第114話 正しい間違い
三上九郎は、異能者を輩出する特殊な一族の出身である。
時代錯誤で古風な屋敷で育ち、人里離れた山奥で幼少の頃から修行を重ねたエリートだ。
五歳の頃には既に、炎の異能を自分の意のままに動かすことができて。
七歳の頃にはもう、単独で小規模の怪異の焼却をやり遂げていた。
退魔機関に登録されている異能者の中でも、九郎はかなり優秀な素質を持った子供だった。
将来を有望視され、十歳の頃には退魔機関の仕事を受けることができた程度には。
――――けれども、神童や天才と呼ばれるほどではない。
九郎は知っている。
この世界には、比較するのが馬鹿らしいほどの怪物が生まれることもあるのだと。
そして、その怪物の一人が、自分の兄であることも。
九郎の兄は言葉を覚えるよりも先に、異能の扱いを習得して。
三歳になる頃には、街一つを壊滅させようとした鬼人を討伐。
五歳で退魔機関のエージェントとして登録されて。
七歳を過ぎる頃には、ランクAの異能者として周囲から畏敬を集めていた。
それでいて、人格面も嫌味が全くない善人なのだから末恐ろしい。
「いいかい、九郎。誰かに優しくありなさい。退魔に於いて大切なことは、強くあることよりも優しくあることなんだ。誰かに優しくできることに比べれば、僕の力なんて全然大したことはないんだよ」
九郎の兄は、事あるごとにそう言って朗らかに笑う人だった。
強さよりも、優しさだったり、人々の絆に感銘を覚える類の善人だった。
だからこそ、九郎の兄は多くの人に愛された。
その強さに。
その心の在り方に。
進んで他者を助ける姿に、退魔機関の内外から信頼を集めて、一時期はトップエージェントと呼ばれていたほどだ。
九郎はそんな兄が妬ましく、けれどもそれ以上に誇らしく思っていた。
偉大なる兄に恥じないよう、日々の努力を怠らないように過ごしていた。
神童にして鬼才の兄。
優秀な素質を持つ弟。
二人はこのまま育てば、間違いなく退魔機関の柱となる存在となっただろう。
十一歳の夏。
九郎は間違いを犯した。
取り返しのつかない間違いだった。間違えてはいけない問題だった。
きっかけは、よくある『暴走した異能者の排除』という仕事。退魔機関から指令を受けた九郎は、気負うことなくその仕事を請け負った。
当時、九郎は既に、何度も暴走した異能者を排除した実績があった。
小学生程度の年齢で既に、そこら辺の『腕自慢のチンピラ』よりもよほど濃い戦闘経験を積み、殺人経験すら済ませていたのである。
故に、仕事を請け負った九郎だけではなく、仕事を任せた退魔機関すらも『問題なく終わる仕事』だと認識していた。
取り返しのつかない暴走状態である異能者を、いつも通りに殺すだけ。
それだけの仕事のはずだったのだ。
「たすけて、おかあさん」
イレギュラーが発生した。
本来、九郎が殺すのは『異能が暴走した二十代の成人男性』であるはずだった。半グレとして活動し、異能を使って恐喝や強盗を繰り返して来た悪党を殺すはずだった。
けれども、いざ九郎が現場に到着してみれば、本来のターゲットは既に死んでいたのである。
異能を暴走させたターゲットが殺そうとしていた、童女とも呼べる年齢の子供によって。
「たすけて、おかあさん」
死の間際による異能の覚醒。
連鎖的異能暴走。
珍しい事例が二つも重なった、非常に稀な出来事だった。
自分よりも幼い女の子が、空間を軋ませるほどの恐ろしい異能を暴走させている。
退魔機関のマニュアルでは、殺害が推奨されている状況。
あまりにも危険すぎるが故に、暴走が悪化する前に殺さなければならなかった。
「…………お、落ち着いて。大丈夫、大丈夫! 俺は敵じゃない! 君のお母さんだって、すぐに連れてくる! だから――――」
だが、九郎はその童女を助けようとした。
ただの悪党ならばともかく、何も悪くない童女ならば、何とか助けられないかとマニュアルから外れた行動を取ってしまったのである。
それが、取り返しのつかない間違いになるとも知らずに。
――――ガキンッ。
九郎がその童女を助けようと手を伸ばした時、空間が破砕された。
空間操作という強力な異能が暴走した結果、周囲の空間が破砕され、その衝撃で半径一キロメートルが吹き飛ばされたのである。
無論、九郎が助けようとした童女は生きていない。
爆弾の如く弾けて、肉片の一つも残さずに空間の狭間に飲み込まれてしまった。
そして、九郎もまた、その暴走に巻き込まれて死ぬはずだったのだ。
「…………よかった、九郎。お前が無事で」
「――――え、あ?」
兄によって衝撃から庇われなければ。
「な、なん、で?」
兄には下半身が存在していなかった。
とっさに九郎を庇い、その力のリソースを九郎の守護に集中させていた所為か、自身の防御が疎かになっていたらしい。
間違いなく、致命傷だった。
「なんで、ここに?」
致命傷を負っている兄の姿があまりにも衝撃的過ぎて、九郎は場に合わない質問をしてしまう。今、この時に紡ぐのはそんな言葉ではないはずなのに。
「九郎の仕事が、気になって。つい、ね……覗き見はごめん。でも、よかった……」
暢気に質問をしている場合ではないというのに、九郎は青白い顔で微笑む兄から目を離すことができなかった。
目を離した次の瞬間、失われている恐怖に耐えられなかったのだ。
「お前を守れて、俺は幸せだ」
だから、九郎は最後まで見てしまった。
本当に満足そうに微笑みながら死んでいく、たった一人の兄の姿を。
自分よりも優秀で、天才で、神童で。
本来なら、こんなところで失われてはいけないはずの人が、死んでいく様子を。
「う、ううあぁあああああああああ!!!!」
喉が張り裂けんばかりに叫ぶ頃には、兄の瞳から命の光は失われていた。
これが、九郎が犯した取り返しのつかない間違い。
殺すべき時に、殺せなかった。
その後悔は九郎の胸に刻まれることになり、以後の生活では『殺すべき相手』には一切の情をかけなくなった。
退魔機関の規則とマニュアルに従い、最善を尽くすだけの人間になったのだ。
死ぬ必要のない誰かを、一人でも多く守るために。
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「なんか、音無さんが行方不明になったみたい」
「――――は?」
そして現在、九郎は殺すべき相手に対して、再び戸惑いを覚えていた。
もっとも、それは単純なる躊躇いとしてではなく、『あいつなんでそんなことしたの?』という純粋なる困惑も混ざっているのだが。
「…………に、逃げた、ということか?」
九郎は困惑しつつも、何とかそれらしい理屈を口にしてみる。
「冬の魔王という正体がバレたため、我々に殺されないようにするために逃亡した。周囲は魔物に溢れているが、魔人の言葉が真実ならば、彼女を傷つける魔物は居ない。どこへなりとも逃げ出せる」
「冬の権能を使えるのに?」
だが、九郎自身すら信じ切れていないような理屈は、あっさりと大翔によって否定された。
「今の音無さんがその気になれば、割となんだってできるんだよ? 俺たちを一瞬で殺すのはもちろん、拠点に居る全員の、都合の悪い記憶を『凍結』させて思い出さなくすることだって。だから、逃げたという推測は正しくないと思う」
「だったら、一体何故!?」
戸惑い、苛立ちすら含んだ九郎の問いかけ。
「三上君、本当にわからないの?」
それに対して大翔は、責めるような視線で疑問を返した。
いつもの陽気で虚勢に溢れた勇者の言葉ではなく、一人のクラスメイトとして言葉だった。
「…………っ!」
わからない、そう答えようとして、九郎の舌は固まる。
喉はろくに息を吐き出させてくれない。
たった一言、答えるだけで問答は終わるはずなのに、九郎はいつまでも言葉を紡げない。
まるで、自分自身の肉体がその答えを拒絶するかのように。
「――っと、こんなことしている場合じゃないね! いや、割とマジでヤバいかもしれないから、後は任せたから、三上君!」
「え、あ、はっ?」
九郎が固まっていると、大翔は唐突に慌て始める。
さながら、爆弾の導火線が点火されていることを思い出したかのように。
「音無さんのことは俺が何とかするから、拠点の維持をよろしく! ニコラスを置いていくから、魔物から拠点の皆を守ってあげてね! 後は……まぁ、後悔の無いように」
「ちょっ、ま―――」
九郎は呼び止めようと手を伸ばすが、それよりも先に大翔の姿は眼前から消え去った。
転移魔術。
この世界の設定では、使い手が余り少ないはずの高難易度魔術を使用して、大翔は慌ただしく教室内から消え去ったのだ。
「…………くそっ」
一人きりの教室で、九郎は拳を強く握る。
口から吐き捨てた悪態が、大翔に対してのものなのか、ふがいない自分自身に対するものなのか、今の九郎にはそれすらもわからなかった。
当然、九郎が迷おうが世界は時を止めない。
周囲の状況は勝手に流れていく。
「彼女はあまりにも危険過ぎます。早急なる対処を」
真白を見張っていた退魔機関の人間は、脅威の排除を望んだ。
できるかできないかの問題ではない。
真白を殺さなければ世界が滅ぶのならば、その可能性が高いのならば、排除することを選ぶのが退魔機関である。
より多くの人間を活かすため、たった一人を殺す。
そういう判断を幾度も行ってきた秩序の守護者である。
座して滅びを待つよりも、僅かな可能性に賭けて排除を実行するだろう。
――――例え、それすらも世界が滅ぶ危険性が伴うとしても。
何もしなければ、世界は確実に滅ぶのだと知ってしまったが故に。
「まだ完全に覚醒しきっていない内に、決死隊を募ります。三上九郎、貴方は我々が作った隙に乗じて音無真白を殺してください」
退魔機関は九郎に任務を命じる。
いつも通り、世界の秩序を守るため。
いつも通り、無辜の人々を守るため。
規則通りの――――けれども、最善かどうかもわからない任務を命じる。
何故ならば、退魔機関はそうするしかないからだ。
この世界の誰しもが、『確実な最善』を知る術を持たないのだから。
「…………了解。拠点の防衛力を確認した後、『紅蓮の剣』を準備します」
そして、退魔機関の人間である以上、九郎はこの命令を拒めない。
かつて誓った通り、死ななくてもいい人々を守るため、九郎は退魔機関の規則を遵守する。
それが三上九郎という人間だ。
自身が決断しなくとも、組織に命じられれば規則通りに動く。
「しかし、安易な攻撃は、対象の脅威度を無暗に引き上げる愚策でしかありません。攻撃を仕掛けるのならば、佐藤大翔が対象と接触した後でいいでしょう。その方が、排除できる可能性が上がります」
けれども、九郎は命じられてもなお、己の葛藤を消すことはできなかった。
「あるいは…………いえ、何でもありません」
佐藤大翔。
絶望を覆す勇者の言葉を、九郎は切り捨てられずにいた。




