第7話 暗闇迷子
結果には必ず、原因が伴う。
今回のドラゴン襲撃事件に於いても、それは変わらない。ドラゴンが高級ホテルを狙いすましてブレスを放ったのには、当然ながら動機がある。
一言で表現するのならば、それは復讐。
強大な力を持ちながらも、生殖能力の低い種族である『彼女』は、五百年ぶりの卵に歓喜していた。何しろ、二千年生きた中で、ようやく三体目の子供だ。
丁寧に卵を温めて、万全の態勢で彼女は孵化作業に臨んでいたのである。
しかし、万全であっても完璧では無かったらしく、いかなる秘儀によるものか、調達者によって卵が奪われてしまったのだ。
そして、奪われたことに気づき、慌てて狼藉者の後を追ってみたものの、既に手遅れ。彼女の大切な卵は、魔術師たちの貴重な魔術触媒として加工され、きっちりと消費されていたらしい。それはもう、ドラゴンである彼女の力でも、蘇生なんて叶わないほどに。
かくして、彼女は一流の調達者が身を隠すホテル――大翔が予約していた宿泊先を、怨敵ごと破壊したのだった。
もちろん、彼女の怒りはその程度では収まらない。
かつて、夫である同族が英雄によって討たれた時は、その英雄の故郷を国ごと滅ぼしたドラゴンである。今回もまた、辺獄市場という場所を焼き尽くすまで止まらないだろう。
あるいは、もっと別の方法によって強制停止させられるかもしれないが。
どちらにせよ、地を這うように逃げ出す人々にはあずかり知らぬことだ。
逃げ出す彼らにとって、大切なことはたった一つ。我が身の安全のみ。
もっとも、今の辺獄市場で安全な場所など、何処にあるのかは誰も知らないのだが。
●●●
大翔には耐性があった。
理不尽に対する耐性だ。
ある日突然、それまでの日常が奪い去られる。圧倒的な力によって、予定されていた安全を消し飛ばされる。
そういう経験があったからこそ、大翔は呆けた状態からすぐに復帰することができた。
「…………っ!」
奥歯を噛みしめ、煌々と燃え上がる理不尽の痕跡から目を逸らす。恐怖によって固まった肉体を無理やり動かし、逃走を始める。
逃げ出す方向はもちろん、人が少ない方向へ。
――――再度の轟音。空気が破裂したように悲鳴を上げる。
「っづぁ! くっそぉ! こんなの馬鹿げている!」
大翔の予感は的中した。
赤竜の次なる標的は、人気の多い大通り。呆けた様子で固まっている間抜けたち。少しは腕に覚えのある戦士たち。何もできなかった者も、抵抗しようとした者も、等しく竜の息吹が骨ごと焼き尽くした。
その余波により、数多の瓦礫が飛び、それに直撃した人々が路面に倒れ伏す被害も発生したが、大翔には届かない。ラーウムから買い取った数多の魔法道具。護身用としてコートの裏に仕込んだ沢山の護符は、余波程度ならば自動的に障壁を展開して防いでくれる。
とはいえ、ブレスの直撃は流石に耐えきるかどうかはわからないので、大翔が必死に逃げ回ろうとしているが現状だ。
「シラノ、シラノ、シラノぉ! 今っ、多分っ、俺っ! 盛大に! 命の危機だと思うので、助けてくださぁい!」
情けなく悲鳴を上げながらも、足を止めずに薄暗い路地を走り抜ける大翔。
しかし、腰にあるラジオからは返答がない。
「シラノさぁんっ!?」
それもそのはず、現在、シラノは同期を切って作業に集中しているので、大翔の声は届かない。命の危機には助けに入る、というのも大翔が一定以上のダメージを負った際にのみ発動する細工だ。一撃で死ぬ可能性がある攻撃などは、考慮していない。そもそも、そのような危機が訪れることを予測していなかったのだ。
「し、シラノが応答しない! つ、つまりこれは――――命の危機じゃない! そういうことなんだね!? シラノぉ!」
ただ、大翔の考え方は違っていた。
大翔にとってシラノとは、頼るべき道先案内人にして、絶対なる助言者である。シラノの言葉は間違いないと信じてここまでやって来た。たとえ、ついさっき盛大な空振りをしていたとしても、その信頼に揺るぎはない。
つまり、シラノが応答しない状況は逆説的に、命の危機ではないという結論が成り立ったのである。
「これぐらいなら、俺一人でも乗り越えられる……そういうことだね!?」
全力疾走しながら、不敵に笑みを浮かべる大翔は、滑稽なほどに勘違いしていた。シラノが応答していたのならば、『違いますけどぉ!?』と悲鳴のような言葉を返すだろうが、生憎、今は大翔一人だけなのだ。
「へへっ、わかったよ! 俺、やってみるよ、シラノ!」
従って、大翔は勝手に自分で立ち直って、前向きに逃走していた。
暗闇の中を恐れることなく駆け抜け、裏路地を止まることなく進んでいく。
途中、チンピラやストリートチルドレン。その他、路上生活者などに声を掛けられそうになっても、反応する暇すら惜しんで逃げていた。
行く当てなどはないが、それでも少しでも赤竜の暴威から逃れようと足を動かして。
「――――あ」
上空から、夜を焼くような紅蓮の業火が降って来る光景を目にした。
「防げぇ!!」
理不尽に対する耐性。
バドミントン部所属という、鍛え上げられた反射神経。
シラノと共に行った事前練習。
この三つが噛み合った結果、大翔は歴戦の魔術師の如く、懐から大量の札をまき散らした。
それは、コートの裏側に張られた護符とは異なる代物。込められた魔法は、空間を断裂させる魔術。数秒、けれども空間を伝うあらゆる攻撃を遮断する防御だ。
ただし、それでも竜の息吹は防ぎきれない。空間を遮断されようが、膨大なる魔力で構成された竜の息吹は、小規模な世界の書き換えを可能とする攻撃である。
紅蓮の炎は、空間を遮断する黒色の守護と僅かの間拮抗したが、多少の減衰を経て貫通した。十分、人を火葬するには火力を保って。
周囲一帯の人間を焼き尽くす炎が、降り注ぐ。
「ふき、とべぇ!!」
そこへ、大翔がさらに懐――コートの裏側に仕込んだ収納用の空間――から、魔法道具を取り出した。形状は球体。黒色の野球ボールのようなそれは爆弾だ。一度起動すれば、周囲の物体、現象を虚無へと葬り去る魔法道具――否、兵器。
しかし、本来は人を殺すために使われる兵器が、この時ばかりは命を救うための代物へと変わる。
爆弾を放った直後、ぱぁんっ! と空間が破裂するような音が周囲へと響き渡った。
「――ど、うだぁ! くそがぁ!」
残った炎は爆弾と相殺し、周囲の建物を薙ぎ足すだけの余波に留まる。
その程度の干渉ならば、大翔を守護する護符を破れない。奇跡的ではあるが、大翔は竜の息吹の直撃を防ぎ、なおも無傷だった。
もっとも、無傷なのは大翔だけであるが。
「な、なんだよ、こりゃあ!?」
「クソが! テロリストが千年クラスの竜でも召喚したのか!?」
「邪魔だ、どけぇ!」
「おい、馬鹿! 財布を漁るのなんて後にしろ! 火事場を漁るのは、生き残った後だ!」
路地裏の住人は、余波によっていくらか傷ついたのか、悲鳴と怒号を上げながら逃げていく。
当然、大翔に対する礼の言葉などはない。そんなものを言う時間すら惜しいと、悪態を吐きながらも足を震わせる大翔を置いて、我先にと逃げて行った。
「づ、うぅ……くそ、くそっ……しくじった」
たった一人の子供以外は。
粗末な服装の子供だった。汚れのついたシャツに、ところどころに穴が開いたジーンズ。恐らくはストリートチルドレンの一人だろう。外見年齢は、小学校高学年程度。赤茶けた色の髪と、釣り目が印象的な子供だった。
そんな子供の右ふくらはぎに、崩壊した建物の破片が刺さり、走れなくなっていたのだ。
「――――ぐ、ぬ」
なんで子供なんだ、と大翔は呻く。
異様なほど冷たい理性は、『治療用の魔法道具はあるが、使い方は習っていない』と重大な事実を指摘していた。
子供じゃなければ、小汚いオッサンだったら、明らかに背負うのが無理だと分かる巨漢だったら、すぐにこの場から逃げられたのに。
感情は恐怖と道徳の板挟みにあり、軋むように悲鳴を上げていた。
そう、醜悪な現実は大翔へ、残酷に問いかけているのである。
世界を救うことを理由に子供を見捨てるのか? 子供を救うことを理由に世界を危機に晒すのか?
「……いっ! おいっ!」
大翔は奥歯を噛みしめて、苦悩する。
どちらを選んでも、大翔には傷が残る。良心か、責任か。どちらかを選ばなければ、現実は進まない。何より、どちらかを選んだとしても、この窮地から必ず逃れられるわけではないというのが醜悪だった。
一体、この二択のどちらを選ぶべきか、大翔の頭はかつてないほど苦しい思考を強いられている。
「おいこらっ! このっ! どういうつもりだ!?」
「んっ?」
ただ、大翔の頭が思考をしている間に、いつの間にか大翔の肉体は子供を小脇に抱えて、そのまま逃走を開始していたらしい。
体は正直、という言葉があるが、この場合、正直すぎるのも問題だった。
「同情のつもりか!? くそっ! あんな上等な魔法道具に守られているお坊ちゃんが! 俺を! 偽善を満たすための玩具にするんじゃねぇ!」
とはいえ、大翔は肉体が動いた理由を理解していた。
それが、唯一の正解だったことも。
文句を言いながら、喚いて、憎悪の視線を向けてくる子供。明らかにお荷物な相手を見捨てない理由。なんてことはない、それはとてもシンプルな物だった。
「う、る、せぇえええええっ! こちとらなぁ! ガキを見捨てた後、のうのうと生きていけるほど丈夫な精神構造してねぇんだよぉおおおおっ!! そーんなタフな人間だったら、他人なんて真っ先に見捨てているわぁっ!!」
「えぇ……?」
精神的な致命傷を避けるため。
普通に考えて、元一般人の男子高校生が死にそうになっている子供を見捨てて、その後、元気よく世界を救えるはずがない。むしろ、命の危険に遭遇する機会があったら、『あの時、見捨てたからなぁ』と自罰的に死を選んでしまうまであるのだ。
よって、大翔にとっての正解は『文句を言いながらも、全力で助ける』だった。
「君もさぁ! 文句を言っている暇があったら、安全な場所にナビゲートしてくれない!? ぶっちゃけ、俺はこの先どこへ逃げたらいいのか、さっぱりなんだけどぉ!?」
「そんな有様で俺を助けたのかよ!? え、馬鹿!?」
「うるせぇ! 馬鹿って言った奴が馬鹿なんですぅ!」
「うわ、こいつ高等教育を受けてそうな身なりなのに、俺よりも馬鹿だ……」
走る、走る。
不安定な路地裏を駆け抜ける。
一人分の重荷を抱えたまま、一人分の体温を感じながら、大翔は暗闇を進む。
「なんだよ、頼み方か!? 頼み方が悪いのか、ああん!?」
「いや、別にそういうわけじゃあ――」
「俺をナビゲートしてください、お願いします! 俺は死にたくないんです!!」
「この状況でそっちが下手になるなよ!? もう、わけわかんねぇよ、お前さぁ!」
助けた子供から、呆れられたり、戸惑われたりしながらも、足は止めない。
暗闇の中を、迷子のように駆けていく。
命の危機に瀕しているのに、いつまでも元気に喚きながら。
●●●
暗闇の中を行く迷子のことなど、赤竜は知らない。
例え、知っていたとしても気にも留めないだろう。誰がどこに逃げようが、どの道、辺獄市場を全て焼き滅ぼすまで、彼女の怒りは止まらないのだから。
いや、正確に言えば違う。
――――誰かに殺されでもしなければ、自発的には止まらない、だ。
「ギロチンを一つ」
従って、赤竜は怒りを抱いたまま、何をされたのか分からない内に死ぬことになった。
突如出現した、巨大な黒色の刃が落ちることによって、首が切断。あっさりと、二千年にも及ぶ生涯を終えたのである。
「ナイフを百本」
首を切断され、落ちていく赤竜の肉体はさらに細切れにされる。
小さくも鋭い黒色の刃。それらが調理の如く、赤竜の体を無数に切り分けていく。地面に落ちても、誰も傷つかないように。何も壊さないように。
「花を一つ。これでおしまい」
ぼだぼだと宙から落ちる血と肉片が、街を汚す。
悪党の街に相応しい末路へと、赤竜の亡骸を加工してく。
けれども、最後に添えられた一つの花だけは、黒色ではなく白。自らが殺した者に対して手向ける献花だった。
「…………さて、帰ろうか。皆の無事を確認しないと」
竜殺しを成し遂げた人影は、それを誇るでもなく姿を消した。
故に、辺獄市場の誰もがその正体を知らない。二千年の時を生きた、赤き竜を討ち果たした英雄の姿を知らない。
ただ、辺獄市場という異世界交流点では――――何が起こっても不思議ではない。そのことだけは、誰もがよく知っていた。




