第91話 とある少女の物語
草薙 莉里は、自らが物語の主人公になるような器ではないと知っていた。
科学優勢でありながら、魔術にも理解がある高度な文明の世界。
大翔が住んでいる日本と酷似し、けれども決定的に違う――浮遊列島国家『大和』の住人。それも特別な才能を持った存在ではなく、単なる高等学校の学生に過ぎない。
無論、長所が皆無というわけではなく、容姿はそれなりに美人だという自負はある。
けれども、目つきがどうも胡散臭いらしく、初対面で好感を抱かれることは少なかった。
加えて、莉里の性格は小悪党だ。
「莉里、どうしてお前はそんなに愛が無い人間なんだい?」
実の母親から、呆れ交じりにそう言われる程度には、薄情で姑息な人間だった。
友情や愛情を信じているわけじゃない。ただ、それよりは利益や建前で繋がった方が、気分がすっきりするというだけの話である。生温かい偽善の精神を交わすよりも、冷たい仮面を被りながらのやり取りを莉里は気に入っていたのだ。
だから、莉里は犯罪にこそ手は出さないが、他者を上手く利用していた。
騙すという程ではない。
ただ、少しばかり恩や義理、貸し借りの比率を自分に優位にしただけ。
例えるのならば、プリンを一口食べさせる代わりに、相手のケーキを二口食べる程度の姑息な狡さ。
自他も認める小悪党。
物語ならば、序盤も序盤。主人公の格好良さを演出するために、愚かにも絡みに行ってボコボコにされる端役が良いところだろうと自覚していた。
きっと、せせこましく生きて。
冷たくも心地よい孤独を住処としながら、いつか死んでいく。
それが草薙莉里という少女が思い描く、自らの未来予想図だった。
「勇者様。僕の分のケーキもお食べ下さい……えへへ、大丈夫です。僕のお腹は空いてないのです。違います、嘘じゃないです。本当です、お腹なんて鳴っていません。空耳……いえ、そう! そうです、僕はお腹が痛いから食べたくなかったのでした!」
莉里は自らの未来予想図に反して、恋をした。
相手は、自らに付き従う愚鈍な奴隷だった。
明らかに無理のある演技をしながら、一つしかない貴重な甘味を他者に分け与えるような、どうしようもない少年に、莉里は恋をした。
そういう甘酸っぱい感情とは無縁で生きて来た莉里にとっては、それは異常事態だったのだけれども、そもそも、その時の莉里は自分も含めた何もかもが異常事態だった。
突然の勇者召喚。
押し付けられた無理難題は、ダンジョンの奥底に潜む魔王の討伐。
仲間は、いかにも愚鈍な奴隷の魔術師のみ。
これが若者向けの娯楽小説ならば、定番中の定番と言ってもいい状況。
しかし、これは物語ではない。莉里は物語の主人公に相応しくなく、明らかにミスキャストとして抜擢された勇者だった。
少なくとも、莉里自身は勇者なんて役柄が相応しいと思っていなかった。
良くて奴隷。
悪くてモルモット。
記念すべき勇者召喚の被験者一号として、無惨な屍を晒すまでの観察対象であると、莉里は己の境遇に絶望していた。
誰もが、莉里自身ですら、自らが『勇者』だなんて信じていなかったのだ。
ただ、例外が居るとすれば一人だけ。
「いいえ、貴方様は勇者様ですよ! だって、たくさんのことを知っていますし! とても怖い魔物にだって、勇敢に立ち向かっています!」
様が重複しているぞ、馬鹿――なんて莉里から突っ込まれるような愚鈍な少年。
自分と同じく、奴隷として扱われている少年だけが、莉里のことを本物の勇者だと信じていた。
名前はホロウ。
滅んだ国の王子様。
血脈としては大分優秀な魔術師の癖に、奴隷として育てられた所為か、自身に対する評価はほとんど最低。
自分が傷ついても、他人が喜べば心の底から嬉しそうにするような少年だった。
だからこそ、莉里はその奴隷根性に満ちた善性が大嫌いだった。
「あぁ? ちげぇよ、馬鹿。私は勇敢なんじゃない。ただ、何もかもが気に入らないだけだ」
あるいは、ホロウに告げた否定の言葉の通り、莉里は何もかもに苛立っていたのかもしれない。
勇者召喚なんて外法を使った王族にも。
そんな王族を支持する国家の住人も。
ダンジョンの奥底に引きこもっている魔王も。
そして、そんな理不尽に従わなければならない自分自身の無力にも、莉里は心底腹が立っていたのだ。
間違っても勇気などではない。
ダンジョンを進むのは、己を焼きそうな怒りをぶつける相手を探しているだけだ。
それが勇猛に見えるなんて、なんてこいつは愚鈍なんだろう? そんな風に、莉里はホロウのことを馬鹿にしていたのである。
莉里がホロウへの恋心を自覚したのは、本当にささやかなきっかけからだった。
「勇者様、どうでしょうか!? 勇者様の故郷にあるらしい、ラーメンを再現した麺料理なのですが!?」
ダンジョン攻略が軌道に乗り始めた頃。
莉里の交渉により、王族から物資や住居を獲得することができた二人は、その世界の水準で一般人程度の生活は送れるようになっていた。
しかし、莉里の故郷と比べれば食事のレベルは千年の隔絶がある。
故に、莉里はいつも食事を死んだ目で済ませていたのだ。
どうやら、そんな莉里を見かねてホロウが料理を手作りしていたらしい。
「…………なにこれ?」
だが、できあがったものはお世辞にも莉里の記憶にある『ラーメン』とは違う料理だった。
強いて言うのであれば、脂っこいスープの生煮えパスタ。努力の跡として、可能な限りの薬味がスープにぶち込まれている。そのおかげで、スープの臭みは抑えられているが、美味しいとは言えない。ラーメンの味からは程遠く、これならば素人の莉里が適当に作った方がまだマシという出来栄えだった。
「どうでしょうか!?」
「…………」
心のままに酷評してやろうか、と思った莉里だけれども、罵倒の言葉は口から出ることは無かった。
代わりに、純粋無垢な瞳で見つめられたことによる、奇妙な落ち着きの無さに気づく。
いやいやまさか、と莉里は何度も心の中で否定した。
けれども、否定しようと過去を思い返してみれば、ホロウから向けられる信頼と優しさの記憶が積み重なっている。それを否定して、今更怒りを抱くには、あまりにも莉里はホロウからたくさんの善意を受け取り過ぎた。
そう、いつの間にか莉里の心は、ホロウから受け取った沢山の温かいもので満ちていたのだった。
「まだまだ未熟。次は、私の世界で本物のラーメンを食べさせてやるから、もっとちゃんと作りなさい」
だから、莉里がホロウに返したのは将来の話だ。
自分たちには次があるのだと。
ダンジョンを攻略して、魔王を討伐した先にがあるのだと、将来の予約をして見せたのである――――赤くなった自分の頬にも気づかずに。
「…………はいっ! 約束です、勇者様っ!!」
この時、ホロウが浮かべた満面の笑みを見た瞬間、莉里はようやく認めた。
どうやら自分は、この愚鈍な少年――心優しい相棒に恋をしているらしい、と。
●●●
結論から言えば、何もかもが手遅れだった。
莉里とホロウは順当にダンジョンを攻略し、最奥の魔王すらも討伐した。
既に、呪いの首輪は自力で外している。忌々しい王族に縛られる理由なんてない。後は、ホロウと共に故郷の世界に戻ればいい。
まるで日常系アニメのように。
ホロウと莉里には幸せな後日談が用意されているはずだった。
「…………う、うううっ」
けれども、莉里に与えられたのはありきたりな悲劇。
魔王の呪いを受けたホロウを介錯するため、自ら愛する者の首を刈ったという事実のみ。
幾多の強敵を刈り取った莉里の大鎌は、あらゆる生命体に死を与える。
首を刈るという過程を経れば、どのような生命体であろうとも死に至る。
例え、超越存在に至ろうとする規格外の怪物だろうとも。
「ねぇ、君」
「う、うううっ…………えっ?」
「君はさ、何で泣いているのー?」
従って、首を切られたはずのホロウが動き出すことはあり得ない。
ましてや、地面に転がる生首が平然と言葉を紡ぐわけがない。
――――生命の在り方を超越した存在でなければ。
「よくわからないけど、何か辛いことがあるなら願ってよー。どんな願いを叶えれば、君を泣き止ませることができるのかなぁ?」
そう、悲痛な覚悟を持って行った介錯でさえ、手遅れだったのである。
躊躇ったが故に、ホロウは不可逆な変化をしてしまったと、莉里は理解した。
自分の判断の遅さが、ホロウを『違うもの』――魔王が至ろうとしていた境地にまで、押し上げてしまったのだと。間に合わなかったのだと。
「う、ううぁあ……ごめん、ごめんっ! ごめん、ホロウ!」
「……えっとぉ、願いごとは?」
かくして、首無しの王は誕生した。
誰かの願いを叶え、施しを与える――人類と意思疎通可能な超越存在として。
「ホロウに戻ってほしい? ごめんね、莉里。その願いは僕の権能を越えているよ。一応、この世界のアーカイブに残っていたデータを参照して、それらしい模倣は可能だろうけど、君が求めているのはそれじゃないだろう? うん、だから別の願い事を言ってほしいなぁ」
首無しの王は限りなく全能に近かったが、何もかもを叶えることなどできなかった。
その権能は他者の願いを叶えることに特化していたが、それ故に、権能の範囲は『次元の低い生命体』に合わせたものである。
不可能を超えるような真似はできない。
首無しの王に可能なのは、実現可能なあらゆる出来事だ。
故に、首無しの王をホロウに戻すなどという、他の超越存在ですら不可能な難事を叶えることはできない。
「………………それ、でも。それでもさぁ、私は、ホロウと一緒に帰りたいよ」
だが、莉里は諦めなかった。
己に対する怒りと、ホロウに対する愛情の所為で、諦めきれなかった。
首無しの王と共に辺境に移り住み、世俗から離れながら、魔王がかつて研究した資料を読み漁って。
首無しの王の権能を使って、あらゆる魔術的な資料を取り寄せて。
不可能を可能にするために、莉里はあらゆる手段を模索して――――やがて、一つの答えに至ることになる。
超越存在に干渉するためには、自らも超越存在に成るしかない。
だが、不可逆な変化で自らも変わり果ててしまったのならば、それは失敗だ。上手くやらなければならない。たった一度、首無しの王をホロウに戻すための力を使って、後は元に戻れるような工夫が必要だ。
「…………その願い事は叶えられない。あのね、僕にはこれでも意志があってねー? 莉里、君のことが好きなんだ。だから、君が失われる可能性が高い願い事は叶えたくないし、手伝いたくもない」
その過程で、首無しの王から思わぬ裏切りを受けたが、莉里に怒りは無かった。
むしろ、首無しの王という自己が消滅する可能性を受けてなお、莉里を案じるお人好しさに呆れていた。
首無しの王はホロウとは違っていたが、その在り方はホロウによく似ていたのである。
だからこそ、莉里は余計に諦めきれない。
似ているからこそ、違う箇所に気づいてしまい、会いたいと願ってしまう。
もう一度、ホロウと会えるのならば、莉里はどんなことでもするつもりだった。
愚かだった。
何もかもが愚かだった。
莉里は確かに、あと一歩というところまで研究を進めていた。
研究の末に作り上げたのは、一時的に超越存在へと至る仮面。使用者が理性的に努めれば、辛うじて一度の権能に耐えられる。そういう仕様だった。
後は、超越の方向性を定めるだけ。
自らの精神と在り方を調整して、望む権能を得る。
決して、余分なことは考えてはいけない。ホロウを助ける。愛しい者へと救いを与える。共に温かい世界に戻る。
そのための権能を、莉里は得るはずだった。
愚かだったのは、その過程。
首無しの王の協力を得られなくなったため、莉里は研究の資材を調達しなければならなかった。
故に、莉里は『リリー』という下手くそすぎる偽名を使い、商人として世界の各地を回っていたのである。
そこまでならば、愚かではなく賢明であり、懸命だった。
だが、資材を得る過程で莉里はほんの少しのズルをした。『困っている人間』――そう、例えば不治の病に苦しむ貴族などを救って恩を売るために、首無しの王を騙したのだ。
偶然、可哀そうな人間が居たから助けてやってほしい、と。
善良なる精神性の首無しの王は、この願いを断れなかった。願い事に隠された、莉里の思惑は看破していたが、それでも『誰かを助けてほしい』という願いは断れなかったのだ。
そして、莉里は狙い通り、貴族に恩を売ったおかげでスムーズに資材を得ることができて、研究も順調に進むことになった。
――――世界中に幾つも、首無しの王の痕跡を残して。
愚かだったのは、人類。
貪欲なる王族。
「殺せ! 賢者を誑かし、独占しようとする魔女を殺せ!!」
狙いは、首無しの王。
不治の病すら瞬く間に癒す、『魔王が残した財産』を莉里から奪い取ること。
魔王を倒した栄光を与えることも無かった王族と国家は、よりにもよって、莉里から略奪を行うために、わざわざ辺境まで軍を派遣したのである。
最悪だったのは、タイミング。
この時、莉里が仮面を被っていなければ。
己の方向性を整える、最終段階に入ってさえいなければ。
あるいは、この結末は訪れなかったかもしれない。
「彼に集る有象無象どもが」
殺戮の後に、救いは残らなかった。
これが、草薙莉里という少女の結末。
罪ある有象無象を刈り取る、『首狩り』の始まり。




