第97話 凍れる月の玉座
星々すら見えない暗黒の空。
文明の光では到底、照らすことのできない闇の中で、白銀に輝く光源があった。
それは月だ。
欠けることのない、白銀の満月だ。
けれども、それは本物ではない。宇宙空間に存在する衛星ではない。紛い物だ。超越存在の肉体の一部に過ぎない。
故に、本物よりも手の届かない場所に存在する。
宇宙空間よりも遥かに高く、限りなく高次元に近しい位相の場所に。
「佐藤大翔。端役はいい加減、退場する時間ですよぉ」
そして今、超越存在ならざる身でありながら、その『凍れる月』に立つ者たちが居る。
二人。
人間離れした位階にありながらも、辛うじて人間である者が、二人。
「長い後日談なんて要りません。久遠さんが敗北した瞬間、全てが終わったのです。なのに、佐藤大翔――――お前がいつまでも邪魔をするから、幕を下ろせないじゃないですかぁ」
一人は黒幕。
二体の超越存在を招き、世界に滅びをもたらそうとする邪悪。
彼女は真っ黒なローブを頭から被り…………しかし、いつものように闇は纏えていない。姿を隠す闇も、不死の保証である怪物化もできていない。
ただ、背後の玉座にて君臨する『人型の吹雪』からの庇護を受けているのか、その周囲は冬の権能で守護されている。
「おいおい、随分と吠えるじゃないか、負け犬」
しかし、その権能も向けられる罵倒は防がない。
これは必要な対話であるが故に。
「勘違いしているようだが言っておくぞ。これはお前の物語なんかじゃない。俺たちが世界を救うための物語だ――――惨めな敗北者こそ、さっさと退場しろ」
一人は勇者。
二体の超越存在と対話し、滅びに抗おうとする弱者。
けれども、弱者――大翔には確かに、この場に居る資格がある。数多の冒険を乗り越え、権能を集め、限りなく超越存在に近い人間となった大翔は、黒幕よりも遥かにこの場に相応しい格の持ち主だった。
だからこそ、背後の玉座に君臨する『黒猫』からの庇護を受けている。限りなく対等な関係で、全面的な協力を取り付けている。
「くふふ、吠えているのはどっちでしょうねぇ?」
「少なくとも、負けているのはお前だけどな?」
黒幕と勇者は相対する。
冬と夜。
二つの玉座に君臨する、二体の超越存在を対立させながら、敵意をぶつけ合う。
そう、たった二人の人間が、超越存在すら巻き込む戦いを始めようとしているのだ。
「取るに足らない小石に躓いたことを、お前は敗北と呼ぶのですか?」
「え、お前は呼ばないの? うっわぁ、無駄なプライド」
「そちらこそ、随分と安いプライドの持ち主なのですねぇ?」
「おうとも。だから、たくさんの仲間に恵まれたし、こうしてお前を追い詰めることができているわけだが…………あれれー? 無駄に高いプライドの持ち主さんは、ひょっとしてお一人ですかぁ? 対等な仲間とか居ないんですかぁ?」
「は? 私は慣れ合いを好まないだけですがぁ?」
そして今、前哨戦としてみっともない煽り合いを行っていた。
中学生が学校の廊下で罵り合うレベルのみっともなさであるが、こんな二人でも世界の命運を左右する重要人物である。
「あ、ごめん。そうだよな、いくら世界を滅ぼそうとする邪悪が相手だからといって、こういう煽り方は不味かったよな、ごめんな? いやまさか、本当に一人もそういう相手が出てこないとは思ってなくてさぁ!」
「――――殺す」
「――――ほら、負け犬が吠えた」
冬の女王と夜鯨。
二体の超越存在と共に、世界の命運を決定するための戦い。
その始まりが、人間二人のみっともない罵倒からだったことは、例え大翔が勝利したとしても、後の歴史には残らないだろう。
●●●
大翔が黒幕と幼稚な罵り合いをする、少し前。
「割とすんなりと対面できそうで何よりだね、シラノ」
『《基本的に、冬の女王と夜鯨は温厚な部類の超越存在ですから。まぁ、存在するだけで世界を崩壊させてしまいますが》』
「でも、それも今日までのこと……だよね?」
『《ええ、そうしましょう。恐らく、我々を招き入れるということは、二体の超越存在も救済を望んでいるのでしょうから》』
大翔は一人で、暗黒の空を登っていた。
手段は飛行でも、虚空を足場にする魔術でもない。
白銀の空から地上まで伸びた、真っ白に輝く螺旋階段。二体の超越存在が、大翔を招くために用意した『通路』を登っているのだ。
しかも、ゆったりとした大翔の歩みに反して、白銀の月には驚くほどの速さで近づいていく。明らかに物理法則に反した現象であるが、それもそのはず。白銀の月はこの世界に存在しながら、極めて特殊な空間――存在の位階が高い者しか近づけない場所だ。夜鯨という超越存在の一部だ。当然、そこに至るまでの道順は物理法則、あるいは魔法からも逸脱している。
『《上手く行けば、何事もなく世界を救えるかもしれませんね?》』
「シラノ、それはフラグだよ?」
『《知っています。そして、何を言おうが何かしらの問題が起こるだろうということは予想しているので、逆に楽観的な言葉を言ってみただけです》』
「わぁ、相棒が嫌な方向に悟ってるぅ」
『《それはもう。毎回、トラブルに巻き込まれる相棒と一緒だったので》』
「うぐっ、最近は勇者同盟のことがあるから反論しにくい……」
『《ふふふっ。ですが、そんな大翔だからこそ――ザザザザッ――と、ノイズが来ましたか。どうやら、私ではここまでのようです》』
「そっか。じゃあ、後は任せて……良い感じに上手いことやるよ」
『《ええ、貴方の――ザザザザッ――期待しています》』
大翔が白銀の月に近づいていくと、やがてシラノとの連絡が途絶えた。
超越存在の内部に居るシラノですら、大翔が辿り着こうとする場所の位相までは付いていけないらしい。
そう、大翔は現在一人でいる理由は、つまるところこれだった。
大勢勇者の仲間が居て、頼れるパーティーメンバーにも恵まれた大翔であるが、大翔と同じ位相の場所まで辿り着くことは、他の者たちでは難しい。
最悪、大翔と共に無理について行こうとすれば、良からぬ不可逆的な変化をもたらすかもしれない。
そして、そもそもの話――――大翔が辿り着こうとしている交渉の場所では、あらゆる力や魔術の叡智も意味を為さないのだ。
ならば、余計な被害を避けるためにも、単独で挑むのが最善策だった。
「さぁて、そろそろかな?」
シラノとの通信が途絶えてから、数分――あるいは、数秒。時間の感覚すらも曖昧になる空間を経て、大翔はついにそこへと辿り着いた。
白銀の月。
辿り着いたその場所は、月面というにはあまりにも綺麗な場所だった。
さながら、磨かれた鏡面の如き足場。
実際の月面のように凸凹に歪んでいるわけではなく、均されたような平面。仮にも月を模しているというのに、そこは果ての無い『白銀の平面』が続いているのみ。
唯一の例外は、二つの王座。
向かい合うように置かれた二つの王座のみが、唯一、この殺風景の中で意味を持つオブジェクトに見えた。
「そちらの要望通り、ここまで登って来たよ。冬の女王、夜鯨」
だからひとまず、大翔はその王座に向かって声をかける。
誰も座っていない空の玉座ではあるものの、何かしらの意味は持つだろうと期待を込めて。
すると、その期待通り――否、期待よりも遥かに激しい反応があった。
「っづおぉおおおお!!?」
突如として、猛吹雪が大翔の体を襲ったのだ。
当然、ただの自然現象ではない。冬の女王が用いる理が込められた、あらゆる者を凍らせ、封じるための猛吹雪だ。
大翔に『銀灰のコート』が無ければ、この時点で永遠に凍結することになっていただろう。
「荒々しい歓迎だな! 流石は女王!!」
この猛吹雪を『試練』だと受け取ったのか、大翔はまず『銀灰のコート』を用いて冬の権能を逸らすことを試みる。
通常、人間が超越存在の権能に抗うのは不可能であるが、今の大翔は限りなく超越存在に近い。むしろ、超越存在に成ってから人間に戻ったという、唯一無二の存在である。
従って、本気の一撃でなければ、防ぐことは問題ない。猛吹雪に干渉し、大翔を避けるように操作することも可能だ。
「そして、こいつは御返しだ!」
加えて、今の大翔はここで終わらない。
対話をする前に、少しでも交渉を有利に進めるため――あるいは、己の力を二体の超越存在に見せつけるため、己の権能を振るう。
「君たちの不可逆を否定し、救済する!」
大翔が吠えるように告げると、一際激しい風が吹いた。
さながら、嵐が現れたかのような突風。それは、冬の女王が起こしたであろう猛吹雪すらもあっという間に吹き飛ばして。
『…………おおおおっ!? なにこれ、すっごーい!!』
『なるほど。それがお前の権能なんだね』
猛吹雪が晴れた後、空だった王座にはそれぞれの化身が姿を現していた。
『思考が懐かしい! うわぁ、人間の時みたいな思考ができるぅ! あははは! これはとても素晴らしいね!』
無邪気な少女の声を上げるのは、『人型の吹雪』だ。
びょうびょうと止むことのない風が、真っ白な雪を人型のように留まらせている。
一見すると何かの自然現象か、大精霊が顕現したような姿であるが、冬の女王にとっては紛れもなく、『限りなく人間』に近い姿。
大翔の権能によって戻された『元来の思考』を伴った化身である。
『はしゃぎすぎだよ、女王。その落ち着きの無さの所為で、危うく彼が凍りかけたじゃないか』
中性的な声で、冬の女王の化身を注意したのは、『黒猫』だった。
特に、何の変哲もない、ただの黒猫。言葉を発する以外は、かつて大翔が見て来た猫たちと何ら変わらない姿。
けれども、それは間違いなく夜鯨にとっての化身。
限りなく生命らしく、『元来の思考』が可能な姿である。
「……どうやら、上手くいったみたいだね」
そんな二体の化身の姿を眺めて、大翔は安堵の息を吐く。
救済の権能。
晴嵐燕よりも遥かに劣るそれは、けれども『対象者』が望んでさえいれば、こうして超越存在にすら影響を及ぼすことが可能な力だ。
そう、『理性的な思考を取り戻したい』という望みを反映した化身。それを生み出せるまで、超越存在を『本来の在り方』に近づける事さえも。
これこそが、大翔が晴嵐燕となり、数多の人々の絆で人間に戻ったが故に得た権能。
相手が望んでいるのならば、超越存在の不可逆ですら覆す、救済の能力だった。
「お二人とも! 俺の権能は理解していただけただろうか!?」
そして、この権能こそが、二体の超越存在との交渉に於ける切り札だった。
「俺ならば、お二人の不可逆を否定できる! 超越存在から、元の姿へと戻すことも可能だ! そう、貴方たちが望みさえすれば!」
大翔は強く気持ちを込めて、二体の化身へと呼びかける。
敬意と親しみを込めるため、あえて『人』扱いで。
「その忌まわしい永劫から解放することが可能だ!」
己自身も、晴嵐燕という超越存在に成った経験があるからこそ、実感の籠った言葉で語りかける。
「だから、応えて欲しい! 貴方たちが超越存在でなくなれば、世界が救われる――そんな、俺の打算も承知の上で、応えて欲しい!」
喉が枯れそうなほどに、必死に言葉を振り絞って。
傍から見れば、情けないほどに気持ちを込める。
「どうか――――どうか、俺に! 世界と貴方たちを救わせてくれ!」
大翔の言葉は、これ以上ないほどに本音だった。
世界を救いたいという叫びも。
二体の超越存在を、永劫の地獄から解放したいという想いも。
例え、その相手が故郷である世界を滅ぼす原因だったとしても、大翔の気持ちに一切の偽りは無かった。
何故ならば、大翔は唯一――――超越存在の苦しみに共感できる人間なのだから。
『……んー』
『ふぅん』
交渉と言いつつも、偽ることのない真正面からの宣言。
あまりにも清々しい大翔の言葉を受けて、二体の化身はしばらく沈黙すると、やがて示し合わせたように応答の言葉を重ねた。
『『いいよ』』
そう、あまりにもあっさりとした了承の言葉を。
『ボクは元々、世界を滅ぼそうなんて一度も思っていないからね。それに、お前の権能で元に戻れるのなら、むしろこっちからお願いしたいぐらいだ』
黒猫は、前足で髭を整えながら。
『うーん、よく考えたら世界を滅ぼすのはよくないよね! それに、元に戻れるのなら……うん、それはとても良いことだと思う』
人型の吹雪は、何やらわちゃわちゃと謎のジェスチャーをしながら。
二体の超越存在は、大翔の強い言葉とは裏腹に、あっさりと了承したのである。
救済を受け入れて、世界を滅ぼさないことを。
「…………あ、ああ」
大翔は返って来た言葉を理解するまで、少しの時間がかかった。
あまりにもあっさりとした了承に、戸惑った所為だろう。
しかし、大翔は知っている。この二体の言葉に嘘はないことを。『褒美』により、超越存在と正しく対話する力を持っているが故に、きちんと理解しているのだ。
あっさりとしていようとも、この二体の超越存在は本気なのだと。
「ああ、そうか。よかった、本当によかった。これで――――」
そして、大翔は次の瞬間、思い出すことになる。
忌々しくも、思い知ることになる。
「いやいや、それはちょっと無責任ではぁ?」
世界を救うには、まだ一つ、片付けなければならない問題があることを。
「私との約束通り、ちゃんと世界を滅ぼしてもらわなくては」
邪悪なる黒幕と相対しなければならないことを。




