第五十五話 井戸は、人の数だけ深くならない
人が増えれば、水を汲む桶も増える。
けれど、井戸の底が人の数に合わせて、勝手に深くなるわけではない。
水は地面の中を通り、雨のあとに集まり、少しずつ井戸へ戻る。
使う速さが戻る速さを越えれば、井戸はいつか空になる。
◇
テオたちの家は。
柱と梁まで組み上がった。
屋根は、まだない。
空を見上げられる骨組みの中で。
マルナが、地面へ家の間取りを描いている。
「ここが寝る場所」
大人二人。
子ども三人。
並んで眠れる幅。
「仕切りは?」
ユリが尋ねる。
「ここ」
マルナが、床へ二本の線を引く。
夜は布を閉じる。
昼は開ける。
「弟たちは?」
「こっち」
「お父さんとお母さんは?」
「奥」
「わたしは?」
ユリの質問が続く。
「最初は、みんな同じ部屋」
「でも、仕切る」
「着替えるときだけ」
「寝るときも」
マルナが困った顔をする。
「布が足りない」
「古い天幕がある」
ミラが言った。
「雨に使うには傷んでるけど、家の中なら使える」
「もらっていいの?」
「仕事で返す」
ユリが言う。
「何をする?」
「雨水の桶を洗う」
ミラは、家の外へ置かれた三つの大桶を指した。
割れた樽を直したもの。
内側には。
水が漏れにくいよう。
樹脂と灰を薄く塗ってある。
「私もやる」
「最初の水は飲まないからね」
「何に使う?」
「土を練る。道具を洗う。火を消す」
飲み水ではなくても。
水には、いくつも使い道がある。
◇
屋根の形を決めるため。
俺たちは、雨の降り方を調べた。
この町では。
西から強い風が来る。
春の雨は短く。
夏の終わりには、長く降る。
屋根を大きくすれば。
集められる水も増える。
しかし。
「家より屋根が大きい」
ガルドが図を見る。
「軒を深くする」
「風で持ち上がる」
「柱を増やす?」
「材料が増える」
「雨水を集めるためだけに、屋根を大きくするのは?」
俺が尋ねると。
ガルドは首を横に振った。
「家へ必要な屋根を先に決めろ。水は、その形で集められる分を使え」
水のために。
家を危険にしてはいけない。
屋根の勾配。
風。
支え。
そのあとに。
樋をつける。
「屋根の片側だけで、どれくらい溜まる?」
ミラが尋ねる。
前世なら。
屋根の面積と。
降った雨の量で。
おおよそ計算できる。
だが。
この世界に。
雨量計はない。
「桶を置いて測る」
俺は答えた。
「家ができる前に?」
「小さい屋根を作る」
「また試験?」
「一度で大きい貯水槽を作って、足りなかったら困る」
「多すぎても?」
「桶があふれる」
「地面が濡れる」
「柱の近くへ流れる」
「だから、あふれた水の出口もいる」
ミラは。
もう俺が言う前に。
次に必要なものを考える。
◇
試験用の屋根は。
俺たちの家の横へ作った。
板四枚。
赤樺の皮。
木の樋。
下に。
同じ大きさの桶を三つ。
一つ目。
屋根へ落ちた最初の水を受ける桶。
二つ目。
洗い水用。
三つ目。
あふれた水を排水溝へ送る。
「雨、降る?」
ルナが空を見る。
「今夜」
ネッサが言った。
森の匂いと。
風の湿り方で分かるらしい。
「魔法?」
「鼻だ」
「森人の?」
「人より少し利くだけだ」
「雨の魔法は?」
「使える者はいる。だが、町一つへ雨を降らせるほどの術者は、王都にもほとんどいない」
「国で違う?」
ルナは。
最近、隊商の話を聞いてから。
何でも国の違いへ結びつける。
「灰河同盟には、水を動かす術者が多い」
ネッサが答えた。
「川船と堤に使うからな」
「ヴァリス公国は?」
「石と火」
「アルネア王国は?」
「広い」
「それ、魔法?」
「土地だ」
ネッサは笑った。
「王国は平地と畑が多い。土と風の術者が働く。だが、魔法だけで畑を耕しているわけじゃない」
この世界にも。
国ごとに、得意な技術がある。
地形。
材料。
暮らし。
必要とされる魔法も変わる。
けれど。
どの国でも。
雨を好きなだけ降らせることはできない。
井戸を。
人数に合わせて深くすることもできない。
◇
夜。
雨が降った。
最初は小さい。
やがて。
屋根を叩く音が強くなる。
俺とミラは。
試験屋根の横へ立った。
「一つ目、いっぱい!」
ルナが叫ぶ。
最初の桶。
屋根の汚れを含む水。
横の溝へ流す。
次の水が。
二つ目へ入る。
木の樋から。
途切れず落ちる。
「思ったより早い」
ミラが言う。
「桶、替える」
三つ目へ。
あふれた水を送る。
排水溝へ流すはずだったが。
樋の継ぎ目から。
水が漏れた。
「ここ!」
ミラが指す。
縄で締めた場所。
木が水を吸い。
継ぎ目が動いている。
「楔を入れる」
「雨の中で?」
「今止めないと、柱の方へ流れる」
小さな木片を。
継ぎ目へ差し込む。
強く打たない。
木が膨らんだ分を見ながら。
一度。
二度。
漏れが細くなる。
「止まった」
ミラが手をかざす。
「完全じゃない」
「桶へ入る方が多い」
「今日はそれでいい」
雨がやんだあと。
桶の水を測る。
試験屋根一枚で。
洗い物に使える水が。
思っていたより多く集まった。
「全部の屋根につけたら?」
ユリが尋ねる。
「全部の家で使える」
「井戸を使わなくていい?」
「飲む水は井戸」
「じゃあ、井戸は減らない?」
「減る。でも、前よりゆっくりになる」
水を増やすのではない。
井戸から取る量を減らす。
空から落ちる水を。
地面へ捨てる前に使う。
◇
集めた雨水は。
その日のうちには、澄んで見えた。
けれど。
二日置いた桶の蓋を開けると。
湿った木と。
少し酸っぱい匂いがした。
「飲んでないのに、腐るの?」
ユリが鼻を近づける。
「近づけすぎるな」
マルナが引き戻した。
桶の底には。
細い草。
黒い煤。
屋根から流れた小さな虫。
最初の水を分けても。
全部は取り切れていない。
「蓋をしてた」
ミラが言う。
「蓋へ隙間がある」
俺は木蓋を持ち上げた。
板が乾き。
指一本ほど反っている。
雨のあと。
水を集めるときだけ開けたつもりでも。
風で、埃が入る。
「布をかぶせる?」
「濡れた布が水へ触れたら、そこから傷む」
マルナが、灰河で使っていた形を地面へ描いた。
桶の上へ。
直接蓋を置かない。
少し高い枠を作り。
その上へ傾けた板を載せる。
空気は横から抜ける。
雨と埃は入りにくい。
「水を貯めるのに、空気を入れる?」
ルナが尋ねる。
「閉じきった桶は、匂いがこもる」
ただし。
虫が入らないよう。
横の隙間へ細い網。
金属は高い。
そこで。
馬の毛と麻糸を交互に張った。
最初の網は。
目が粗く。
小さな虫が通った。
二枚目。
糸を増やす。
水の流れが遅くなり。
強い雨では、樋からあふれた。
「細かければいいわけじゃない」
ミラが、濡れた網を外す。
「また同じだな」
俺は答えた。
入れたくない物を止める。
必要な水は通す。
仕切り。
柵。
水の網。
止める物と。
通す物を、先に決める。
雨水は。
溜めて終わりではない。
毎朝、匂いを見る。
週に一度、桶を空にする。
底を洗い。
ひびと蓋を確かめる。
「水を増やしたら、水番の仕事も増えた」
ルナが記録板へ新しい欄を足す。
「井戸を使うより面倒?」
ユリが尋ねる。
「面倒を分けるために作る」
井戸だけへ。
全員の負担を集めない。
その代わり。
屋根と桶を持つ家が。
自分たちの水を、自分たちで見られるようにする。
◇
翌朝。
井戸の水位は。
前日より少し戻っていた。
雨の水が。
すぐに井戸へ入ったわけではない。
地面へ染み。
時間をかけて戻る。
「屋根の水を全部桶へ入れたら、井戸へ戻る水が減る?」
ルナが尋ねる。
「使ったあと、地面へ戻す」
俺は答えた。
「汚れた水も?」
「そのまま井戸の近くへ捨てない」
洗い水。
灰。
油。
汚れ。
地面へ戻せる水と。
戻してはいけない水がある。
「水は、一度使ったら終わりじゃない」
ミラが言った。
「戻る場所まで考える」
家の屋根。
桶。
洗い場。
浸み込ませる場所。
排水路。
井戸。
一つの水が。
町の中を回る。
「家を建てていい?」
ユリが尋ねる。
「もう建て始めてる」
「屋根は?」
「今日上げる」
「水は足りる?」
「今のままなら、ぎりぎり」
「ぎりぎり?」
「だから、雨水を使う」
安心させるために。
足りると言い切ることもできた。
けれど。
ぎりぎりなら。
ぎりぎりだと伝える。
そのうえで。
何を変えるかを、一緒に決める。
井戸は。
人の数だけ深くならない。
だから。
町の方が。
水の量に合わせて、使い方を変えなければならない。
ただ、それは雨が降った日の話だ。
雨がない日でも同じように水を減らせるかは、まだ試していなかった。
◇
雨の試験だけでは、足りない日を想像しきれない。
そこで翌日の昼。
共同井戸へ、赤い布を掛けた。
井戸が壊れたわけではない。
半刻だけ。
飲み水と炊事以外には使わない試験。
「洗濯が途中なんだけど」
サラが濡れた布を抱えている。
「雨水桶を使う」
「貯めてある雨水だけじゃ、全部は足りない」
「どこまでならできる?」
「泥を落とすところまで。最後のすすぎは無理」
「なら、今日は泥だけ落とす」
「仕事が一日遅れるよ」
「試験だから」
「本当に井戸が減った日も、同じことを言うの?」
返事に詰まる。
仕事を止めれば。
売る物が減る。
食べ物を買う金も減る。
水を守るための決まりが。
誰か一人の暮らしだけを先に止めるなら、長くは守られない。
木場では。
削った材を洗う桶を、職人が井戸へ持ってきた。
「飲む水じゃない」
ルナが赤い布を指す。
「この樹脂は、雨水だと落ちにくい」
「今日は何本洗う?」
「十六本」
「今日使うのは?」
「四本」
「なら、四本だけ」
ガルドが言った。
「残りは明日だ」
「納期が」
「使わねえ材を洗うために、飲み水を減らすな」
職人は不満そうだったが。
四本だけを選び直した。
全部か、何もしないかではない。
今必要な分を先にする。
試験の途中。
井戸の裏で、ユリが小さな桶へ水を汲んでいるのを見つけた。
「赤い布、見えなかった?」
俺が尋ねる。
ユリは桶を隠そうとした。
「コナの服が汚れたの」
「雨水を使える」
「匂いがする」
幼い弟の服には。
川から逃げる途中でついた泥の臭いが、まだ残っているらしい。
「お母さんが、我慢しなさいって」
ユリは俯いた。
記録板の「洗濯」という一つの欄では。
売り物の布。
仕事着。
病人の寝具。
幼い子の汚れた服。
全部が同じに見える。
「病人の洗い水の次に、幼い子の衛生を入れる」
ミラが言った。
「勝手に増やす?」
ルナが尋ねる。
「勝手じゃない。今、必要だと分かった」
「でも、みんな自分の水を必要って言うよ」
「だから理由も書く」
熱。
傷。
排泄物。
食べ物に触れる布。
水が少ない日でも、先に洗う物。
後にできる物。
記録板を、使う場所だけでなく。
使う理由で分け直した。
「私たちが来たから、また決まりが増えた」
ユリが小さく言う。
「来たから、足りなかった欄が見つかった」
ミラが答えた。
「隠して汲まなくてもいいようにするための欄だよ」
試験の半刻が終わったとき。
井戸から使った水は、普段の六割ほどだった。
誰も喉を渇かせなかった。
ただ。
洗い残した布。
後へ回した木材。
汚れた桶。
止めた分は、翌日へ残る。
「節水したら、仕事が消えるんじゃなくて、溜まる」
俺が記録を見て言う。
「長く続けたら?」
ミラが尋ねる。
「人手を変える。水を使わない仕事へ回す。雨水桶を増やす」
「それでも足りなかったら?」
「新しい家を止める」
テオが、少し離れた場所でその言葉を聞いていた。
目が合う。
「先に言ってもらえる方がいい」
テオは言った。
「建ててから、水がないと言われるより」
家を増やす条件は。
建てられるかどうかだけではない。
足りなくなったとき、何を止めるか。
その痛みを、誰か一人へ隠して渡さないことも含まれていた。
◇
家を建ててよいかを決める会議では。
水が足りるか、だけを聞かなかった。
何を井戸から取るのか。
何を雨水へ替えるのか。
桶が空になったとき、誰へ知らせるのか。
長く雨が降らなかったとき、どの仕事を先に止めるのか。
順番を決めた。
一番目。
飲み水。
二番目。
炊事。
三番目。
病人の洗い水。
そのあとに。
洗濯。
土練り。
木場の洗浄。
「仕事を止めたら、稼げない」
木場の男が言った。
「飲む水がなくなれば、仕事どころじゃない」
ベルンが返す。
「木場だけ我慢しろって?」
「全部の仕事に順番をつける」
ミラが記録板を持ち上げた。
パン窯。
洗い場。
石工。
試験窯。
共同炊事。
水を使う仕事へ。
平常。
節水。
停止。
三つの印をつける。
「誰が節水へ変える?」
ハーレンが尋ねる。
「井戸の水位が、基準石から三つ半を下回ったら」
ルナが答えた。
「一回で?」
「朝と夕方、二回続いたら」
「夜に急に減ったら?」
「水番が止められる」
止めた人を。
あとで責めない。
必要がなかったと分かっても。
記録して、次の基準を直す。
火と同じ。
水にも、止める条件がいる。
「テオさんたちの家は?」
サラが尋ねる。
全員が。
地図の空き地を見る。
「建てる」
俺は答えた。
「条件つきで」
屋根へ雨樋。
最初の水を分ける桶。
洗い水の浸み込み場。
井戸水を使った桶数の記録。
最初のひと月。
テオたちだけに負担させない。
新しく仕組みを作るなら。
帰り火の既存の家も、順番に同じ雨水樋をつける。
「新しく来たから、厳しい決まりを守るんじゃない」
マルナが確認する。
「全員の水を守るために、先に試す」
ミラが答えた。
「うまくいったら、ほかの家にも使う」
「失敗したら?」
「直す」
ユリが先に言った。
「失敗した形も、板に描くんでしょ」
「ああ」
家の屋根を上げる日。
最初の一枚を置いたのは、テオだった。
次をマルナ。
ユリは、樋を支える小さな受け木を削った。
弟たちは。
使えない端材を、薪用と楔用へ分ける。
帰り火の人たちも手を貸した。
ただ。
三年前のように、全員が同じ場所へ集まって、誰か一人の指示を待つ形ではない。
屋根。
仕切り。
桶。
排水。
仕事を分ける。
途中で。
樋の傾きが逆になっていることへ、ユリが気づいた。
「こっちが低い」
「図では、反対だ」
俺が言う。
「でも、家が少し傾いてる」
地面から見る。
確かに。
柱の高さはそろっているが。
軒先の板が一枚だけ厚い。
図の線ではなく。
実際の水が流れる方へ合わせる。
樋の受け木を削り直す。
「図を守らないの?」
ユリが尋ねる。
「水を守る」
「図は?」
「直す」
完成したあと。
新しい図へ。
変更した高さを描き足した。
家は。
紙の上に住むわけではない。
雨と。
風と。
地面の上に立つ。
その場所へ合わせて変えたことも。
次に直す人へ残さなければならない。




