第31話 停滞を焼き払って
「大丈夫よ、ロスティア。お姉ちゃんが、なんとかしてあげるからねぇ」
十年に一度、彼女は鮮明に過去を思い出す。
灰が降る、街の光景を。
冬を纏う、姉の姿を。
――――天を衝くような、忌まわしき灰色の巨人を。
「待って! リーンお姉ちゃん! 行かないで!」
悲劇を再演するように、彼女の喉は過去の言葉を繰り返す。
意識だけは鮮明としている夢の中で、けれども、彼女は何も変えられない。一人称視点の映画でも見ているかのように、再演は続いていく。
「愛しているわ、ロスティア」
姉の姿が、涙で滲む。
彼女の姉は、優しくて、間抜けで、適当な事ばっかり言って、いつも誰かに世話をされているような昼行燈の癖に、こういう時ばかりは格好つける人だった。
誰かが犠牲にならなければならない時、真っ先に手を上げる人だった。
恨むことなく、憎むことなく、愛を告げて使命を果たす人だった。
「冬の毛皮よ! 銀狼の呪いよ! 我が名はリーン! 偉大なる狩人、アルケーに連なる守護者なり! 今こそ、貴様が望む結末を受け入れよう!」
吠え猛るように、姉が何かを宣言する。
巨大な毛皮を羽織る。
その後から、彼女の記憶は曖昧になっていく。
思い出せるのは、視界を埋め尽くすほどの雪。灰を押し返すほどの、猛烈な吹雪。
それと、最後に一つ、世界中に響くような狼の遠吠え。
「リーンお姉ちゃん!」
呼びかけは届かない。
吹雪に阻まれて、どこにも届かない。
これが、悲劇の終わり。過去を再演する、夢の終わり。
今では神話と呼ばれている、他愛もない姉妹の離別だった。
●●●
本が雪崩を起こす音で、彼女――ロスティアは目を覚ました。
体を起こそうとすると、『どさどさっ!』と本が崩れる音が響く。どうやら、いつの間にか本の中で埋もれてしまっていたらしい。
「……はぁ」
ロスティアはため息混じりに、指を鳴らす。
ぱちんっ、と軽快に音が響くと、室内で雪崩を起こしていた本たちは、それぞれが本棚の中へと戻って行った。しかも、その際に舞った埃の類は、亜空間へと吸い込まれて消滅している。
本の整頓と、室内の掃除を短時間で終わらせる魔術。
それは、ロスティアが己の横着のために開発した魔術だった。しかし、開発に思いのほか手間取り、結果として使用人を雇った方が遥かに安く、手間もかからなかったという失敗談も付与されている。
そのため折角、作り上げた魔術は、本に埋もれでもしなければ、使わなくなってしまっていた。ロスティアは、過去の失敗談を思い出すのが嫌いなのである。
「…………嫌な夢だ」
十年に一度、まったく同じ言葉を呟くロスティア。
その機嫌は、定例通りに最悪だ。
こういう日は、何もしない方がいいことをロスティアは経験則で思い知っていた。
学園での講義の予定も、市長との会食の予定も全部キャンセル。後で、秘書に文句は言われるだろうが、今更そんなことを気にするような繊細さは持ち合わせていない。
だが、それでも、魔導式の携帯端末を確認して、緊急の連絡がないかどうかを確認する。それぐらいの社交性は、ロスティアにも存在していた。
「む、緑王のステーキが入ったのか」
すると、ロスティアの僅かな社交性を褒め称えるかのように、朗報が一つ。
行きつけのレストランが、常連の中の常連にしか出さない特別メニュー。緑王のステーキを出せるとの連絡があったのだ。
「ふぅむ」
眉間に皺を寄せて、ロスティアは少しだけ悩む。
経験則から言えば、今日は何もせずにベッドで横になっているのが最善だ。最悪の機嫌の日は、何をしても周囲を威圧してしまう。有象無象が何を思おうが、ロスティアは一切気にしないが、市長や秘書から小言を言われるのは面倒だ。従って、機嫌が戻るまで外出しないのが最善なのだが……緑王のステーキとなると話は違ってくる。
「今、食べ損ねると、次は何年後になるか」
緑王のステーキは、ロスティアの好物だ。
食べ物に頓着しないロスティアにとって、唯一の好物だ。
――――何故ならば、姉の得意料理だったから。
過去の残滓を味わい、忘れないように刻み付ける確認作業。
それこそが、ロスティアにとって『好物を食べること』だった。
「…………たまには、小言も悪くない。そう思おう」
しばらく悩んだ後、ロスティアは携帯端末を使ってレストランの予約を取った。
面倒だと思いながらも、外行きの服へと着替える。
癖毛も魔術で直し、自身に『清浄』の魔術をかけて、清潔な状態に。
「ふむ」
部屋の隅に追いやられ、居心地悪そうにしていた全身鏡。
その前に立ったロスティアは、まじまじと鏡に映った己を観察する。
藍色のロングヘアーに、翡翠の如き瞳。容姿は、長命種族の中では平均的な美貌だろう。眉間に皺が寄って人相が悪い分、評価は下がるが、一般的には美女の部類に入る成人女性だ。
枯れ木の如き細身は、外套に身を包めば問題ない。その下に、新品のシャツやスラックスでも着れば、それなりに体裁は整うだろう。そもそも、食事を必要としない体なのだから、細身の方が行動しやすい。
「…………」
ただ、人相が悪すぎるのは気に食わなかったらしく、ロスティアは手元に愛用の眼鏡を召喚。銀縁のそれをかければ、少しだけ人相がマシになった。
記憶の中にある姉の姿へと、近づいていた。
「行くか」
納得したように頷くと、ロスティアは書斎の外へと歩いていく。
既に機嫌は、最悪から大分マシなものへと変わっていた。
●●●
緑王の肉は、肉厚な果実にも似た食感がある。
ジビエでは考えられないほど肉が柔らかく、臭みはほとんどない。ロスティアが知る限り、植物の肉をステーキに見立てたものや、大豆の豆で作った代用ステーキ――豆腐ステーキに似たレシピらしい――と同等か、それ以上に臭みが少ない。
その上、一口噛めば肉汁が舌の上へと広がり、上品な旨味が口内を満たす。
獣や魚の臭みを嫌うロスティアは、唯一、この緑王の肉だけはステーキで食べることができた。
「ふむ。今回の調達者は腕がいい。肉に負担がかからないよう、上手く仕留めて解体したようだな」
誰に言うでもなく、賞賛の言葉を呟き、ロスティアはステーキの肉を口へ運ぶ。
熱せられた鉄板の上にあるステーキ。それを切り分け、口元へ運ぶ仕草は上品で洗練されているが、気取っていない。マナーだからそうしているわけではなく、そうするのが効率的だからやっている、というような自然な動作だ。
「そして、歌手の声も悪くない。素人にしては」
緑王のステーキを堪能しながらも、ロスティアの意識はライブコンサートの出演者にも向けられていた。
ロスティアが贔屓にしているレストランには、ライブステージが存在する。
ただし、そこに出演する者はほとんど素人だ。プロではない。主に、レストランに通う常連か、レストラン関係者のコネクションを得た素人が経つような場所だ。本格的に音楽を目指す者の場所というよりは、身内のお遊びに近い。
だが、あまりにも下手だとレストランの品位を損ね、食事を阻害する可能性があるので、ある程度の力量が求められるという、妙に中途半端なライブコンサートなのだが。
「ビジュアルは平凡だが、声には魔力が乗っている。プロ志望の歌手が、ここの客のコネクションを求めてやって来た、と言ったところか」
ライブステージの上では、燕尾服の少年が笑顔で歌声を響かせている。
黒髪で童顔。極東の出身か、はたまた異邦の世界から旅人か。喉の奥から奏でられる歌声は、ロスティアをして珍しいと感じる異国情緒あふれる音楽だ。
悪くない、と感じたのは本当のことだった。
アイドルとして売り出すにはビジュアルが不安であるが、歌手として活動するのならば、上手く行けば食っていける程度には成り上がれる。そんな予感を抱かせる少年だった。
成功も失敗も、良くも悪くも平凡の中に納まるような、普通の少年。
そんな人間も気軽に来られるような街になったか、とロスティアは感慨にふける。
「二千と十四年、か」
ぽつりと呟かれた言葉は、ロスティアがこの土地と共に刻んで来た年数だ。
封印都市と呼ばれるよりも、遥かに前。
現代では神話と呼ばれていた時代、この土地は自然以外に何もなかった。
偉大なる狩人に連なる姉妹が、のんびりと二人きりで暮らしていた時代。
スローライフからは程遠いが、それでも、ロスティアは『あの頃は良かった』と感傷を抱く。生活は今よりもずっと不便だったが、それでも、姉が居たのだから。
姉さえ居てくれれば、ロスティアはどんな時代のどんな場所でも、そこが理想郷だったはずなのに。
「未練がましいな、我ながら」
今では、その理想郷は、果てしなく遠い。
辿り着くことは不可能ではないのだ。道順はわかっているのだ。
だが、その道程には深い断絶がある。飛行機にでも乗らなければ、飛び越えることができない断絶が。
問題は、その飛行機――通行手段を誰も持っていないということ。
ロスティアが二千年以上の時間をかけても、作り上げることができないということ。
だから今、ロスティアは縋るように過去の思い出を食らっているのだ。
「ははっ」
口から漏れ出たのは、自虐と諦観が混じった笑い。
封印都市では『偉大なる師』などという異名で畏れられていたとしても、その正体は、実の姉一人も救えない無能だ。
少なくとも、ロスティア自身はそう思っている。
それなのに、周囲はロスティアを畏れ、褒め称える。
魔術師としての技量を。
魔導技師としての実績を。
たった一人の家族を、『呪い』から救い出すこともできないというのに。
その認識の違いが、ロスティアをより一層偏屈な性格へと変えていくのだ。長い年月の中で、諦観と自責、周囲からの称賛と畏れが、ロスティアの性格を捻じれさせた。
もはや、自分ではどうにもならないほどに。
「……んっ?」
ロスティアが思考の沼に嵌っていた時、ふと周囲の客たちが湧き上がる声を聞いた。
客たちの視線は、手前の食事からライブステージ――その中で笑顔を振りまく少年へと集中している。
一体何が、とロスティアが目を凝らすと、『それ』は少年の周囲で発生した。
「皆様との出会いを祝しまして! 可憐なる火炎! 百花繚乱をご覧いただきましょう!」
少年が手を広げると、周囲に暖色の花が咲く。
否、暖色の炎が花束を形成しているのだ。瞬く間に、とてもスムーズに。無詠唱にしても、魔力の淀みをまるで感じさせない、まさしく職人芸と呼んでも過言ではないパフォーマンスだった。
店内の客たちは、素人の歌手が見せる、思わぬ技量のパフォーマンスに拍手喝采だ。
「――――馬鹿な」
けれども、その中でただ一人、ロスティアだけは真実を見抜いていた。
あれは魔術ではない。異能でもない。
権能。
超越存在でしか与えることができない、神の如き力。
それを目のあたりにした瞬間、ロスティアは己の停滞が焼け落ちる音が聞こえた。
「は、はははっ」
口元に浮かぶ笑みは、停滞でも自虐でもない。
この千載一遇を喜ぶ、歓喜の笑みだった。
「では、皆様っ! またいつか、お会いしましょう!」
パフォーマンスを終えた少年は、拍手喝采を受けながら舞台裏へと入っていく。
その途中、少年の視線とロスティアの視線は確かに交差していた。
互いに、このまま別れるつもりはない、とでも言うかのように。




