第69話 休暇の終わり
「ふわぁああ……」
アレスの目の前には奇跡があった。
それは、白と赤が混ざった芸術品。
故郷では、黄金よりも価値があるとされている果実をふんだんに使った、至高の嗜好品。
甘味と酸味のマリアージュ。
文明レベルが一定以上に到達しなければ、一般市民では味わうことのできないスイーツ。
現代日本ではストロベリーサンデーと呼ばれている奇跡が、アレスの目の前にあった。
「ふ、お、ほぉおおお」
アレスはゆらゆらと手に持ったスプーンをさ迷わせる。
しかし、『時間が経つと溶けてしまう』という警告を事前に受けていたため、はっと正気を取り戻した。
この奇跡の価値を損なうわけにはいかない。
そんな決心と共に、アレスはスプーンでストロベリーサンデーへと挑む。
「ん、んんんんーっ!」
舌の上に乗った瞬間、アレスの脳裏に今までの苦労が蘇った。
枯渇した世界での、過酷な生存競争。
勇者に選ばれた後の、逃げ出したくなるほどの重責。
ソロでダンジョンを攻略しようとしていた時の、心が挫けるほどの不安。
それらが全て報われるような美味を、今、アレスは味わっていた。
もはや、舌というよりは魂で味わっているような歓喜に満ちていた。
「勇者に、勇者になってよかった……」
気づけば、アレスの頬には熱い雫が流れている。
年相応の少女のように感情を惜しむことなく、涙を流しているのだ。
――――封印都市にある、そこそこ人通りの多い道沿いのカフェテラスで。
「うふふ、アレスちゃんが喜んでくれて何よりだわぁ。でも、そこまで喜ぶとは思ってなかったから、びっくりというか……今なのねぇ、勇者でよかったと実感するタイミング」
そして、保護者役として隣の席に座っているリーンは、若干引いていた。
柔らかな笑みを浮かべつつも、突如として同行人が泣き始めたので、どうしたものかと戸惑っているらしい。
「いや、いやいやリーン師匠! むしろ、オレにとっては今しかないんっすよ、感動のタイミングは! だって、今まで忙し過ぎて全然落ち着けていなかったし! ぶっちゃけ、心の余裕ができたのも、ヒロト兄ちゃんに拾われてからなんっすよ!?」
「うんうん、辛かったわねぇ?」
「そうっすよ、マジで! ただの村娘に世界の命運を背負わせるとかおかしい! ……まぁ、選んだのは自分なんで、文句を言い過ぎるのもあれっすけど」
アレスは手の甲で涙を拭うと、再びストロベリーサンデーに集中していく。
アレスとリーン。
二人は封印都市での休暇を、ほとんど観光のための時間として使っていた。
もちろん、修行も怠っているわけではない。ただ、アレスの成長速度が更に加速しているため、予定よりも遥かに長く観光の時間を取ることができただけだ。
その証拠に、彼女たちの席の近くには、封印都市各地を巡ったであろう証拠――たくさんの膨らんだ買い物袋が置かれている。
どうやら、文明レベルの低い世界が地元の勇者と、神話の時代しかほとんど知らない英雄の二人は、観光をとても楽しんでいたようだった。
「ぷはー、美味しかったっす! ごちそうさまでした、リーン師匠!」
「うふふっ、気にしなくていいのよぉ? うちの妹から、こう……使い切れないだけのお金を渡されちゃっているから。うん、むしろ使ってくれるとありがたいの」
数分後、アレスは綺麗にストロベリーサンデーを完食していた。
生まれて初めてストロベリーサンデーを食べたアレスは、年相応の子供のように、全身に喜びが満ちている。
そんなアレスの様子を眺めていたリーンも、微笑ましさに心が和んだのか、穏やかな笑みを浮かべていた。
「リーン師匠の妹さんって、あの人ですよね? 凄く綺麗で、仏頂面――もとい、クールで。ヒロト兄ちゃんの魔導技師としての師匠」
「そうそう、その仏頂面の子が私の妹なの。もっとも、諸事情があって精神年齢はあっちの方が上なのだけれどねぇ?」
「ん、そうっすか? オレにはリーン師匠の方が大人っぽく見えたっすけどね?」
「そうかしら? そう言って貰えると、私もお姉ちゃんとしての面目が――」
「だって、リーン師匠。自分もヒロト兄ちゃんのことが好きなのに、妹であるロスティアさんに遠慮して我慢しているじゃないっすか」
「………………えっ?」
しかし、そんなリーンの笑みがぴきっと凍り付く。
先ほどまでの余裕のある年長者ムーブが消え去り、狼狽した様子でアレスへ問いかける。
「そ、それは、その……わかっちゃう感じなの? ぱっと見でもう、アレスちゃんが理解してしまうほどわかりやすかったりするの?」
「うーん、ロスティアさんの奴は誰でもわかりやすい感じっすけどね。リーン師匠はきちんと装えている方だと思うっすよ?」
「本当に? 大丈夫? ヒロト様に気づかれちゃったりしないかしら?」
「……んんんー」
頬を赤らめて、アレスの肩をゆするリーンの姿は外見相応の少女だ。
世界最強クラスとしての超然とした雰囲気はなく、もはや完全にどこにでも居る女子二人のガールズトーク状態である。
「これはあくまでもオレの私見なんっすけど、ヒロト兄ちゃんはあえてそういう感情を鈍くして、人間関係が壊れないように努めていると思うんっすよ。オレも勇者だからわかるんっすけど、世界の命運を背負っている時って、正直、恋愛どころじゃないっていうか」
「そういうものなの?」
「少なくとも、オレとヒロト兄ちゃんはそういう感じかと」
やや不安そうな表情のリーンを安心させるように、アレスは太陽のような笑顔を作った。
「ま、あれっすよ! 少なくとも世界を救い終えるまでは、そういう話にはならないと思うんで! ヒロト兄ちゃんが世界を救った後に、思う存分、恋愛で悩ませればいいんじゃないっすかね! あ、いっそのこと、姉妹まとめてとか」
「そ、そんにゃ――そんなの破廉恥よ!?」
「やー、うちでは割と金持ちはそんな感じなんっすけどねー?」
呂律が回らないほど顔を真っ赤に染めるリーン。
そんなリーンをからかうように言葉を告げた後、ふとアレスは笑みを歪ませた。
太陽のような笑顔から、どこか皮肉そうな、どうしようもない阿呆を揶揄するような笑みを。
「でも多分、ヒロト兄ちゃんは一途で真面目だからなぁ」
「…………やっぱりそう思う?」
「うっす。ぶっちゃけ、今の鈍感モードは八割ぐらい、相棒さんに気を遣っている所為っすからね? 面倒臭いの権化っすよ、あの相棒さんは」
「あんなにわかりやすいのに、バレていないと思っているものね?」
「声を変えれば大丈夫、とか思っている節があるっすよね? なまじ、凄い異能があると見通せない人相手だと、ポンコツになるのかもしれないっす」
「ふふふっ、ポンコツは酷いと思うわぁ? でも、可愛らしいわよね。ヒロト様にバレていないと思っているところが」
アレスの言葉にリーンも乗り、『意地っ張りな子供を想う笑み』で応じる。
そう、二人の笑みが向けられている先は、大翔の一番近い場所に居る存在。
不器用で、不愛想で、その癖、大翔が女性の近くに居ると露骨に嫉妬を抱いてしまう、可愛らしい存在。
「あんなにも恋する乙女なのに、誤魔化せると思っている方がおかしいっすよね?」
「アレスちゃんが加入した時も、バチバチに嫉妬していたものねぇ?」
シラノ。
勇者の道先案内人を務める、正体不明の異能者はけれど――同じ仲間たちから見れば、割とわかりやすいぐらいに恋する乙女だったらしい。
もっとも、その事実はあるいは――シラノ自身が一番、認めていないのかもしれないが。
●●●
封印都市での休暇は、それぞれ充実したものとなったようだ。
大翔は魔導技師としての技量を研鑽。
ニコラスは心機一転、実力を底上げするための作戦を開始。
アレスは心行くまで観光を楽しみ、心身をリフレッシュ。
こうして、大翔たちパーティーは封印都市を出発する朝を迎えたのだ。
「どう? サイズは問題ない?」
「問題ないぜ! というか、妙に肌触りが気持ちいいんだけど!」
「そういう素材を使ったからね。というか、仮にも男である俺に肌着まで頼むのはどうかと思うんだけど?」
「でも、ヒロト兄ちゃん。女性用の肌着を作っている奴が全員女性ってわけじゃないだろー?」
「そりゃあそうだけど……まぁ、アレスがそれでいいなら構わないか」
集合場所はロスティアの屋敷の庭先だ。
大翔たちパーティーはそこで、魔法装備の更新を行っている。
休暇中、大翔がせっせと作り上げた魔法装備をそれぞれ身に着け、その性能を確かめ合っているのだ。
「お、おお……なんか凄く良い感じ! 力がみなぎるというより、リラックスして最大限の力を発揮できるようなコンディションだぜ!」
「アレスは成長速度が尋常じゃないからね。下手に強化を施すよりは、守護と状態調整に特化した魔法装備で揃えてみたよ」
アレスは新しく身に着けた魔法装備の性能を堪能すると、満足げに笑みを作る。
「ありがとう、ヒロト兄ちゃん! これでダンジョンでも快適に過ごせるぜ! ……で、そろそろあいつの姿にツッコミを入れてもいいのか?」
「あー、ニコラスねー」
アレスと大翔の視線の先には、ニコラスが居た。
『コシュー、コシュー』
全身を黒々とした機械的装甲で纏い、頭部をガスマスクの如きヘルメットで覆ったニコラスが。なんかもう、魔術師見習いというよりは、『円熟した科学文明における機械化歩兵』と呼んだ方がしっくりくる有様である。
その癖、ニコラスが持つ杖は、森の賢者が持つように古めかしい木製の一品だ。
世界観が合っていない、歪な外見。
それはさながら、ゲーム内で純粋に装備の性能ばかりを追求したような有様だ。ファッションや、外見の調和はまるで考えられていない。
「アレス。ニコラスはね、力を得るために……機械の体を手に入れたんだ」
「機械の体!? え!? ヒロト兄ちゃん、そもそも機械ってオレ、あんまり馴染みない!」
「そっかぁ……ごめん、ニコラス。俺たちの鉄板ネタが思いもよらぬ滑り方を」
『コシュー、勝手にネタを振って、勝手に滑って巻き添えにするな……コシュー』
ニコラスはヘルメットを外すと、大きく息を吐いた。
もちろん、ヘルメットの下にサイボーグの顔があるわけでもなく、きちんとニコラスは生身である。生身の表情のまま、大翔へ抗議の視線を向けていた。
「そもそも、俺とシラノが機械化手術を検討していたら、ガチで止めに来たのはお前だっただろうがよ」
「強くなるための手段としては認めているけど、そういうのは保護者の方に許可を貰ってからにしてください」
「保護者のソルです。僕が健在である限り、絶対にニコラスの機械化手術は認めません。シラノにも今回、お説教をさせていただきました」
『《ソル、黒の剣を構えた状態での説教は脅迫と呼ぶのですよ?》』
文句を言っているニコラスであるが、大翔とソルのコンビの意見は変わらない。シラノにもきっちりと釘を刺しているので、どうやら機械化による超強化プランが実現することはなさそうである。
「だーかーら! 反射速度を上げるためには必要なんだって!」
「は? 機械化なんてしなくても、魔力強化で行けるけど? ニコラス、楽をしようとしてはいけないよ……そうだね。君がそんな思想を抱くぐらいに、僕は甘くしすぎてしまったのかもしれない。ごめんよ、今度からはもっと厳しくするね?」
「あの地獄にまだ先があるのかよ!?」
だが、ソルと言い争うニコラスの表情には、封印都市を訪れる前までにはあった、鬱屈とした感情が消え去っている。
アレスは、自分に向けられている嫉妬交じりの羨望が薄れているのを感じて、緩やかに微笑んだ。
どうやら、あのいけ好かない魔術師見習いは、何か吹っ切れることができたらしい、と。
「ロスティアちゃん、ロスティアちゃん。何か進展はあったかしら?」
「何がだ、リーンお姉ちゃん?」
「キスぐらいはしたの?」
「誰とだ、リーンお姉ちゃん?」
「うふふふっ、わかっている癖にぃー」
「ふんっ!」
そして、保護者と子供の言い争いの隣では、姉妹が何やら面倒な絡み方をしている。
進展がないと知りつつも、発破をかけようとするリーン。
姉の意図を薄々知りつつも、余計なお世話だと仏頂面な態度で応えるロスティア。
『《……大翔。まさか、私の見ていないところでロスティア殿と何かありました?》』
「今回の休暇は四六時中、ずっと一緒に居たよね、シラノ?」
『《なるほど。つまり、前回の内には何かあったかもしれないと》』
「シラノ。君は頼れる相棒だけど、時々ポンコツになるのは何故だろうね?」
さらには、姉妹の話から妙な方向に疑心を持ったシラノが、面倒臭い絡み方を大翔にしている始末。
出発前だというのに、どこを向いても仲間たちがぎゃあぎゃあと騒いでいる。
緊張感なんて皆無で、まるで休日に旅行へ行く家族を見送るような騒がしさだ。
「まったく、仕方がない奴らだなぁ」
その騒がしさを頼もしく思いながら、アレスは仲間たちを宥めに向かう。
勇者になってから、初めの休暇の終わり。
それはアレス自身が思っていたよりも名残惜しく、けれども清々しいものだった。




