
ミラは笑った。
◇
それから二か月。
夏の終わり、出発の日が来た。
空が白む前に。
俺は、家の中で目を覚ました。
最初の一部屋。
今は食事をする場所になっている。
エナの部屋。
ミラの仕切り。
青い細い窓。
俺の作業板。
増築した場所を、一つずつ見る。
荷物は。
前の夜にまとめた。
それでも。
使い慣れた木槌へ手が伸びる。
「持っていくの?」
後ろからミラの声。
「起きてた?」
「今」
「声、二回かけてない」
「ここ、私の仕切りの外」
「そうだった」
木槌を。
袋へ入れようとして。
戻す。
北港には道具がある。
全部を持っていけば。
知らない道具を使う機会まで減る。
「置いてく」
「ガルドさんに言われた?」
「自分で決めた」
「珍しい」
「失礼だな」
エナも起きていた。
小さな包みを、二つ用意している。
黒パン。
乾いた果物。
薬草。
「同じ中身?」
ミラが尋ねる。
「ミラの方には、火傷の薬を多く」
「レオは?」
「手の傷の薬」
「同じじゃない」
「行く場所が違いますから」
同じ家を出る。
でも。
必要になる物は違う。
外へ出ると。
帰り火の人たちが、道の両側へ集まっていた。
「見送りはいらないって言った」
俺が言う。
「お前の言うことを聞く日じゃない」
ベルンが答えた。
ルナは。
二枚の小さな記録板を持っている。
一枚。
灰河北港。
もう一枚。
ヴァリス火守組合。
出発日。
同行者。
最初の宿。
次に知らせを出す場所。
「帰る日は、空白」
ルナが言う。
「冬の初め」
「日にちは?」
「分からない」
「分からないって書いた」
空白にしない。
分からないと書く。
その下へ。
帰る予定あり。
太い線。
「絶対?」
ルナが尋ねる。
「予定」
俺は答えた。
「でも、帰る」
「矛盾してる」
「予定は変わる。帰る場所は変えない」
ガルドは。
工房の前に立っていた。
何も渡さない。
「行ってきます」
俺が言う。
「道具を壊すな」
「俺のじゃない」
「借り物なら、なおさらだ」
「帰ったら」
「帰ってから言え」
いつもと同じ。
それが。
少しありがたかった。
ネッサは。
ミラへ、灰色の細い紐を渡した。
「何?」
「灯蛾が寄りにくい草を編んである。火の近くへ置け」
「効く?」
「土地で違う」
「ヴァリスでは?」
「試して、記録しろ」
ミラが笑う。
「分かった」
「お前の分かったは?」
ネッサがガルドを見る。
「俺に聞くな」
西門を出る。
朝の道。
待避所。
重車の石列。
水捨て場。
見張り台。
斜め柵。
自分たちで作ったものが。
後ろへ流れていく。
境見街道の分かれ道まで。
俺とミラは、並んで歩いた。
昔なら。
手を引かれたかもしれない。
今は。
荷物を、それぞれ自分で持つ。
「ここだね」
南へ。
川港。
その先は船で、北港。
西へ。
ヴァリス。
道標が二つ。
俺の同行者は、道路局の技官たち。
ミラの同行者は、ラダと公国へ戻る隊商。
「先に帰ったら?」
ミラが尋ねる。
「待つ」
「どこで?」
「家」
「集合所じゃなく?」
「家」
「仕切り、勝手に開けないで」
「帰ってなくても?」
「帰ってから」
「二回、声をかける」
「うん」
少しだけ。
言葉が途切れる。
「じゃあ」
俺が言う。
「行ってくる」
「行ってきます」
ミラも。
帰り火の方へ、同じ言葉を向けた。
それから。
南と西へ。
別々の一歩を踏み出す。
振り返る。
ミラも、振り返っていた。
手を上げる。
向こうも上げる。
次に振り返ったとき。
道の曲がりで、姿は見えなくなった。
それでも。
帰る道は、なくならない。
地図の上だけではなく。
待つ人と。
残した記録と。
戻ると決めた言葉の中に。
道は続いている。




