第89話 魔術師であること
ニコラスにとって魔術とは、ショーウィンドウの中に飾られたゲーム機のようなものだった。
自分の手の届かない場所にあるもの。
薄い財布をひっくり返しても、手に入れることが叶わないもの。
手に入れればきっと、生活が素晴らしくなるもの。
だからこそ、ニコラスにとっての夢は『魔法学園に通うこと』だったのだ。
そして、その夢は大翔との出会いにより、思わぬ形で叶えられることになったのだが、ここで一つ問題が発生する。
――――叶えた夢の先が、わからないのだ。
ニコラスにとって魔術とは、ショーウィンドウの中に飾られたゲーム機のようなものだ。
手に入れていない時は、どんなもので遊ぼうかと夢想している。
ただ、ニコラスの場合、その夢想は物騒なものだ。
ストリートチルドレンとして育ったニコラスにとって、魔術の使い手は『エリート』という認識だった。どんな犯罪組織だって、魔術が使える人材はとりあえず確保しておきたい。魔術が使える人間は、例え路地裏出身の子供だったとしても、相応の待遇として迎えられる。
暗殺者や何でも屋など、後ろ暗い仕事をしている奴でも、魔術を使える存在ならば辺獄市場では一目置かれるのだ。
特に、魔術が使えるようになって路地裏の薄汚いガキから、辺獄市場の幹部にまで成り上がったという『ストリートの伝説』は、ニコラスも仲間たちと一緒に胸を躍らせた記憶があった。
いつか魔術を学んで、成り上がる。
むかつく悪党をぶっ倒して、地面に這いつくばらせる。
家族同然の仲間たちへ、良い生活をさせてやる。
ニコラスにとっての夢想とは、辺獄市場の中で成り上がることだった。
しかし、その夢想は今、大部分が叶ってしまっている。
むかつく悪党は既に、大翔と出会う前にソルがボコボコに殴っていたので、大分ストレスは解消されていた。
家族同然の仲間たちは、大翔がソルとの交渉材料にするため、全員が『良い生活』ができる場所へと移住している。ニコラスは何度か視察として仲間たちの移住先に遊びに行ったが、仲間たちはすっかりと気楽な生活を満喫していた。
誰かを殴らなくても飯が食える。
誰かを騙さなくても金を手に入れられる。
勉強のために本を開くことを、誰にも馬鹿にされない。
そんな理想的な環境――『用意された最善の環境』に対して、仲間たちの誰もが文句を言わなかった。
そう、ニコラスも含めた仲間たちは全員、辺獄市場で成り上がる必要などないほどに、幸せだったのである。
故に、魔術というゲーム機を手に入れたニコラスにとって、問題があるとすればそれは一つだけ。
――――魔術を学んで、何をしたいのか?
昔は成り上がるための手段で、日々を生き抜くためのモチベーションだった。
けれども、十分に幸せとなった今、そのモチベーションは既に薄れている。
正直、ニコラスはもう満たされていた。餓狼の如き欲望は消え失せ、魔術を学ぶ理由は単なる学術的な興味や、自身の娯楽程度。精々が、魔術師として大成して偉くなってやろうという野望を抱いているぐらいだ。
ただし、偉くなりたいのならば別に、魔術師である必要はない。
魔術師ではなくとも、ニコラスが所属した魔法学園ならば、いくらでも真っ当な就職先は用意されるのだ。
そう、魔術師でなくてともいい。
天涯魔塔に挑んでいる今だって、それは変わらない。
ニコラスが魔術師のポジションを止めたとしても、『錆びた聖剣』から自分よりも優秀な人材が補填に入るだけ。
そもそも、最近はシラノによる指導の下、魔改造が進んでいるので紡ぐ魔術は完全な自力ですらない。優秀なアーティファクトや肉体改造による外付けの力だ。
ニコラスが魔術師にこだわっているだけで、その方向性が『戦士』でも『斥候』に変わっても、戦力的には何の問題も無いだろう。
であるのならば、ニコラスが魔術師にこだわっている理由は?
魔術師でなければならない、と誰かに定められたわけでもない。
それでも、天涯魔塔の第99階層にまで到達してなお、ニコラスは己を魔術師であると定めている。外付けの力に頼った不格好でも、ニコラスは魔術師で在り続けている。
その理由を、ニコラスはまだ自覚していない。
●●●
滅びの賢者による魔術修行は、そのどれもが奇妙なものだった。
明らかに魔術からは縁遠そうな、カンフー映画の如き体勢での瞑想から始まり、桃の果実を一旦凍らせてから綺麗に剥くという作業。菜箸という、ニコラスには馴染みのない二本の木の棒――箸を使った、あらゆる豆を隣の皿に移動させるという器用さを上げる訓練。
挙句の果てには、滅びの賢者が作り上げたサウナで、魔力強化を使わずにじっくりと体温を上げて、花弁が浮く特製の水風呂に突っ込む。時折、水分を桃で補給しながらこれを繰り返すなど、休日のサラリーマンがやりそうなことまで魔術修行としてやらされたのだ。
正直、ニコラスは滅びの賢者がやる修行に対して半信半疑だった。
こんなので強くなれるなら苦労はしない、という気持ちと、第99階層のボスエネミーならばもしかしたら? そんな失望と希望が混ざったような気分で修行を行っていた。
「ふぅむ。ようやく、多少はマシになったのう」
そして、魔術修行を始めてから数日後。
ニコラスは体内を巡る魔力を、隅々まで鮮明に感じ取れるようになっていた。
さながら、目の前を覆う霧が晴れたかの如き明瞭な気分である。
今まではアーティファクトの外付けで、無理やり魔力の動きを調整し、適切な魔力操作になるように強制していた。けれども、魔術修行を経たニコラスならばそんなことをする必要がなく、あっさりと最善の魔力操作を行えるだろう。
今まで体に負担をかけていた殲滅級の魔術の発動も、何の負担も無く、当然のように発動できるようになるだろう。
それほどまでに魔術師にとって、魔力操作とは根幹を為す技術であり――生まれついてのセンスが左右するものだった。
「では、次からは実用的な修行じゃ」
「…………おう」
従って、ニコラスはこの時ようやく、殺すべき爺を師匠として認識する。
無論、殺すべき相手であることは変わらない。そこは揺るがない。感情的なものが変わったとしても、最上階に到達するためにそこだけは変わることはない。
ただ、それはそれとして、納得するべきことは確かにあった。
「ったく。下手くそってのは本当だったな」
自分の魔術が未熟だったこと。
滅びの賢者が指摘したことが事実であったことを、ニコラスは今、素直な気持ちで認めることができていた。
ニコラスはあまり口にはしないが、勉強が好きだ。
基本的にストリートチルドレン暮らしだったニコラスにとって、新しい知識を蓄えるというのは『余裕の証拠』であり『贅沢』な行いだったから。
故に、魔法学園の暮らしでは、素行はともかく勉強意欲は高い学生として見られていた。
ストリート上がりのハングリーさだと、ニコラスはその貪欲をあまり好んではいなかったが、この時、この場所に於いては例外だった。
「おい、クソ爺。火属性以外の殲滅魔術も練習してぇんだけど?」
「ほっほっほ。随分とまぁ、魔術の威力にこだわるがのう……結局のところ、肝心なのは呪文体系の根底を支える魔力効率なんじゃよ? 威力が上がるにつれて、術式が複雑になるのは単に、高威力の魔術を制動するため。要するに下手くそのための補助輪なのじゃ」
「……つまり?」
「今の小僧なら、この爺が作った術式で発動させるだけで相応の威力は再現できるぞい」
滅びの賢者から与えられる魔術知識は、どれもニコラスにとっては値千金の知識だ。
時に、魔法学園で習った基礎を覆す理論を。
時に、歴戦の勇者ですら気づかない、魔力効率化の手段を。
何か一つの情報だけでも、他の世界では国家機密になりうるほどの貴重な情報を、滅びの賢者は平然と渡してくる。
故に、ニコラスはこの時ばかりは、自らの貪欲さに感謝していた。飽きることなく、萎えることなく、次々と滅びの賢者が渡してくる情報を貪ることができるのだから。
「さぁて、属性魔術を極めるには何が必要じゃと思う?」
「本人の適性……って、言う流れでは無いよな?」
「ほっほっほ。わかってきたのう、小僧。そうじゃ、本人の適性など下手くその言い訳に過ぎん。瞑想により精神を整え、体の隅々まで魔力の巡りを知覚できる今のお主になら、その適性を覆すことも可能じゃろうて」
「…………つまり、練習あるのみ、だと?」
「今のお主の状況なら、半日もあればいいところまで行くじゃろ。まぁ、コツは教えてやるから、上手くやりんさい」
加えて、滅びの賢者は教師として優秀だった。
アレスの異能の影響下にあるとはいえ、ニコラスの上達速度は異常である。
実用的な修行を始めてから、半日で他属性の魔術も習得を始めて。
一日で、各属性の上級魔術を。
二日で、各持続性の殲滅級の魔術を。
ついに三日目では、単独での『滅亡級』の習得に成功したのだ。
もちろん、ニコラス自身の才能や学習意欲のお陰でもあるが、大部分は滅びの賢者の教えが良かったからだろう。
そのことは滅びの賢者を殺さんとするニコラスでも、認めざるを得ないことだった。
いっそのこと、この学びの時間がずっと続けばいいと夢想してしまうほどに。
「さて、小僧。そろそろいいじゃろ――――卒業試験の時間じゃ」
けれども、そのような甘えは許されない。
ニコラスも、滅びの賢者も、そのことを忘れることはなかった。
修行を始めてから一週間後。
ニコラスは単独で、第99階層のボスエネミー、滅びの賢者と相対する。
●●●
「今からこの爺が全力で魔術を放つ。お主はそれを打ち破って、この爺を殺せ」
「おい、無抵抗って話は?」
「甘ったれるな、『弟子』よ」
「…………はっ、上等だよ」
ニコラスの卒業試験は、楽園の花畑で行われることになった。
なお、仲間たちは来ない。ニコラスが真剣に『今回だけは来ないでくれ』と頼み込んだので、第99階層から一時的に離脱している。
本来であれば、明らかに悪手の頼み事。
ボスエネミーを前にして、自殺行為にしか思えない、ニコラスの『回数』を減らすだけの愚行であったが、リーダーである大翔はそれを認めた。ニコラスという男にとって、それは必要な儀式であると理解していたから。
そして現在、第99階層ではニコラスだけが滅びの賢者と相対している。
彼我の距離は五メートル弱。
互いに一呼吸もかからずに縮められる距離。
けれども、その間に殲滅級の魔術を幾つも発動可能な猶予を与える距離でもある。
「さぁて、泣いても笑ってもこれで最後だが、ニコラス。何かこの爺に訊きたいことはあるかいのう? 何もないからこのまま殺し合うが、折角だから、魔術の真髄とか、この階層に隠されたレアアイテムの場所でも訊いていけ」
滅びの賢者の服装は変わらない。
何一つ魔術的な効果を持たないTシャツと短パン。平和な世界でゲートボール大会に混ざっていても、何の違和感もない格好だ。
だが、ニコラスは知っている。
僅かな間でも滅びの賢者の教えを受けたニコラスは知っているのだ。
滅びの賢者ほどの卓越した魔術師にとって、どれだけ凄い装備も、何の効果も持たない服だろうとも、大差がないのだと。
それほどまでに、魔導の深淵に踏み入った魔術師なのだと。
「だったら、最後に一つだけ聞かせてもらうぜ、クソ爺」
だからこそ、ニコラスはどうしても知りたかったことを滅びの賢者に訊ねる。
「どうして、俺を鍛え上げたんだ?」
最初からずっと違和感を覚えていたことの真相を、自らの師へ訊ねる。
「そりゃあ、あんな下手くそな魔術で死ぬのは恥ずかしい――」
「下手な言い訳は聞きたくねぇ。何もかも面倒で、最初から死にたがっているなら、俺を鍛え上げるなんて面倒な真似はしないだろうが。そもそも、いくら再現物だからといって…………天涯魔塔に於けるボスエネミーの役割をいつまでも拒絶するのは、戦う以上の面倒があったはずだ。ましてや、本来、敵同士の冒険者を鍛える行動なんて」
ニコラスの推察は正しい。
いかに滅びの賢者が深淵に踏み入った魔術師であろうとも、天涯魔塔では再現物に過ぎない。
再現物はエネミーとしての役割を持ち、それに反する行動はできない。
無抵抗になったのも、ニコラスを鍛えることができたのも、滅びの賢者がその原則を凌駕するほどの力を持っていたからこそ。
そして、そのような力を持っていても、天涯魔塔の原則に逆らい続けるのは尋常ではない苦痛を強いられるだろう。
とても、『恥ずかしい』からや『なんとなく』で耐えられるようなものではない。
何か、強い理由が必要となるだろう。
「なぁ、どうしてなんだ?」
故に、ニコラスは知りたい。
一時期でも自らの師となった存在が、どんな理由で自分を鍛えようと思ったのかを。
「…………さぁて、なんでだろうなぁ?」
ただ、滅びの賢者は答えない。
にやりと不敵に笑みを浮かべたかと思えば、次の瞬間には魔術を紡いでいた。
「滅びの光よ」
僅かワンフレーズ。
しかし、魔術の深淵に至ったものが告げるワンフレーズは、呪文補助のための詠唱ではない。世界に対する通告だ。
これから世界を改竄し、敷かれた理を蹂躙するという通告だ。
「嘘吐き爺が」
ニコラスは忌々しく言葉を吐き捨てながら、眼前の脅威を正しく見定める。
滅びの賢者の頭上には、煌々と辺りを照らす光源があった。
それは単なる照明ではなく、魔導の深淵に踏み入ったという証明。
世界を滅ぼす光。
瞬間的な改竄ではなく、世界自体を白色に塗りつぶし、滅ぼすための光だ。
回避は不可能。
防御は無意味。
世界全てを消し去る滅びの光の前では、何もかもが塵芥に等しい。
対抗するには、小細工や相性などではなく、超克が求められる。
滅びの賢者が生み出した破滅。それを覆す答えが求められる。
「何が、全力で魔術を放つ、だよ?」
そして、ニコラスは正しく答えを導き出した。
白色の滅びを覆す、黒色の一閃。
己にとっての強さの象徴――ソルの一撃を疑似再現した一閃は、白色の光を切り裂き、滅びの賢者の肉体を穿っていた。
「――――全然、殺気が感じられねぇんだよ、クソが」
滅びの賢者が望んだ、試験の答案の通りに。
「なぁ、弟子よ」
魔術を凌駕され、肉体を袈裟に両断された滅びの賢者は、笑いながら答える。
不敵な笑みでも、余裕ぶった賢者の笑みではない。
死にゆく老人の笑みを浮かべて、掠れた声で答える。
「魔術師なら、滅びに抗え。不可能を可能にして見せろ」
先へ進まんとする若者への激励を。
「愚かな、この爺みたいにはなるんじゃない」
世界を滅ぼしてしまった己に対する自虐を。
「…………後、長生きしろよぉ、ニコラス」
最後に、師匠としての言葉を添えて。
滅びの賢者は――守ろうとした世界を滅ぼしてしまった愚者の再現体は、天涯魔塔から消え去ったのだった。
「うるせぇよ、クソ爺」
身勝手で、とてもむかつく師匠が消え去った後。
ニコラスはいつも通りに悪態を吐き捨てる。
けれども、その時の表情が『いつも通り』であったかどうかは、ニコラスを含めた誰もが知る由も無かった。




