第20話 試練は重く
それは氷像のようだった。
白銀の世界で、時間と共に凍結している人々。
彼らの中から色は失われ、透明な氷像として、ただそこにあるだけの物体に成り果ててしまっている。
個性は限りなく失われ、ただの氷の塊として、そこに存在し続けるのだ。
地獄の最下層でも、ここまで残酷な仕打ちはしないだろう。
「…………僕、は」
ましてや、今までずっと世界の守護者であったソルとっては、その光景は地獄すらも生ぬるいものだったのかもしれない。
「僕は、なんで……こんな」
うわ言を繰り返しながらも、ソルはただひたすら歩く。
歩いている途中に傷は癒えて、ソルはまともに動けるようになった。
心は砕けていたが、それでも、残った心の欠片に縋るように、ソルは愛しい彼女を見つけ出そうとする。
「――――」
不思議と、ソルがアンナを見つけ出すのに時間はかからなかった。
まるで磁石のように、ソルの歩いた道がアンナに向かうための最短ルートとなる。それほどまでに、ソルはアンナに引き寄せられていた。
けれども、再会したアンナは何も語らない。
広大に広がる真っ白な雪原の中で、ただ一人。ぽつんと、氷像として静止しているのみ。
「どうして?」
長い沈黙の後、ソルがようやく絞り出した言葉は、疑問だった。
あまりにも残酷で理不尽な仕打ちに対する、現実への疑問。
あるいは、五百年も生きている癖に、たった一人の少女すら守り抜けなかったという、後悔の言葉だったのかもしれない。
どちらにせよ、この時、勇者としてのソルは完全に死んだ。
「どうして! どうして! どうして! 僕はこんなに弱いんだ!?」
愛する者を守れなかったばかりか、世界の危機に抵抗することもできずに、ただ、生き残っただけの無能。信じられないほどの弱者だと、ソルは喉が裂けるほどに己を罵った。
「…………ぁあ、げほっ」
そうして、言葉もまともに出せなくなった頃、ソルはようやく思い出す。
「『《【オ前が、マ、王、ころセ。せ界、モトど、オリ】》』」
超越存在から刻まれた、凍った世界の解凍条件について。
「ひ、あ……あ、あぁがあああっ!?」
発動する、呪詛による行動強制。反射的に『夜の剣』をアンナに向けて振るいそうになる腕を、もう片方の腕でソルはへし折った。その瞬間、『守るべき世界を見捨てるのか?』と、冷静な理性が己を罵る。
だが、それでも、感情はアンナを殺したくないと叫んでいた。
「あ、ぎ、ぐっ! が、あぁあああああああっ!!」
だから、ソルは逃げた。
凍った人々から、凍ったアンナから、守るべき世界から目を背けて、逃走することを選んだのである。
押し付けられた理不尽に、これ以上は耐えられないと涙を流しながら。
――――こうして、己を弱者と蔑む傭兵が生まれたのだ。
世界を渡り、故郷の世界から少しでも離れた場所へと行くために、ソルは傭兵として数々の戦場を渡り歩く。
幸いなことに、あるいは不幸なことに。ソルは数多の異世界の中でも飛びぬけて強く、傭兵として生きていくには十分過ぎるほどの力を持っていた。
ソルは五百年よりも長い時間を、ただの傭兵として渡り歩く。
途中、冬の女王という超越存在について調べて、凍った人々を元に戻す手段を探し回ったが、成果はほとんど得られない。どんなに高名な魔術師であろうとも……いや、魔術の深淵に近づいた者ほど、超越存在が振るった力には抗えないと断言された。
「そんなことはないっ! 僕は、僕は必ず……世界を、あの子を救ってみせる!」
親切な老魔術師の忠告に、このような啖呵を切ったのはいつのことだっただろうか?
「必ず、必ず、僕は……」
愛する者への誓いが、自分に対する言い訳になったのは、どれだけの戦場を渡り歩いた後だっただろうか?
「…………僕、は」
首から上と、『夜の剣』だけが残った状態で無様に生き残ったのは、何体目の超越存在と交渉しようとした時だっただろうか?
ソルはもう、過去のことをほとんど思い出すことはなくなっていた。
唯一、何度も鮮明に思い出す記憶は、自らを無能だと罵る瞬間と、無様に逃げたその日のものだけ。
やがて、生きていることすら億劫になったソルは、食事を止めて遠回しな自殺をしようとした。しかし、『夜の剣』はそれを許さない。所有者であるソルをいつまでも生かし続けて、本当に楽な方向へとは逃げさせなかった。
「お前さぁ、腹減ってんの?」
少しだけ風向きが変わったのは、壊れかけの教会で、とある孤児――ニコラスと出会った時だった。
ニコラスはあからさまに、ソルを利用しようとして近づいた子供であり、差し出されたパンはその対価だということもわかっていた。それでも、ニコラスのような『助けるべき存在』から、パンを差し出されたのはとても久しぶりだったのだ。
「…………ああ、ありがとう。君には借りができてしまったな……困ったね、これは」
だから、ソルは罪滅ぼしのように、ニコラスたちの用心棒を始めたのである。
そこから先は、言い訳のしようがないほどの現実逃避。
シラノが指摘した通りの代償行為に過ぎない。ニコラスたちストリートチルドレンを助けることで、逃げ出してしまった勇者の役割から、助けられなかったアンナのことから、少しでも目を逸らすための偽善に過ぎなかったのだ。
けれども、その偽善も一年も続けば情が移る。
ソルはソルなりに、ニコラスたちの将来を心配し始めて、どうにか子供たちを真っ当な進路へと導こうと考え始めていた。
そんな時である。ソルが大翔たちと出会ったのは。
大翔は不思議な少年だった。
戦闘能力が皆無の勇者など、ソルの長い人生でも聞いたことすらない。その上、特別な力を持っているわけでもなく、普通に優しくて気の良い少年なのだ。
しばらく共に暮らしてみても、その印象は変わらない。
佐藤大翔は、どこかには居るだろう、という善良な一般市民だ。
だが、それでも大翔は全力だった。明らかに重すぎる使命を背負っているのに、諦めずに立ち向かっていた。
その在り方には、基本的に『恵まれた存在』を妬むニコラスでさえも、最後には別れを惜しむほどには気を許している。
だからかもしれない。
ソルはほんの少しだけ、かつての勇者としての矜持が蘇り、後輩である大翔を助けたくなってしまったのである。
自分は世界を救えなかったけれども、せめて、この後輩だけは使命を果たせるように、と。
しかし、それが鍍金の決意だったことを、ソルは今、思い知らされていた。
「すまない……すまない、アンナ」
幻想領域によって展開された、蜃気楼の試練。
それは、捉えた者の足を引き、停滞を促す悪辣なる罠だ。
従って、ソルの前に現れた蜃気楼は、たった一つの氷像だった。
白銀の世界に、ぽつんと一つだけ残された氷像――ソルが救うべき、愛しい少女。逃げ出してしまった罪の象徴。
「すまない……」
それを目にしてしまえば、ソルはもう駄目だった。
いくら頭で罠だと理解していても、精神攻撃を受けているのだと自覚していても、指一つ動かせなくなってしまう。
この試練は、時に羽毛よりも軽く、時に惑星よりも重い。
どれだけ強い力を持っていようとも、今のソルには抗うことができない試練だった。
蜃気楼を跳ね除ける心を持たないソルは、いつまでも蹲ったまま動けない。壊れた人形の如く、蜃気楼の前で罪を懺悔するだけの肉塊と化していただろう。
「どぅわぁあああああああああああ―――ぶべっ!!?」
――――大翔の精神が、ソルの下に転送されてこなければ。
●●●
二メートルほどの高さから落下した大翔は、無様な格好ではあるが、受け身を取ってゴロゴロとソルの目の前を転がった。
何度も死にそうな目に遭った修行のお陰だろう。大翔は、すぐさま立ち上がって周囲を警戒。ソルの姿を確認すると、安堵の表情を見せる。
ただ、それはそれとして、怒りは忘れていないとばかりに、灰色の空へと向かって吠えた。
「転送が雑ぅ!!」
うがぁ! と、自分よりも遥かに上位の存在に対して文句を叫んだ後、居住まいを直して、ソルへと向き直る。
「待たせたな、ソル! 助けに来たぜ!!」
「???」
この時、ソルの意識は幻想領域に囚われてから初めて、氷像から外れることになった。キメ顔でサムスアップをかます大翔という存在を目の前にして、いつまでもナーバスでいられるほどソルの精神は図太くない。
「あの、ヒロト? 多分、理解できないと思うけど、一応訊くね? 君はどうやってここまで来たのかな?」
「よくわからないファッションセンスの女の子が、試練? を突破したご褒美をくれるって言うからね。とりあえず、ソルの助けに行きたいって願ったら……こうなった?」
「そっかぁ! うん、さっぱりわからない!」
ソルは目の前で起こった珍妙な出来事に、頭を抱えたくなる。何せ、説明をしている大翔すらも、首を傾げながら発言しているのだ。説明されている側ならさらに困惑してしまう。
だから、ソルが理解できたのは、たった一つだけ。
「ともあれ、俺が来たからにはもう大丈夫だ! うん、何がどう大丈夫なのかは説明できないけど! とりあえず、こんなまやかしなんて振り払って、さっさと現実に帰還しようぜ!」
無根拠な自信と共に、手を差し伸べてくる大翔は――この見るからに普通の少年は、やはり勇者なのだろうと。
自分とは違い、勇気ある人なのだと理解してしまったのだ。
「…………ごめん、ヒロト。そうしたいのは山々なんだけど、僕はもう、このまやかしを振り払うことはできない。例え、罠だとわかっていても駄目なんだ」
ソルは劣等感を抱きながら、大翔から目を逸らしてしまう。
逸らした先にあるのは、アンナの姿を象った氷像だ。一時的には気を逸らすことができても、やはりソルにはこの罪を断ち切ることはできない。
少なくとも、ソル自身がそう思い込んでいる限りは。
「ふむ、詳しい話を聞いても?」
もちろん、大翔はその程度では諦めない。この程度の拒絶と諦観に怯むぐらいならば、最初から助けに来ない。
「………………つまらない話になるよ?」
「や、どの道、ソルが試練を突破しないと、俺も現実に戻れないらしいから、聞く以外の選択肢が無いんだよなぁ」
「ちょっと待って? 話を始める前に、これだけは言わせてもらうけど……この、馬鹿!」
年長者の義務として、一度大翔を叱った後、ソルはため息混じりに語りだした。
勇者だった過去。
愛しい少女を守れなかった悔恨。
世界を守る義務から逃げ出した、罪。
そして、世界を無為に流離い、何も為せないままに傭兵として過ごした日々を。
「これでわかっただろう? 僕は、弱い。どれだけ力があっても、どれだけの戦場を越えて来たとしても。世界を救うことを放棄し、たった一人の少女を救うこともできない臆病者が、ソルという男なんだ。勇者失格の、クズ野郎だ」
告解の如く、全てを語り終えたソルは、静かに項垂れた。
「いや、傭兵としても失格か。君を守るはずだったのに、何もできていない。挙句の果てには、足を引っ張る結果になっている……君一人だったら、どうとでもなったはずなのに」
「あの、ソル? 落ち込んでいるところ悪いけど、流石に俺とシラノだけだと、この罠が仕掛けられている場所まで辿り着けなかったと思うんだけど?」
「違う、違うんだ、ヒロト」
戸惑う大翔の言葉を否定するように、ソルの首は横に振られる。
「長い時間、傭兵として世界を渡ったからわかるんだ。君は、力なんかよりも、もっとずっと勇者として大切な資質を持っている」
「大切な資質? えっと、勇気?」
「違う、そんな精神論じゃなくて――――『最終的に物事を上手く行かせる』という、運命的な何かなんだよ。勇者として必要な資質は」
そして、諦観の笑みと共に語られるのは、身も蓋も無い持論。
ご都合主義という、成功した勇者が持つ、運命を味方にするための素質について。
「強いとか、弱いとか、そんなことは関係ないんだ。どれだけ強い勇者でも、運命に見放されれば、あっさりと死ぬ。でも、君は違う。ヒロト、君は運命が味方をしている人間だ。だからきっと、どんな苦難に陥っても、なんとかなったさ……僕が、居なくても」
それは敗北者の理論だった。
長い間、『何が悪かったのか?』と考え続けた結果、運が悪かったと考えるしかなかった者が辿り着いた、身も蓋も無い持論だった。
だが、ソル自身にとっては紛れもない真実である。嘆きと苦悩で、どれだけ眼が曇っていようとも、そう考えなければ、成功者が憎くて仕方がなくなってしまうから。
「……ソル」
大翔は、今にも崩れ落ちそうなソルの肩にそっと手を乗せて、精一杯の優しさを込めた言葉を告げる。
「生存者バイアスって言葉、知ってる?」
「えっ?」
そう、ソルの持論よりもさらに、身も蓋も無い正論を。
「生存者バイアス。それは、生存者の結果のみを基準とすることにより、偏った判断を――」
「いや、わかっている! わかっているよ!? そういう説は僕の世界にあったから知っているけど……えっ!? 今、ここでそんなことを言う!?」
「言うよ。だって、ソルの考え方って明らかにそうじゃん。結果論じゃん。成功した後から、あいつは運命に愛されているとか言われてもねぇ? こっちとしては、ガチで必死に頑張っている途中なわけで……それをこう、運命とかそういうのを持ちだされると、ちょっとなぁ」
「あ、え、ごめん」
はぁああああ、とこれ見よがしに大翔はため息を吐く。
ソルの肩に乗せた手を戻すと、そのまま腕組み状態へと移行した。
「大体さ、仮にね? 俺にそういう素質があったとして? 運命に愛されていたとして? これから先、俺は絶対に大丈夫! 運命に愛されている男なんだ! とか調子に乗ったら、すぐに死にそうじゃない? 死亡フラグじゃん? 大体、そういうのってさぁ、多分、本人が意識していないからこそ宿るものであってさ? 今、こうして教えられた時点で、その資質を失っている可能性すらあるよね?」
「それは…………うん、その通りだと思う。その、ガチでごめん」
「ごめんで済んだら、勇者は要らねぇんだよぉ!!」
気まずそうに目を逸らすソルへ、キレながらも大翔は言葉を続ける。
「というわけでぇ! 今までも、これからも! 俺たちにはソルが必要! オッケェ!?」
「いや、でも、僕は……」
「あー、もう! デリケートな事情だから様子見していたけど! ソルがいつまでもそういう態度なら! 雇い主としてガチ論破していくから、覚悟しろよ!?」
「ガチ論破!?」
大翔はソルの背中を叩き、無理やりにでも背筋を伸ばさせる。
そして、きっちりと自分と視線が合ったのを確認すると、張りのある声で論破を始めた。
「まず、ひとぉーつ! なんか故郷の世界から逃げたとか言っているけどぉ! ぶっちゃけ、その場に居てもやれることはゼロなので! 結果的には大正解! 何も問題なし!」
「そんなこと――」
「というか、そもそも、ソルはどうして冬の女王から受け取った言葉を信じているの? 超越存在みたいな奴らが、まともな仕事をすると思っているの?」
「えっ」
「多分、ソルが指示通りに魔王……恋人を殺しても、世界は元通りにならなかったんじゃない? 仮に世界の凍結が溶けたとしても、まともな生存者はどれだけ残ったと思う?」
大翔の指摘に、ソルは何か反論しようとするが、言葉が出ない。
何故ならば、それは長い流浪の日々の間、悲劇によって歪まされた思考では辿り着けなかった結論だったのだから。
そう、罪悪感があるからこそ、ソルは『自分が悪い』という結論に至る考察しか選べない。そのように思考が歪んでいる。だからこそ、超越存在の言葉に不備や不足がある可能性に気づけずにいたのだ。
「反論が無いなら、論破二つ目ェ! ソルは今までの傭兵生活が無駄だと考えているみたいだけど、それはあり得ない!」
「……なんでそう思う? 僕は長い間流離った癖に、結局、少女一人救い出す方法を見つけ出せなかった屑だよ?」
「はんっ!」
戸惑いながら告げられるソルの自虐。それを鼻で笑った後、大翔は堂々と言い放った。
「俺たちに会えただろうが」
ソルの長い流浪は、自分たちに会うためのものだったのだと。
「……は?」
「おいおい、何を呆けているんだよ、ソル。俺たちはさ、故郷の世界に浸食してきた超越存在を、対話によって退いてもらおうと思っている勇者御一行だぜ? んでもって、故郷の世界に浸食して来た超越存在は二体。夜鯨と――――冬の女王だ」
「――っ!? ヒロト、まさか君は!?」
「おうともさ」
大翔の言葉の意味を、ソルはようやく理解する。
そして、己の認識の誤りを訂正した。
大翔は、運命に愛された勇者などではない。
「大して手間は変わらないんだ。どうせだったら、俺たちの世界、ソルの世界、ソルの大切な女の子―――全部まとめて救ってやらぁ!」
運命すら呆れさせる、生粋のクソ馬鹿野郎なのだと。
「……は、ははは、そんな無茶苦茶な」
ソルは知っている。
超越存在がどれだけ理不尽で、人とまともに意思疎通もできず、思い通りに動かそうとすればするほど、災厄を振りまく存在なのかを。
そんな超越存在との対話。しかも、二体相手の対話だ。それだけでも無謀極まりない試みだというのに、そこからさらに賭け金を釣り上げようというのだ。
馬鹿を越える、クソ馬鹿野郎と言う他ない。
「もちろん、無理も無謀も承知の上だ。好きに笑えばいいさ。だけど、ソル。もしも、もしもだ。少しでも信じてもいいと思えたのなら、俺を手伝ってくれないか?」
「それは……」
「ほら、何せこの通り、馬鹿で無力な勇者だ。メイン戦力であるソルが居てくれないと本当に困る。というか、そもそもソルがこの試練を突破してくれないと、その時点で俺の旅が終わっちゃうんだよなぁ」
「はは、はははっ、君って奴は本当に」
けれども、何故かソルは大翔を否定できなかった。
長い間、傭兵として数多の異世界を渡り歩いた経験を語って、大翔の無謀を諫めることは簡単だった。
大翔から差し伸ばされた手を払うことだって、呼吸するよりも簡単だったはずだ。
だというのに、ソルの視線は大翔から逸らすことができない。
「……なぁ、ヒロト。尊敬すべき、クソ馬鹿野郎」
「おう、ナチュラルに雇い主を罵倒するなよ?」
そればかりではなく、ソルの口は、つい問いかけてしまう。
「僕はもう一度、勇者になってもいいかな?」
長い間ずっと、誰かに答えて欲しかったことを。
問うこと自体が恥だと思っていたことを。
「…………はぁあああああっ」
一方、そんな長い時間を経た問いかけに対する大翔のリアクションは、溜息だった。そんなこともわからないのか、と言わんばかりに盛大に溜息を吐き、ゆっくりと差し出した手を握り込む。
「ガチ論破、最後の奴なんだけどな? 正直、俺にはソルの世界の人たちが何を思うかなんてわからない。代弁することなんてできない。当然、ソルの恋人の気持ちもわからない。俺なんて、所詮は出会ったばかりの人間だ、見当違いをしているかもしれない……それでも、ソルの仲間として、勝手に言わせて貰うのなら――――歯を食いしばれっ!」
そして、目を丸くするソルの横顔へと、思いきり叩き込んだ。
「ソルは! 明らかに! 今まで! ずっと!!」
何度も、何度も、言葉と共にソルへと拳を叩き込む。
皮膚が裂けて、肉が潰れて、骨が軋んでも、言葉を届かせるように、強く。
「勇者だっただろうが!!」
そして、最後に振るわれた全力の一撃により、大翔の拳は完全に砕けた。
「悪徳の街で! 子供たちをずっと守っていた勇者の癖に! 今更、情けないことを言ってんじゃねーよ、ばぁーか!!」
まるで痛くないはずの、無力な勇者からの打撃。
だが、その衝撃は確かに、魂を揺らすだけの威力が込められていて。
「は、ははははっ! そっかぁ、そうだったなぁ……僕は、勇者だったよ」
ソルは、灰色の空を見上げながら高らかに笑うことになった。
無力なはずの拳は、最強の傭兵を殴り倒し――――遠い過去から、一人の勇者を呼び覚ましたのである。
「だったら、少しは格好良いところを見せないとね」
仰向けに倒れたまま、空を仰ぐソルの目は、既に蜃気楼の向こう側へと向けられていた。




