第44話 悪辣なる罠
いつの間にか、見上げる空は灰色に満ちていた。
雲ではない。
文字通りの灰――何かが燃えた後に残った物質が、空から降って来たのである。
さながら、雪でも降るかのように、緩やかに。
「……な、あ」
空から降る、灰。
この意味を良く知るロスティアは、けれども、意味を良く知っているが故に動けない。あり得ないはずの現実に直面したショックで、たじろいでしまっている。
『《こ、れは――》』
広範囲の警戒を担当するシラノも、その異能の制限故に見抜けない。そればかりか、灰が降ることによって、大翔との同期が弱まってしまっている。
「「敵襲っ!!」」
だからこそ、真っ先に動き始めたのは、勇者二人だった。
ソルはいつの間にか黒剣を鞘から引き抜き、空を睨むようにして構えている。
大翔は聖火を傘のように形成し、空から降って来る灰を焼き払う。
「―――っづ! 創始者の名に於いて、封印都市に命じる! 全住民を都市の外まで転移させろ! 例外は認めん!!」
勇者二人が行動を起こしたところで、ロスティアがショックから回復した。
冷や汗をかきながらも、効果が及ばなくなる前に、都市の住民の全てを避難させる。創始者であるロスティアのみに許された絶対権限により、転移の拒絶も許さない。
何故ならば、そうしなければ都市の人間は全て、皆殺しにされてしまうのだから。
「『【お、おおお、おおおおおおっ】』」
住民の転移が辛うじて終わったところで、雷鳴の如き唸り声が轟く。
それは明らかに、生物の範疇を越えた轟音であるが、どこか人の声にも似ていた。ただし、男女とも区別のつかない、『断末魔』を連想させる悍ましき声であるが。
「馬鹿、な。何故、何故、お前が…………お前の封印が解けている!?」
吠えるように叫ぶロスティアの視線の先には、灰色があった。
天を衝くほど巨大な、人型の灰色があった。
――――神話の時代。姉であるリーンが封印したはずの、灰色の巨人が。
「『【おおお、おおおおおお】』」
灰色の巨人は唸り声を発すると、緩やかに右手を動かした。
まるで、テーブルの上にあるお菓子でもつまむように。珍しい石ころでも拾おうとするように。大翔に向けて、巨大なる右手を向けたのである。
「させないよ」
だが、護衛であるソルがそれを許さない。
大翔へ近づこうとした右手は、振るわれた黒剣の斬撃によって消し飛ばされた。
灰を切り刻んだのではなく、空間ごと世界から消し去る一撃だった。
「『【お、おおおおお】』」
それでも、灰色の巨人の行動は変わらない。
失った右手は直ぐに修復される。ダメージが無いわけではなさそうだが、行動を止めるほどの傷は負っていない。そればかりか、段々と灰色の巨人は、その巨大さを段々と増しつつあった。
「まさか、あれは――進化、いや、変質の途中なのか?」
神話の時代、世界を終わらせかけた灰色の巨人。
陽光の乙女の眷属であり、既に死した亡霊の如き存在。
厄介極まりない相手に、ソルの意識は僅かの間、戦いにのみ割かれることになる。
『《大翔、避けてっ!》』
従って、その僅かな隙を狙ったかの如く――否、正真正銘、隙を狙った奇襲を避けられたのは、シラノによる警告のお陰だった。
千里眼には及ばず、しかし、無いよりはマシだとシラノが展開させていた探知の魔術。
それが捉えたのは、大翔に向かって落下してくる無数の物体。
音速を越えて、聖火の傘もぶち破って落下したそれは、着弾の衝撃によって庭を盛大に破壊した。
「ああもう! 順調過ぎるとは思ったけどさぁ!!」
悪態を吐きながら、きっちりと落下物の直撃は避ける大翔。
だが、当然ながら奇襲はこれで終わりではない。
『幕引きを』
『喜劇に』
『悲劇に』
『『『幕引きを』』』
落下の衝撃で舞い上がった土埃、その中から浮かび上がったのは三つの立方体だった。
色は暗黒。
震わせる音声は冷たく。
無機質な外見であるにも関わらず、回避行動を取った後の大翔に対して、明らかに敵意を向けている。
「ヒロト――っぐ、う。この、ここぞとばかりに!」
ソルは当然、大翔のフォローに入ろうとするが、灰色の巨人は右手ばかりか、今度は左手も合わせて伸ばしてくるので、それを凌ぐので精一杯だ。僅かでも緩めば、奇襲した謎の物体ごと、ソルたちは灰に飲み込まれてしまうだろう。
そして間違いなく、あの灰に飲み込まれたら、勇者といえでもろくなことにはならない。
『止まれ』
『停まれ』
『留まれ』
『『『冬の中で、永遠に』』』
一方、奇襲を行う立方体は自身の被害を考慮していなかった。
至上命令はただ一つ、勇者である佐藤大翔の抹消。
そのために放つのは、冬の眷属が持つ権能の一つ。空間ごと、敵対者を氷に閉じ込めて永遠に凍結させるという、即死に値する攻撃。
「ちぃっ!」
ロスティアは立方体の攻撃を察すると、即座に魔法道具を使おうとするが、遅い。超一流の魔導技師であっても、ロスティアは戦闘に特化した存在ではない。
最初から勇者を殺すためだけに作られた眷属には、遅れてしまうのだ。
そして、容赦なく立方体の攻撃は、大翔へと向けられて。
『『『――――対象をロスト』』』
盛大に空振りした。
立方体の攻撃は、大翔の姿――『それを映し出した陽炎』と中和したのみ。
大翔に当てることはできなかった。
『『『――――???』』』
ならば追撃、と周囲を探査する立方体だが、それでも大翔の姿を捉えられない。この場の空間には存在しない。
これは一体、どういうことなのか? その疑問に、三つの立方体が同時に答えに至った時、既に猶予時間は過ぎていた。
「くそ、最悪の一歩手前だ」
悪態を吐きつつ、ソルが黒剣を振るうと、三つの立方体は全て両断される。
本来、物理的な損傷など意味を為さないはずの『冬と夜の眷属』であるが、ソルの一撃ならば話は別だ。両断されると、それらの立方体は煙のように存在が揺らぎ、虚無へと帰っていく。
「早く大翔の下に―――はぁ、まったく。元気だよね、あいつ」
けれども、今度はソルの猶予時間が切れていた。
両手を切り払って時間稼ぎをしたのだが、灰色の巨人は既に修復済み。その威容は衰えることなく、ますます力を増大させている。
「…………魔剣使い。私も可能な限り手助けする。なんとか、こいつを再封印するぞ。そうしなければ、この世界も、私の弟子も、全てが灰に飲まれてしまう」
ソルの横に立ち、ロスティアは苦渋の表情で灰色の巨人を睨んだ。
――――二人は、大翔を追うことはできない。
聖火による陽炎で立方体を幻惑し、追撃を回避するために、転移ゲートを介して冬の結界内部へと突入した大翔。その後を追い、冬の結界に突入するためには、灰色の巨人に対処しなければならない。
万全の準備から始まった作戦は、何者かの『悪辣なる罠』によって、いきなり窮地に追い込まれていた。
●●●
白。
視界を埋め尽くす白。
それらは全て、雪だった。
しんしんと、静かに振り続ける雪は、ありとあらゆるものを白く埋もれさせている。
冬の結界の内部。
草木もろくに生えない雪山の中に転移した大翔は、即座に転移ゲートを閉じた。
増援が来る可能性と、追撃によって自分が殺される可能性を比較して、明らかに後者の方があり得ると判断したのである。
「シラノ! 応答してくれ!」
『《ザザザッ――大翔、妨害が――――ザザッ》』
雪で覆われた斜面に着地した大翔は、まず相棒との通信を試みた。
けれども、腰に下げたラジオからはノイズばかりが聞こえてきて、そのノイズすらも、しばらくすると聞こえなくなる。コートの内部から取り出した、予備のラジオ筐体でも結果は変わらない。
どうやら、灰による妨害と、冬の結界内部という条件が重なり、シラノとの同期が切れてしまったようだ。
「……う、ぐ」
相棒であるシラノと通信ができない。
その事実に、大翔の心は打ちのめされそうになるが、奥歯を強く噛んで耐える。絶望に埋まりそうな思考をカット。現実を冷静に判断する理性を無理やり鈍らせて、『現実逃避』という名の誰にでも使える鎮痛剤で誤魔化す。
「状況を、整理しよう」
心の奥の部分を動かさず、表面だけをなぞる様に、大翔は己のやるべきことへと意識を向けた。
「灰の巨人……多分、神話に出てくる奴かな? 師匠のお姉さんが封印した奴。そいつが出て来たってことは、封印が解かれたってこと。何故? 事故? 権能クラスの封印だよ? 誰が開封できる? …………あの黒い立方体。あれは、灰色の巨人が生み出した産物には見えない。むしろ、あれは俺たちの世界の…………冬の女王と夜鯨の追撃? いや、超越存在がわざわざ世界を隔てた俺たちを排除しようと思うか? それだけの価値を見出すか?」
無意識の内に、周囲を警戒する魔法道具を発動させて。
コートの内側から、一粒食べるだけで三日は無補給で動ける劇薬を取り出し、水も無しに飲み下して。
「明らかに、狙いは俺だった。何故? 俺が一番弱かったから? 可能性はある。でも、それだけじゃない。作為的……人為的? シラノとソルが、俺に配慮して言わなかったこと。ああ、そもそも、そうか…………朝比奈久遠が失敗した理由は」
そして、現実逃避に推理を始めた思考は、思わぬ正解へと辿り着く。
「敵がいる。勇者を排除し、俺たちの世界を滅ぼそうとする敵が」
即ち、世界の滅びを望む者が存在すると。
そして、それは勇者を狙い、希望を断ち切らんと、今もどこかで狙いを定めているかもしれないのだ。
朝比奈久遠という、前任者ですら敗北に追いやった怪物が。
「…………なるほどね」
敵の存在に辿り着いた大翔は、シラノとソルがどうしてその存在を隠していたのか、その理由を思い知った。
敵意ある何者かに狙われている。
しかも、そいつは世界を滅ぼそうとするほど悪意に満ちていて、大翔とは比べ物にならないほど優秀な前任者に勝利する、恐るべき『何か』を持つ存在。
そんな事実に気づいてしまえば、大翔は恐怖とストレスで精神を病んでいたかもしれない。
「は、ははは、そうか、そうか、なるほどねぇ」
だが、今は違う。
過去の大翔であれば――聖火を継承し、ロスティアの弟子となる前の大翔であれば、リタイアの可能性もあったかもしれない。
いや、ほぼ確実に、怯え、苦しみ、病んでいただろう。
けれども、今、大翔の精神を占めているのは絶望ではない。
「ふざけやがって」
怒りだ。
魂を焦がすほどの怒りが、大翔の精神から絶望や恐怖を焼き払っていた。
「皆、皆、死ぬんだぞ? それに、師匠だって……ずっとお姉さんのことを救ってあげたくて……それなのに、それなのに!!」
超越存在に対する怒りは、もちろん最初からあった。
それでも、超越存在は天災の如きものだと大翔は捉えていたのである。悪意も敵意も無しに、存在するだけで他を圧倒する理不尽。
それを恨み、怒りはしたとしても、抱くのは『抗わなければならない』という使命感だった。
許せない、なんて思えるような傲慢は抱かなかったのだ。
――――しかし、この敵は違う。
明らかに悪意がある。
明らかに嘲笑がある。
明らかに、他者の尊い想いを踏みにじるような外道だ。
少なくとも、大翔は敵のことをそう認識していた。そして、これから先、その認識を改めるつもりはない。
「は、はははっ、いいぜ、いいぜぇ、まったくさぁ! こんなにブチ切れたのは生まれて初めてだ! だから、そう――だから! 認めてやるよ、腐れ外道め!」
大翔の吠え猛るような声は、敵――黒幕に届いていないだろう。
結界内部に降る雪は、憤怒の声すらも、無情に吸い込んでいくだろう。
「君は、俺の敵だ。何があっても許さないし、容赦もしない」
だが、この時、無力なる勇者は確かに宣言したのだ。
悪意ある罠に嵌められていたとしても。
絶望的な窮地に陥っていたとしても。
「――――精々、覚悟しろ」
黒幕を倒してみせると、確かに宣戦布告をしたのだった。
そして、この時この瞬間、『運命』は崩壊を始めたのだ。




