第45話 オルゴールの騎士
遠吠えは笛の音のようだった。
冷え切った空気を震わせる音が一つ響いたかと思うと、次々と呼応するように遠吠えが重なっていく。
やがて、その遠吠えは雪煙を生み出した。
つむじ風が雪面をさらったかと思えば、それらが霧や煙の如く宙に漂う。
結界越しに差し込む、僅かな光。
それを反射して、僅かに煌めくダイヤモンドダスト。
その雪煙は段々と形を変えていき、影絵の如く狼の群れを象った。
『グルルルル』
群れの中の内、一頭は喉を低く鳴らす音を出した。
警戒と、攻撃の意志を示す鳴き声。
亡霊となってなお、消えること無い狼としての習慣。
それらは今、侵入者を追い立てるための技能として役立っている。
「はぁ、はぁっ……」
亡霊なる狼たちの群れ。
その敵意の先にあるのは、荒い息を吐く大翔の姿だった。
「神話の伝承通り、本当に数が多いね、君たち」
大翔は息を切らせながらも、狼たちへと減らず口を叩く。
口元には虚勢ながらも、敵意を跳ね返すのには十分な笑みを浮かべて。
視線は油断なく、狼たちと周囲の地形を捉えて、逃げ出す算段を立てている。
だが、生憎、この狼たち――かつて冬の眷属だった亡霊たちは、大翔を逃すつもりなど毛頭ない。
『グォウ』
『バウッ』
『グルルル』
吠える声で意思疎通しながら、油断なく大翔を囲む狼たち。
大翔の動きに合わせて、遠ざかりながらも円形に回り、逃がさないように狙いを定める。
かつて、松明の巨人を狩っていた時と同じように。
『――――グルォウ!』
「くそが!」
群れを率いる狼が号令を出したのと、大翔が悪態を吐いたのはほぼ同時。
亡霊の狼たちは、生前とほぼ変わらぬ速さで大翔へ飛び掛かる。
さながら、白い銃弾の如く。
音を置き去りにして、大翔の肉体に氷牙を突き立てようとする。
数で囲み、速度で噛みつく。
これが、かつて松明の巨人と争った、氷牙の銀狼たちの基本戦術だった。
だが、それは自分よりも巨大な相手と戦うことが前提の戦術である。
自分たちと同等程度の大きさしかない獲物を屠る時、群れの全てが同時に攻撃できるわけではない。同時に氷牙の威力を発揮できるわけではない。
それがあだとなり、けれども、全滅を回避する要因となったのだろう。
『ギャウッ!?』
『ガギャッ!?』
『キャインッ!』
大翔に襲い掛かった狼たちは、例外なく悲鳴を上げて消し飛んだ。
否、正確に表現するのであれば――浄化された。
「来いよ、獣ども。荼毘に付してやる」
狼たちの氷牙は、大翔には届かない。
大翔が纏う暖色の炎――聖火に触れた瞬間、存在を浄化されてしまったが故に。
「さぁ、どうした? 弱そうな獲物に仲間をやられて、怖気づいたか?」
聖火を纏う大翔は、じりじりと後退る狼たちを挑発する。
もちろん、これも虚勢だ。
そもそも、狼たちに言葉が通じているなんて希望的観測は持っていない。過去に魔獣と心を通わせた実績のある大翔であるが、流石に超越存在の眷属――その亡霊とは心を通わせる自信なんてない。
だから、これは強気な態度を見せるための挑発であり、フェイントだった。
「来ないのなら、こっちから行くぜ?」
大翔は纏う聖火の量を増やし、花火の如く『爆発』させる。
『ギャウンッ!?』
『ガウッ!』
『グルルッ!』
それを攻撃と受け取った狼たちは、素早く聖火の範囲から離脱。
悲鳴を上げながら混乱する個体も居るが、中には冷静な個体が増援を呼ぼうと吠える。
『グルルル……?』
しかし、聖火の炎が収まった時、狼たちの視界の中に、大翔の姿は無かった。
それもそのはず、大翔が聖火を『爆発』させたのは、派手なエフェクトで狼たちの視界を塞ぐため。魔法道具を全力起動させて、この場から離脱する音を掻き消すため。
何より、狼たちの包囲が緩んだ箇所を狙っている……逃走しようと思っているとは気づかせないための虚勢だったのだ。
「はぁ、はぁ、はぁっ! くそ、くそっ! 無理だっての!」
狼の群れから遠く離れた、雪の斜面。
氷像の如き木々の間を駆け抜けながら、大翔は盛大に弱音を吐いていた。
「いくら! 相性が! 超良くても! 数には! 勝てない!!」
涙を流すと凍って目が痛むので、涙を流さずに。
ロスティアが作り上げた魔法装備の効果を遺憾なく発揮しながら、高速で駆け抜けて。
けれども、大翔は未だ、銀狼対策どころか――その配下。亡霊の狼の攻略すら考え付かずにいた。
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大前提として、大翔が扱う聖火に、亡霊たちは抗うことができない。
生前が冬の眷属だったとしても関係ない。聖女から継承し、化身から手ほどきを受けた聖火は、あらゆる呪いを焼き払う。浄化する。
当然、現世に囚われ、銀狼に使役される亡霊たちも例外ではない。
恨みと未練によって呪縛され、苦しみながら現世に囚われる亡霊たちは、聖火の炎によって解放されるのだ。
それが敵対者から与えられる救済だと知っていたとしても、魂の解放には抗えない。あるいは、抗おうとも思えない。
長く苦しんだ亡霊ほど、聖火の温かさに触れた瞬間、自らを縛るその苦悩、恨み、呪縛が焼き払われるのだから。
従って、大翔がどれだけ戦いに向いていない人間でも、聖火を振り回しながら逃げれば、亡霊の狼たちは易々と追い詰めることはできなくなるのだ。
「…………はぁあああ。しんどい、とてもしんどい」
しかし、圧倒的なアドバンテージを持つはずの大翔は今、狼たちの追跡から逃れるため、木々の間に隠れていた。
冬の結界内部に侵入してから、おおよそ三十分間。
大翔は多くの狼たちを焼き払い、その魂を解放し続けている。
最初の十分間は、黒幕に対する怒りを抱きながら、苦手な戦闘でも『やってやんよ!』と狼たちを焼き払って。
次の十分間は、流石に冷静になったのか、隠れながら銀狼本体を探そうとあらゆる手段を講じて。
そして、最後の十分間は苦悩していた。
銀狼本体に辿り着くためには、亡霊の狼たちの囲いを突破しなければならないという、現実の壁に直面して。
「もう百体は浄化したのに。一体、あいつらは後どれだけ潜んでいるんだ?」
疲労が滲む表情で呟く大翔。
その言葉に込められているのは、希望的観測ではなく、現実的な問題だ。
亡霊の狼たち。
聖火で焼けば、抗うことなく浄化される存在であるが、その数は多い。多すぎるほどに、多い。何度焼き払おうとも、追いかけてくる群れの数はまるで減らない。それどころか、大翔の存在を銀狼本体が感知したのか――――数は段々と増えている。焼けば焼くほど、追手が増えているのだ。
「…………あいつらの囲いを突破するまで、師匠の装備は持つのか? 何より、俺自身が耐えきれるか?」
更には、亡霊の狼たちが厄介なのは数だけではない。
聖火で鎧袖一触することが可能な相手だったとしても、向けられる氷牙には冬の力が込められている。
そう、松明の巨人――陽光の眷属を打ち滅ぼすための力が。
そのため、どれだけ聖火で身を覆っていたとしても、氷牙に噛みつかれてしまえば、聖火の力も弱まってしまうのだ。
一体だけなら、まだ問題ない。
聖火で中和した氷牙程度ならば、ロスティアの装備は貫けない。
ただ、それが二体、三体、果ては十体。それだけの数が一斉に噛みつけば、ロスティアの魔法装備も損傷を受けてしまう。
もしも、魔法装備が効力を失ってしまったのならば、後は魔法道具の備蓄を減らして逃げ回るだけの消耗戦だ。
戦闘のプロでも、戦争のプロでもない大翔が、それに勝てる見込みは無い。
「だったら、聖火を今以上に…………いや、駄目だ。それこそ、駄目だ。多分、これ以上は『戻って来られるライン』を踏み越えてしまう」
ならば、狼たちが近づけぬほどの聖火を常に纏う方法はどうだ?
その自問に対して、大翔は即座に『駄目だ』と自答する。
聖火はどれだけ使っても、まるで疲労を感じない。むしろ、『使えば使うほど力がみなぎる』感覚すらあるのだ。やろうと思えば、それは可能だろう。ロスティアが託してくれた魔法装備『アマテラス』もある。火力を上げることは、ほぼ確実にできるだろう。
だが、大翔の本能はここにきて、警告を鳴らしていた。
この聖火は――権能は、決して便利なだけの道具ではない。使えば使うほど、『何か』を代償として差し出しているのだと。
「だが、ここを踏み越えないと……いや、そもそも、配下の亡霊程度でこれだと、本体の銀狼へ対処するなら、多分、もっと」
だが、現状はまるで足りていない。
大翔自身の戦闘力。
それを補うためには、現状の装備、聖火の威力ではまるで足りていないのだ。
何故ならば本来、亡霊の露払いと本体の捕獲を行うのは、世界最強クラスであるソルの役割だったのだから。当然、大翔程度の戦力ではその代わりは果たせない。
「…………ぬぅ」
冷静に状況を把握すればするほど、大翔の絶望感は増していく。
今はまだ、精神に灯る負けん気と怒りが拮抗しているが、それも時間の問題だろう。
恐らく、救援は来ない。
むしろ、大翔が単独でこの状況を打開しなければ、仲間たち――それどころか、この世界すらも危ういというのが現状だ。
抗うしかない。
希望が見えなくても、まるで銀狼本体をどうかできる気がしなくとも、大翔がやらなければならないのだ。
「――っ!? しまった!」
そんな気負いがあった所為か、大翔は致命的なミスをしてしまう。
気づけなかったのだ。
あまりにも静かだったから。
遠吠え一つ聞こえなかったから、上手く隠れていると思い込んでしまっていたのだ。
――――いつの間にか、大翔の視線の先に、立ち上る『巨大な雪煙』が現れていたことに。
『グゥルウウッォオオオオオオオオッ!!!』
山一つ分に達する、巨大な狼の口。顎。牙。眼光。
それは大翔に狙いを済ませると、地鳴りと共に襲い掛かる。さながら、雪崩の如く。
無数の亡霊の集合体。
いくつもの群れが合わさった巨大なる狼は、怨敵を食らうように――あるいは、救いを求めるように大翔の体を、周囲の地形ごと押し流した。
「う、うぉおおおおおおおおおおおおおおっ!!!」
命に及ぶ、文字通りの致命的なミス。
従って、それを取り戻そうとするのならば、もはや手段を選ぶなんて真似をしている余裕は無かった。
ロスティアの魔法道具は全開放。
聖火は一線を踏み越えて、己が出せる限界の炎の量を。
「く、そ」
それでも、足りない。
溺れるような亡霊の奔流を焼き尽くすには足りない。
あまりにも、戦いの才能が足りていないのだ。
佐藤大翔は普通の男子高校生であるが故に、戦いでこの劣勢を覆すことはできない。
勇者であっても、英雄ではない大翔では駄目なのだ。
『まったく、しょうがない奴ね』
――――だからこそ、オルゴールの音色は響き渡る。
『剣、借りるわよ』
聞き覚えの無い、しかし、どこか懐かしい声が大翔の耳に届いた次の瞬間、周囲の亡霊たちは切り払われた。
そう、聖火を灯した剣によって。
亡霊神殿。その中で拾った、亡霊特攻の剣を振るう何者かの助力によって。
「…………え、あ?」
大翔は拓かれた視界で、その後姿を呆然と眺めていた。
聖火を纏う、真紅の全身鎧。
松明のように聖火を灯しながらも、一切揺らぐことのない剣閃。
その姿は、その戦い方はまるで、聖女を守護していた真紅の騎士のようだった。
『さぁ、恩返しを始めましょうか!』
ただ一つ。
鎧の中から聞こえる声は、あの真紅の騎士とはまるで異なっていて。
けれども、聞き馴染んだオルゴールの音色のように、大翔の精神に安らぎを与えるものだった。




