第94話 超越存在:晴嵐燕
存在が指先から解けていく。
かつん、と壊れた指輪が地面に落ちたが、気にも留めない。そんな音は、すぐに吹き荒れる風に掻き消されたのだから。
「そうか」
大翔を中心として吹き荒れる嵐は、次第に大翔自身の肉体すら吹き飛ばすように、その強さを増していった。
誰もがその風の強さに、目を開けられないほどに。
「俺の場合は、こうなるんだな」
大翔は解けた指先を見る。
すると、肘から下はもはや人の形をしていなかった。千切れた紙切れのように、体は形を失い、ふらふらと吹き飛ばされていく。吹き飛ばされた紙切れは、折り紙の如く形を変えて、多くの鳥へと姿を変えた。
幻想的で、奇怪な光景。
されど、悪夢的と呼ぶにはこの嵐はあまりにも晴れ晴れとしたものだった。
「でも、俺はあんまり好きじゃないんだよな、この鳥」
体が次々と無数の鳥へと変わっていく大翔は、その様子をへらへらと笑う。
鳥の形は真っ青な色の燕で。
綺麗な曲線を描きながら、嵐を受けてどこまでも飛んでいく。
世界の壁すら超えて。
音速も、光速も、物理法則すら超越した速度で。
大翔の理を、全世界へと広げていくのだ。
「庭先の、糞の掃除が大変なんだ」
けれども、大翔の呟きは相変わらず凡庸だ。
平凡で、ありきたりで。
超越的な現象の当事者だというのに、どこまでも普通。
故に、これから誕生する超越存在は、決して他を圧倒しない。他の超越存在よりも遥かに優しく、数多の存在に寄り添うだろう。
だからこそ、この超越存在は全世界を滅ぼす。
「…………皆、ごめん。文句は、後で……いや、後があったら――――」
嵐を引き連れる無数の鳥。
群体にして偏在なる超越存在。
無数の一を救い、やがて全てを掬い取るデウス・エクス・マキナ。
『晴嵐燕』は、こうして世界に誕生したのだった。
◆◆◆
「ソル様、ソル様っ! 今日は良いお天気ですよ、ほら! 一緒にピクニックに行きませんか!? とっておきのお弁当も作りますよ!」
「いや、僕は基本的に良いお天気が苦手で……」
ふと気づくと、ソルは自分が日常の中に居ることを理解した。
人里離れた平穏な屋敷。
空は晴れ。
傍らには、見覚えのあるメイドの――愛おしい人の笑顔。
その事実に少し違和感を抱くが、段々とそれも気にならなくなっていく。
何故ならば、ソルの脳内にはきちんとあるからだ。愛おしい人を、守るべき世界を救ったという記憶が、『事実』として存在するからだ。
だから、何も問題ない。
ソルは世界を救えたのだ。
愛おしい人を守ることができたのだ。
だから、幸せでもいい…………そんな風に、そっと誰かに背中を押されたような感触がして、ソルは奇妙なこそばゆさを得ていた。
「……んー? おかしいなぁ、まだ寝ぼけているのかな、僕は?」
「ほら! 寝ぼけているのなら、一緒にピクニックで眠気解消ですよぉ!」
「はいはい、まったくもう、アンナは仕方がないね」
隅々まで晴れ渡った空の下、ソルは誰かに許されたかのように、平穏な日常を送っていた。
◆◆◆
「やっぱり、お前は凄いなぁ、ニコラス! 前回の模試、学年一位だったんだろ!?」
「…………ん、ああ」
ふと気づくと、ニコラスは自分が日常の中に居ることを理解した。
慣れ親しんだ魔法学園の廊下。
空は晴れ。
傍らには、魔法学園で得た新たなる学友。妙に気の合う、どこかの誰かに似た平凡な容姿の同級生が居る。
「ん、んんんん?」
その事実に、ニコラスは違和感を抱く。
強く、強く、違和感を抱く。
明らかに何かが矛盾していた。
だが、その矛盾すらねじ伏せるほどに、『ニコラスが平穏に魔法学園で暮らしていく』には十分な事実が、幻想としてではなく『本物』として存在しているのだ。
「権能? 可能、なのか? 世界改変……? いや、違う。これはもっと小規模で、ああ、でも、そうか。小規模でも、全ての人間に対して『改変』を行えたのなら、それはもはや世界を変えるに等しい……」
「おーい、ニコラス? いきなりどうした?」
ニコラスは己の頭を抑えて、苦悩する。
傍らの友人が、その苦悩を解くように優しい声をかけてくるが、構ってはいけない。
この日常に係合してしまえば、何の違和感も抱かずに埋没してしまう。
ニコラスは『佐藤大翔が超越存在となった』その時に、とっさに防護魔術を脳内で紡いでいたからこそ、辛うじて耐えられているのだ。
滅びの賢者から前もって危機感を煽るような言葉を受けていたからこそ、万が一の備えが役立ち、この脅威に耐えられているのだ。
だが、他の仲間は?
この優しくも恐ろしい権能に抗えているのだろうか?
「あのさ、マジで体調悪いなら、保健室に運ぶけど?」
「…………ぐっ」
ニコラスは魔術師であるが故に、辛うじて抗えてはいる。
だが、抗えているだけで、打ち消すことはできない。超越存在の権能を超えることは不可能だ。昼下がりの微睡みの如く、この『日常』はニコラスを救済するだろう。
たった一人の救済者の記憶を除き、平凡で幸福な事実を与えるだろう。
例え、ニコラス本人がそれを望んでいなかったとしても。
◆◆◆
「勇者様のご帰還、万歳! 万歳――――」
「うぉおおおおっ! 異能、全開っ!!」
アレスは唐突に日常が始まったことを――権能に囚われたことを理解し、即座に己の異能を最大限に発動させた。
大翔が超越存在となってしまった事実を理解してなお、それに抗うために異能を発動させたのである。
そして、アレスの判断は奇跡的に間に合った。
共存共栄。絆の異能はまだ、辛うじて大翔の精神と繋がっている。途絶えていない。
それ故に、アレスはまだ希望を捨てない。自分と絆を結んだ数多の存在の力を借り受けて、仮初の世界に抗う。
「頼む、これで……止まれ……っ!」
じゃららら、と金属音を立てて故郷の世界を覆うのは、鎖。アレスの異能の象徴であり、晴嵐燕の異能に抗えているという証明だ。
その証拠に、アレスが異能を発動させてから、アレスの周囲に居た人々は時が止まったかのように静止している。
「ぐ、う……やっぱり、オレ個人への干渉……だから、抗えているんだ。でも、これは、何時までも続けられない……」
しかし、アレスの異能は権能クラスではあるが、超越存在が振るう権能にいつまでも抗えるわけがない。
人の身で辛うじて抗えているのは、偏に晴嵐燕――大翔の残滓のおかげだ。
本人が望んでいないことをさせたくない。そのような感傷が残っており、アレスとはまだ、異能で強く繋がっている。
そのような、様々な要素が重なったからこそ起きている奇跡に過ぎない。
そして、奇跡はいつでも続かないから、奇跡なのだ。
この猶予時間は決して、長くはないだろう。
「何か、何か、ないのか!? このままじゃあ……ヒロト兄ちゃんが!」
アレスは脂汗を額から流しながらも、必死に周囲を探る。
じゃらららと、鎖で縛りつけられた世界――現実ではなく、幻想領域で留めることができた精神世界で、希望を見出そうと目を凝らす。
このまま抗わなければ『幸福な日常』を手に入れられることを理解してなお、大翔という仲間のために抗う。
こんな三流のハッピーエンドなんか、自分は望んでいないと睨みつけるような視線で。
必死に、必死に、鎖の先を辿って。
『《貴方の異能なら、繋がれると信じていましたよ、アレス》』
「――――シラノさん!」
アレスはようやく見つけた。
聞きなれた機械音声を放つ、希望の象徴を。
●●●
空は星すら見えない暗黒。
暗黒の中には、ぽかりと満月が浮かぶのみ。
そして、暗黒の空からははらはらと銀色の雪が降り続く。
まともな生命体であれば、一息で存在融解。一秒たりとも生存することは叶わぬ、超越存在の余波が二つ重なった領域。
けれども、だからこそ大翔の権能が浸食するまで、猶予がある世界だ。
『《アレス、貴方が勇者でよかったです。作戦会議ができる程度の時間を稼げるのは、もはや、ここぐらいしか残っていませんでしたので》』
「うん、まぁ。勇者じゃなかったら、普通に死んでいる場所だと思う」
そんな世界の街中。
人気どころか、生命の気配が皆無の路上で、一機と一人は向き合うようにして言葉を交わしていた。
『《ええ、ですが……こんな場所でも時間稼ぎしかできません。至急、大翔の超越存在化をどうにかしなければ、ここもいずれは『救済』に沈むでしょう》』
「……超越存在が二体揃っても無理なのか?」
『《無理ですね。今の大翔は超越存在と同格。その上、元々超越存在に対処しようとしていた……つまり、不可能を可能にしようとしていた勇者ですよ? その在り方が権能に影響しているのか、ほとんどの超越存在はこの『救済』に抗うことはできないでしょう……いえ、抗えたとしても抗わないかもしれませんね。首狩りと首無しの王。救済によって消滅した二体の超越存在のように、あの次元に至った者たちは誰しも、『幸福な終わり』を求めているようですから》』
シラノは珍しく焦りが混じった口調で、早口に説明する。
恐らく、自分でも何を言っているのか半分も理解していない状況での推論だろうが、それを咎められる余裕などアレスにはない。
いくら権能クラスの異能を持っていたとしても、次にあの『救済』に囚われてしまえば、抗う手段など存在しないのだから。
「つまり、元々期待していたわけじゃないけど、他の超越存在の力で対抗するっていうのは不可能ってことだな?」
『《そうですね。大翔をこちら側に引き戻すとしたら、我々人間だけの力で何とかしなければいけません》』
「その手段は?」
『《共存共栄。この状況でもなお、抗えている貴方の異能こそ、打開の鍵になります》』
故に、大翔を救う機会は今だけだ。
シラノとアレス。
千里眼と共存共栄。
二人の異能者が辛うじて『救済』に囚われていない。この猶予時間を逃せば、全世界の誰もが大翔の――晴嵐燕の『救済』に沈むだろう。
『《貴方の力は絆の力です。絆を結んだ相手が強い力を持っていれば、その分だけ異能も強化されます。つまり、超越存在と化した大翔と絆を結んでいるが故に、超越存在である大翔にも抗えるのです》』
「でも、シラノさん。逆に言えば、オレでも対抗できるだけ、って感じだぜ? 現に、シラノさんと接触できなければ危なかった」
『《ええ、確かにあの時はそうだったでしょう。ですが、今は私が居ます。大翔と誰よりも深く同期し、強い絆で繋がった私が。こんな状況であるが故に、これ以上なく貴方の期待を受けて、共存共栄の効果により限りなく強化された私が》』
シラノの言葉には、強い確信があった。
機械音声だったとしても、熱く感じるほど込められた決意があった。
『《今の私ならば、無数に飛び散った大翔の眷属の中から、本物を探し出すことが可能です。超越存在に成り果てようとも、今の私は大翔を絶対に見逃しません。繋がった縁の先を必ず見つけ出してみせます。アレス、貴方を大翔の下に届けて見せます――――だから!》』
「オレが直接、ヒロト兄ちゃんを異能でこっち側に引き戻すってわけか」
懇願と決意が混ざったシラノの作戦。
けれども、それに対してアレスは首を横に振った。
「駄目だな、それは認められない」
『《んなっ!? な、何故です!? もはや、貴方しか――》』
「それは違うぜ、シラノさん――いいや、シラノ!」
首を横に振って、シラノを――銀色のラジオ筐体を拾い上げる。
自分の目線に合う高さまで持ち上げて、ラジオの向こう側に届くように告げる。
「アンタしか居ないんだ。ヒロト兄ちゃんを、佐藤大翔っていう勇者を助けられるのは、相棒のアンタしか居ないんだよ」
勇者らしく頼もしく。
不可能と絶望を切り裂く言葉で、シラノの視界を切り拓く。
「だから、アンタが行きな! アンタが行って、アンタが引き戻すんだ! あの馬鹿の横っ面を叩いて、馬鹿な人間に戻してくるんだ!」
『《で、ですが! 明らかに、異能者本人である貴方の方が――》』
「違う! 全然違う! 今、この瞬間にようやくわかった! 共存共栄は絆の力だ。絆の力で、不可能を覆すための異能だ! だから、誰よりも佐藤大翔っていう勇者を想うシラノじゃないと駄目だ! アンタの愛じゃないと、ヒロト兄ちゃんは救えない!」
『《あ、愛ぃ!? い、いや、そのですね、アレス! わ、私は!》』
「無理無茶無謀は『アタシ』が何とかしてやる! 行けよ、シラノ! 『アタシ』の友達!」
燃え上がるほど熱い言葉で、シラノの心に火を灯す。
どんな暗闇の中でも、真っ直ぐに会いたい人の下へと走っていけるように。
「さぁ、告白の時間だ!!」
『《告白はしませんがぁ!!?》』
アレスは自らの異能を最大限に発揮して、友達の背中を押したのだった。




